第213話 殺戮の姫君より【赦】──やさしさの仮面
第213話
曇天の光に薄く包まれた霧の中の部屋。白いクロスのテーブル、銀のポットから立ちのぼる紅茶の香りが、雨上がりの気配を連れてくる。
その向かいで、翔太が椅子に腰かけている。
まるで何事もない顔で、ティーカップを傾けながら、匙の微かな触れ合いが時刻より先に時を進めていた。
当たり前のようにそれを見ていた乃々だったが、やがてハッとその違和感に気づく。
「え? どうして君たちが……」
思わず声が跳ねそうになる。
そんな乃々の言葉に、翔太はこれまで見せたことがないような笑顔で答えた。
「どうしてって、乃々が呼んだんじゃないか」
「……え?」
耳の奥がきゅっと鳴る。
隣には美優が座り、その横にはデルピュネー。
美優はいつもの制服姿。デルは黒のメイド服に白のエプロン、髪飾りには銀の小さな鈴。
すべてが、あまりにも整いすぎていた。
「おはようございます、乃々さま。さあお茶でございますよ」
デルが柔らかく微笑み、席から立つと、乃々のカップへと紅茶を注ぐ。
その湯気が、影のようにわずかに遅れて立ちのぼった。
香りが空気に広がるよりも先に、音がひとつ、ふっと鳴った気がした。
「え……ちょ、ちょっと待って。さっきまでボク――」
思わず立ち上がろうとする乃々に、「まあまあ、座って」と美優がカップを差し出す。
仕草は自然で、どこか姉のような穏やかさ。
「せっかくだし、少しお茶でも飲みましょう? ほら、冷めちゃうわ」
「……どういうことなの……?」
「難しく考えないで」
翔太が軽く笑う。
「乃々は昔からそうだよな。真面目で、すぐ首をかしげる」
「そんなこと――なかったと思うけど」
気づかなかった自分のクセを指摘されて驚く。
確かに言われてみれば、そうだった……かも。
「ほら、乃々ちゃん」
美優が三段トレイを回してくる。
上段にはスコーン、下段には苺のヴィクトリアサンド。
ふわりと漂う甘い香りに、乃々の指が止まる。
「ヴィクトリアサンド。好きだったでしょ?」
「……!」
それは子どもの頃からの乃々の大好物。
父の仕事の関係でイギリスにいた頃から、好きだった味。
けれど――それを美優が知るはずがない。
喉の奥に言葉が詰まり、視線が泳ぐ。
美優はそんな乃々にお構いなしに、紅茶を注ぎ足す。
「さあ?」と肩をすくめて微笑みながら。
もしかして翔太が話したのか? そう思って顔を見ると、翔太は目を細めて首を振った。
「俺? いや、俺じゃないよ。俺は美優にそれについて話したことはない」
「だったら、どうして!?」
「乃々さま、はしたのうございますよ」
デルがピシャリと止めた。
「ここは人を疑う場ではございません。お茶を楽しむ場でございます」
「そ、そんなこと……」
反論したくても、できない。
まるで見えない力に押さえつけられているようだった。
翔太は笑みを深める。
「でも……転校してきた日のことなら、覚えてる」
「え……?」
「教室の隅で黙ってた僕に、最初に話しかけてくれたのは――乃々だった」
息が止まる。
放課後の雨の匂い、蛍光灯のちらつき、濡れた上履きの感触。
閉じていた記憶の扉が、曇天の光を透かして、ゆっくりと開いていく。
「そんな……ずっと前の話、覚えていてくれたのかい?」
「大事なことは、忘れないものだよ」
翔太の目がやさしく笑う。
けれど、その奥のどこかに“見えない深さ”が潜んでいた。
「当時、いじめを止めたでしょ。救ってくれたのが乃々だ。君が庇ってくれたんだ」
美優が言葉を重ねる。
「あの時の顔、忘れられないわ。乃々ちゃん、すごく必死だったもんね。あんなに命をかけるような表情をする小学生なんて、あんまり見ないわよ」
「……美優さん……どうして?」
乃々の頭が混乱していく。
デルが柔らかくカップを置く。
「乃々さまは、いつでもお優しい方でございます。甘いものも、紅茶も、お好きでしたね」
「そ、そんな……。みんなで、どうしてそんなに……」
