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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第三章 蝿の王編

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第214話 殺戮の姫君より【優】──優しさの形をした罪

 紅茶の湯気が、天井の模様に溶け込む。

 窓の外では、曇天の光がわずかに揺れ、どこかで誰かがページをめくる音がした気がした。

 けれど、ここには三人しかいない。

 乃々は、自分の椅子の脚の下にだけ影がないことに気づいた。


「中学に入っても、君はずっとそばにいてくれた」


 翔太の声は、まるで水の中から響くようだった。

 制服の襟の匂い、雨の放課後、渡り廊下の午後の光――いくつもの断片がいっせいに浮かぶ。

 乃々の心臓が、ゆっくりと跳ねた。


「中一のころよね。翔太くんが少しずつ笑えるようになったのは」


 美優がカップを持ち上げる。

 紅茶の蒸気を透かす指先は、半透明に見えた。


「……どうして」


 まただ、と乃々は思う。

 「知ってるの?」までは、声にならない。

 ついさっきまで“夢”みたいだったやさしさが、急に現実に寄ってくる。


「正確には、中一の夏。海へお誘いになった頃でございます」


 デルが答えた。

 銀のポットを置く音が、ガラス越しに響くように高く澄む。

 乃々は肘掛けをつかんだ。指の跡が少しだけ残る。


 照り返す砂、海風の匂い、浮き輪の赤。

 ──弟の笑い声。


 息が止まる。


「乃々ちゃんは、ほんとうに優しかった」


 美優の声が、波打ち際の泡みたいに静かに重なる。


「忘れ物を届けた日も、泣いてた子を抱きしめた日も、風邪をひいた子にノートを貸してた日も」


 翔太が続ける。


「僕は見てたよ。教室の隅で。君はいつも、人の痛みを自分のものみたいに感じてた」


 乃々は視線を伏せた。


「やさしさって、すごいことよね」美優が言う。

「自分が傷つくってわかっていても、やめられないもの」

「君はそうやって、痛みを集めてきた」翔太の声。

「優しい人は、痛みを集めるのが上手なんだ。自分では気づかないだけで」


 乃々は黙っていた。

 まぶたの裏に、見たこともない“夏の日”が映る。

 自分の記憶のはずなのに、どこか他人の夢を覗いているようでもあった。


「ねえ、乃々ちゃん」


 美優が静かに微笑む。


「あの頃から変わってないね。優しいところ」

「そう。僕なんかよりずっと」翔太が言う。

「君は、誰よりも正しい。誰よりも、きれいな心をしてる」


 乃々の瞳が潤む。

 胸の奥に温かい何かが広がっていく。

 ――なのに、なぜか苦しかった。


「ありがとう……」


 その言葉が出る前に、美優と翔太が目を合わせた。

 互いに、何かを確かめ合うように笑っている。


 その笑顔が、乃々にはひどく遠く感じられた。

 その距離を測ろうとして、胸の奥がきゅっと痛む。


「紅茶のおかわりを」


 デルの声が響く。


「甘い方が、お好きでしたね?」


 彼女の指がポットを傾ける。

 紅茶が注がれる音が、水面の上を歩くように軽やかに響いた。


「……ありがとうございます」


 乃々は、ほとんど自動的に礼を言っていた。

 翔太が微笑む。


「乃々は、本当に変わらないね。優しいままだ」

「その優しさが、みんなを救ってくれたのよ」美優が囁く。

「ねえ、覚えてる? 体育館の裏で泣いていた子。手に擦り傷ができてたのに、あなた、絆創膏を分けてあげた」

「……あれは……」

「そして次の日、あの子はもう学校に来なくなった」


 美優の声が淡々と落ちる。

 そのひと言だけが、紅茶よりも熱く、鋭く、乃々の心に沈んでいく。


「そんなことまで……覚えてるの?」

「忘れるわけないわ」


 美優の笑みはやさしいが、瞳は静まり返っていた。


「だって、あなたのやさしさは“記録”されているもの」

「記録……?」

「ええ。時間の底に」翔太が応える。「僕らはただ、それを再生しているだけなんだ」


 デルの指先がティースプーンを鳴らす。

 金属音が、目に見えるほどくっきりと空気を裂いた。


「ねえ、乃々ちゃん。優しさって、時々、残酷でしょう?」

「え……」

「忘れられないのは罪。忘れないようにするのも、罪。ね?」


 デルの声が重なる。


「乃々さまは、どちらの罪を選ばれたのでしょう」


 乃々は息を詰めた。

 その瞬間、部屋の空気が変わる。

 床がわずかに波打つように見えた。


「……わからない」


 自分の声が、自分のものではないように響く。


「ボクは、ただ……みんなに優しくしたかっただけで……」

「そうね」美優が微笑む。

「でも、優しさはときに罠になるの。誰かを守ろうとすると、誰かがこぼれる」

「こぼれる?」

「ええ」翔太が言う。「紅茶みたいに。こぼれて、跡を残す」


 デルが再びカップを差し出す。


「こぼれた紅茶は、冷める前にお召し上がりくださいませ。温かいうちが、一番美味しゅうございます」


 乃々は、カップを取った。

 液面に映る自分の顔が揺れている。


「君は優しいよ、乃々」


 翔太が囁く。


「でもね、優しさは、形を変えれば罰になる」

「罰……?」

「うん。君は知らないうちに、それを選んだんだ」


 その意味を飲み込む前に、デルがティーカップを指で叩いた。

 澄んだ音。

 カップの縁に紅茶のしずくが一粒、落ちる。


 その雫が、逆さに昇っていく。

 まるで時間を巻き戻すように。


 そして――


 時計の針が、音もなく逆回転を始めた。

 甘かったはずの紅茶の香りが、焦げついた過去の匂いに変わっていく。


 乃々は、ゆっくりと笑った。

 それは、自分でも知らない顔だった。

 口元だけが笑っている。頬の奥では、何かが軋む。


 その瞬間、壁の時計が一度だけ跳ね、

 秒針が同じ位置を三度打つ。


 世界が進まないまま、乃々の時間だけが動き出した。


 その胸の奥では――“嫉妬”という針が、確かに動きはじめていた。

 静かに。

 けれど、取り返しのつかない速さで。

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