第214話 殺戮の姫君より【優】──優しさの形をした罪
紅茶の湯気が、天井の模様に溶け込む。
窓の外では、曇天の光がわずかに揺れ、どこかで誰かがページをめくる音がした気がした。
けれど、ここには三人しかいない。
乃々は、自分の椅子の脚の下にだけ影がないことに気づいた。
「中学に入っても、君はずっとそばにいてくれた」
翔太の声は、まるで水の中から響くようだった。
制服の襟の匂い、雨の放課後、渡り廊下の午後の光――いくつもの断片がいっせいに浮かぶ。
乃々の心臓が、ゆっくりと跳ねた。
「中一のころよね。翔太くんが少しずつ笑えるようになったのは」
美優がカップを持ち上げる。
紅茶の蒸気を透かす指先は、半透明に見えた。
「……どうして」
まただ、と乃々は思う。
「知ってるの?」までは、声にならない。
ついさっきまで“夢”みたいだったやさしさが、急に現実に寄ってくる。
「正確には、中一の夏。海へお誘いになった頃でございます」
デルが答えた。
銀のポットを置く音が、ガラス越しに響くように高く澄む。
乃々は肘掛けをつかんだ。指の跡が少しだけ残る。
照り返す砂、海風の匂い、浮き輪の赤。
──弟の笑い声。
息が止まる。
「乃々ちゃんは、ほんとうに優しかった」
美優の声が、波打ち際の泡みたいに静かに重なる。
「忘れ物を届けた日も、泣いてた子を抱きしめた日も、風邪をひいた子にノートを貸してた日も」
翔太が続ける。
「僕は見てたよ。教室の隅で。君はいつも、人の痛みを自分のものみたいに感じてた」
乃々は視線を伏せた。
「やさしさって、すごいことよね」美優が言う。
「自分が傷つくってわかっていても、やめられないもの」
「君はそうやって、痛みを集めてきた」翔太の声。
「優しい人は、痛みを集めるのが上手なんだ。自分では気づかないだけで」
乃々は黙っていた。
まぶたの裏に、見たこともない“夏の日”が映る。
自分の記憶のはずなのに、どこか他人の夢を覗いているようでもあった。
「ねえ、乃々ちゃん」
美優が静かに微笑む。
「あの頃から変わってないね。優しいところ」
「そう。僕なんかよりずっと」翔太が言う。
「君は、誰よりも正しい。誰よりも、きれいな心をしてる」
乃々の瞳が潤む。
胸の奥に温かい何かが広がっていく。
――なのに、なぜか苦しかった。
「ありがとう……」
その言葉が出る前に、美優と翔太が目を合わせた。
互いに、何かを確かめ合うように笑っている。
その笑顔が、乃々にはひどく遠く感じられた。
その距離を測ろうとして、胸の奥がきゅっと痛む。
「紅茶のおかわりを」
デルの声が響く。
「甘い方が、お好きでしたね?」
彼女の指がポットを傾ける。
紅茶が注がれる音が、水面の上を歩くように軽やかに響いた。
「……ありがとうございます」
乃々は、ほとんど自動的に礼を言っていた。
翔太が微笑む。
「乃々は、本当に変わらないね。優しいままだ」
「その優しさが、みんなを救ってくれたのよ」美優が囁く。
「ねえ、覚えてる? 体育館の裏で泣いていた子。手に擦り傷ができてたのに、あなた、絆創膏を分けてあげた」
「……あれは……」
「そして次の日、あの子はもう学校に来なくなった」
美優の声が淡々と落ちる。
そのひと言だけが、紅茶よりも熱く、鋭く、乃々の心に沈んでいく。
「そんなことまで……覚えてるの?」
「忘れるわけないわ」
美優の笑みはやさしいが、瞳は静まり返っていた。
「だって、あなたのやさしさは“記録”されているもの」
「記録……?」
「ええ。時間の底に」翔太が応える。「僕らはただ、それを再生しているだけなんだ」
デルの指先がティースプーンを鳴らす。
金属音が、目に見えるほどくっきりと空気を裂いた。
「ねえ、乃々ちゃん。優しさって、時々、残酷でしょう?」
「え……」
「忘れられないのは罪。忘れないようにするのも、罪。ね?」
デルの声が重なる。
「乃々さまは、どちらの罪を選ばれたのでしょう」
乃々は息を詰めた。
その瞬間、部屋の空気が変わる。
床がわずかに波打つように見えた。
「……わからない」
自分の声が、自分のものではないように響く。
「ボクは、ただ……みんなに優しくしたかっただけで……」
「そうね」美優が微笑む。
「でも、優しさはときに罠になるの。誰かを守ろうとすると、誰かがこぼれる」
「こぼれる?」
「ええ」翔太が言う。「紅茶みたいに。こぼれて、跡を残す」
デルが再びカップを差し出す。
「こぼれた紅茶は、冷める前にお召し上がりくださいませ。温かいうちが、一番美味しゅうございます」
乃々は、カップを取った。
液面に映る自分の顔が揺れている。
「君は優しいよ、乃々」
翔太が囁く。
「でもね、優しさは、形を変えれば罰になる」
「罰……?」
「うん。君は知らないうちに、それを選んだんだ」
その意味を飲み込む前に、デルがティーカップを指で叩いた。
澄んだ音。
カップの縁に紅茶のしずくが一粒、落ちる。
その雫が、逆さに昇っていく。
まるで時間を巻き戻すように。
そして――
時計の針が、音もなく逆回転を始めた。
甘かったはずの紅茶の香りが、焦げついた過去の匂いに変わっていく。
乃々は、ゆっくりと笑った。
それは、自分でも知らない顔だった。
口元だけが笑っている。頬の奥では、何かが軋む。
その瞬間、壁の時計が一度だけ跳ね、
秒針が同じ位置を三度打つ。
世界が進まないまま、乃々の時間だけが動き出した。
その胸の奥では――“嫉妬”という針が、確かに動きはじめていた。
静かに。
けれど、取り返しのつかない速さで。




