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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第三章 蝿の王編

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第212話 殺戮の姫君より【幻】──落下する空

第212話


 ガタガタ揺れ続けるテーブル。

 風が逆に吹き始める。

 紅茶の表面に映った灯りが、下から滲むように渦を巻いて揺れる。

 その渦はまるで、乃々の思考そのものを映し出す鏡のようだった。


「姫よ。我が姫君よ! 君は、今の“現実”を信じているのか!」


 ロキの声は、笑っていた。恫喝しているのに高らかに笑って聞こえた。

 言葉の端には、きしむ金属のような振動がある。


「なぜ、その“現実”が、単なる夢の続きだと思わぬ!」

 

 その言葉に乃々は頬を撫でる風の温度を確かめた。

 ぬるい。夢にしては、あまりにも生々しい。だが現実にしては、あまりにも手応えがない。


「ボクは……信じたい、と思う」

「“信じたい”というのは、“信じていない”ことだ」

「そんなの、分からない……」

「“分からない”というのは、実は“分かっている”ということだ」

「そんな言い方……ずるい」

「ずるいとも。だが、ずるさを知る者だけが恐るべき神になれる。我はその証明だ。北欧で最も恐れられ、簡単に触れてはならぬ脅威の神となった者。現に我は、神々の宴へ侵入し、やつらの過去の罪や恥辱を一人ずつ暴きたて、善神づらした偉そうな神ども……オーディンやフレイヤ、ヤツらの“夢”を巧みに“現実”に帰してやったわ。侮辱し、“現実”など火の海となると予言してやったわ!」


 その瞬間、濃霧の壁がわずかに震えた。

 まるで呼吸しているかのようだ。

 薔薇模様の一枚一枚が膨らみ、それぞれが吐息を立てる。


 乃々は目を閉じた。

 頭の奥が軋む。

 ──歯車のような音。歯車がバラバラになったまま、それでも回り続ける物理法則を無視した機械仕掛け。それは記憶だ。乃々の記憶が、脳の思考の中でデタラメにつながり、デタラメに回転していく。噛み合わない。なのに回る、回る。動く、動いていく。


 音の中に、声が混ざる。

 母の声。父の声。

 夜の交差点、雨、傘の縁。


「危ないっ!」という叫び。

 その直後に、何かが“撥ねた”。

 世界が白く弾ける。


 紅茶の中に光が差した。

 車のヘッドライトだ。

 逆光の中、翔太の影が現れる。

 目の前から大きなトラックが間近に迫ってくる──!


「これは……この記憶は何……!?」

「ほう、リンクしたか」ロキが囁く。

「彼は、あの夜、両親を犠牲にし──妹を救った」


 乃々の唇が乾く。

 何も言えない。

 息をするたび、肺に砂が入るよう。


 翔太の肉体そのものから湧き出した“破壊”の影が、逆に翔太自身と妹の芽瑠を庇う。

 正面衝突。金属が爆ぜ、歪み、軋む音。衝撃、爆風、竜巻のように回る景色。


 乃々の脳内の風に吹かれたのか、乃々の紅茶の表面にさざ波が起こる。

 車はねじれ、街が折れる。

 白光ののち、雨粒が横に落ちた。


 今見ている光景と、心の中でつながった翔太の記憶とが区別不能なほどに混ざり合う。

 信号機が逆さに垂れ下がり、空の底にアスファルトが沈み、紅茶のさざ波の音が『世界の終わり』と低い唸り声となった。


 景色のすべてが、“堕ちる”。


「世界とは、“堕ちる”ためにある

 ……そう思わないか?」


 ロキの姿はもうない。

 ただ声が、空の奥から、その空を覆う濃霧の中から響いた。


「浮かび続ける夢なんて、この世にありはしない。君の信仰も、希望も。全部“堕ちる”。現実と虚実が入り混じり、ゆえにこの世はおかしくなった。それを壊すのが我の楽しみだ。──『ラグナロク』」

「ら? らぐなろく? だって?」

「それはこの水城の『受胎』から始まる!」

「やめて……」乃々は首を振った。

「ボクは何も分からない!」


 ロキの笑い声が、今度は乃々の紅茶の渦から響き渡った。


「なあ、姫君よ。今のお前なら見えるはずだ。この世の未来が」

「……み、未来……?」

「でも、見ないようにしているんだろう? 翔太が壊れていく姿を。世界が折れていく瞬間を。空が音を立て堕ちていく姿を。その可能性に君は、目を閉じている。耳をふさいでいる」