「乃々」ち翔太が静かに笑う。「考えなくていいよ。ここでは、何も難しいことはない。難しいことなんて、存在しないんだ」
言葉のリズムが、波のように押しては返す。
不安が、少しずつ溶けていく。
まるで眠る前の、ぬるい夢のように。
──その瞬間、窓辺のカーテンが風もないのに揺れ、
壁の時計が“L-09:13”を示した。
<CODE:LOKI-09.13.∞>
その刻印は、紅茶の影に一瞬だけ浮かび、すぐに消えた。
思わず目を腕でゴシゴシとこする乃々。
「……ねえ、翔太。これって、夢なの?」
思わず頓狂な声を上げてしまった。
これに翔太は冷静に答える。
「夢だと思えば、そうなんだろうな」
その声が乃々にはやたらと遠くから聞こえているように感じた。
「じゃあ、現実?」
「現実だと思えば、そうなんだろう。そうじゃなければ現実じゃない。でも、それを追いかけても悲劇しか待っていない。真実はね、乃々。いつだって人を幸せにはしないものなんだよ」
意味が通っていないのに、不思議と心地よかった。
不思議であること自体が、さらに別の不思議へと溶けていった。
とりあえず、乃々はゆっくりと息をついた。
カップの紅茶はちょうど良い温度。
苺のクリームが舌の上でやさしく溶けた。
「美味しい……」
「でしょ?」美優がにこりと笑う。
「中学の頃も、よく食べてたじゃない。ほら、休日の昼下がり。帰り道の角のアフタヌーンティのお店で。いつもご両親と一緒に。あの頃の弟くんは、まだ小さかったわよね」
「……!」
乃々の指が止まる。
今、この子、なんて言った?
「弟……って、どうして知ってるの?」
翔太もデルも、何も言わない。
ただ、紅茶の香りが静かに漂う。
次の瞬間、デルがそっと囁いた。
「乃々さま、紅茶をどうぞ。もう少しで、香りが開きます」
――その声はやわらかいのに、どこか底がない。
乃々の喉が震えた。
湯気が逆光の中でゆらめき、そこに“海の底の色”が見えた気がした。
「ねえ、美優さん」
「なあに?」
「どうして、そんなことまで知ってるんだい? ボク、そんなことまで話しちゃいないじゃないか。だってボクたち、会ったばかりなのに。なのにどうして……」
美優は、静かに微笑んだ。
「知ってるも何も、弟さんを“殺した”のはあなたじゃない。そんな大事なこと、どうして私が知らないの? 私は全部、知っているわ。だって、私は翔太くんを守るためにここにいるんだもの」
紅茶の表面が、音もなく裏返る。
乃々の目が見開かれた。
──ボクが、弟を……“殺した”?
三人の笑い声が、ゆるやかに重なっていく。
テーブルの上の銀食器が、ひとりでに震えた。
カーテンの外、曇天の雲が裏返る。
紅茶の波紋が静かに広がり、
乃々の世界が――ゆっくりと、反転していく。
その視界に、何やらまた、不思議なデジタル文字がひらめいた。
ERROR: ACCESS-POINT//BREACH
SIGNAL_LOKI::CONNECTED
ECHO[YOU]: "SHALL WE PLAY?"
LOKI> INITIATE MEMORY REVERSE
ERROR: TRACE_LIMIT=∞
ERROR: YOU ≠ YOU
ECHO: “そのやさしさ、だれのため?”
ERROR: EYE_CONFLICT::SHOTA
ERROR: GUILT_OVERFLOW
ERROR: GUILT_OVERFLOW
ERROR: GUILT_OVERFLOW
LOKI> smile=True
LOKI> "赦しとは、最も美しい罰だよ。"
ERROR: LOOP_DETECTED
ERROR: LOOP_DETECTED
ERROR: LOOP_DETECTED
<EXTRA CODE: TRICKSTER>
E̷R̴R̶O̵R̸:̷ ̴P̸E̶R̵S̶O̷N̶A̴L̸I̵T̴Y̶ ̶S̵P̴L̶I̵T̸
LOKI> //「さあ、どちらの“君”を残す?」//