 その声に合わせて、紅茶の表面がパンッと破れた。

 そこから黒い羽が生えてきた。

 羽は光を吸い、空を覆い尽くしていく。


 それは巨大な影。その影が、街を次々と呑み込んでいく。

 学校も、港も、夕焼けの観覧車も。

 ひとつずつ、ガラガラと音を立て、悲鳴とともに次々と沈んでいく。

 まるで世界が、影の中に帰っていくみたいに。

 影こそが、この世すべてを創り出した親かのように。


 乃々は息を呑んだ。

 だがそれは恐怖ではなく、懐かしさだった。

 どうして、涙が出るんだろう。

 滅びは美しかった。

 黒い影の中で、みんな眠っているように穏やかだった。


 そして、巨大すぎるその影。


 そこからは、明らかに翔太のにおいがした──。


「そうだ、それが“救い”だ。お前が見なかった、見ようとしなかったものだ」


 ロキの声は耳元に落ちてくる。


「滅びは恐ろしい? 違う。滅びは“安らぎ”だ。

 お前はそれをもう知っている。だって、お前は彼を愛しすぎている」

「ボ、ボクが……翔太くんを……!」

「救われたのか? 壊されたのか?」


 ──分からない。何を言っているか、全然、分からない!


「目覚めよ!」


 一際大きなロキの恫喝がこの茶の会場を震わせた。


「我が姫君よ、お前は、彼を信じた。

 だが信じるということは、同じ地獄に立つということ」

「地獄なんて、知らないやいっ……!」

「いや。もう見ている。お前は見えているんだ」


 紅茶の表面が再び開いた。

 そこに、事故現場が映っていた。


 ──雨の中、砕けた車体の隙間から翔太が這い出てくる。

 泥と血にまみれた少年が、両手でガラスを払いのけ、

 中にいる芽瑠を引きずり出していた。


 顔が、笑って見えた。

 いや、違う。正確には、“影”だけが笑っていたのだ!


 その“影”の背中から、何かが伸びていた。

 翼とも、腕ともつかない。

 夜そのもの。闇そのものの羽ばたき。


「やめて!」乃々が叫ぶ。

「もう十分よ!」

「夢は現実のもうひとつの翻訳だ。

 ──翻訳者は、たまに原文より正確。

 我は、その翻訳者としてお前を呼んだ、姫君よ」


 ロキの声がゆっくりと低くなっていく。

 紅茶のカップが割れ、破片が宙に浮いた。

 破片のひとつひとつに、異なる世界が映っている。

 港、教会、学校、夜の海──全部、滅び去り、廃墟となっている。

 黒い煙があちこちでもうもうと上がる。

 子どもの泣き声が聞こえる。


 嫌だ、もう聞きたくない。もう……。


「君は、翔太を信じると言ったね。

 でも、信じることは、従うことだ。

 従うことは、形を失うこと。

 形を失えば、痛みも消える」


 乃々はさっきから立ち上がろうとしていた。

 だが足が動かなかった。

 路面が、柔らかすぎた。

 そして無数の指が、彼女の足首を掴んでいるのが見えた。


(え? 指……?)


 影の風に髪をなびかせながら、まるで舞踏会の主のようにロキは言う。


「落ちていくとき、人はようやく真実を見る。

 それが、信仰の正体!」


 その声に触れた瞬間、世界が反転した。


 上と下が入れ替わり、光が音になる。

 街が、音楽のように分解されていく。

 家々は鍵盤、道路は五線譜、夜は譜面。

 すべてが鳴りながら、消えていく。


 乃々の記憶もまた、音になって散る。


 紅茶の香りが遠ざかる。

 音も、色も、名前も。

 世界の意味が、少しずつ削がれていく。


 そして、すべてが静止した。

 そして鎮まった紅茶の渦の中心に、三つの影が写っていた。

 それは。


 北藤翔太。

 海野美優。

 デルピュネー。


 ──え?


 気づくと、茶会のテーブルに、翔太と美優、そしてデルピュネーが座っている。

 彼らは同じ角度で微笑んでいる。

 まるで、最初からそこにいたように。この濃霧の中のドームに、いるのは当然だといわんばかりに。


 乃々の唇がかすかに動いた。

 声にはならなかった。

 ──ただ、風の音が、紅茶の表面で止まった。

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― 新着の感想 ―
夢か現実かわからない中の恐怖を味わえました。混沌とした中で、見つけたのが、茶会のテーブルに集まる3人でゾクッとしました。
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