第212話 殺戮の姫君より【幻】──落下する空
第212話
ガタガタ揺れ続けるテーブル。
風が逆に吹き始める。
紅茶の表面に映った灯りが、下から滲むように渦を巻いて揺れる。
その渦はまるで、乃々の思考そのものを映し出す鏡のようだった。
「姫よ。我が姫君よ! 君は、今の“現実”を信じているのか!」
ロキの声は、笑っていた。恫喝しているのに高らかに笑って聞こえた。
言葉の端には、きしむ金属のような振動がある。
「なぜ、その“現実”が、単なる夢の続きだと思わぬ!」
その言葉に乃々は頬を撫でる風の温度を確かめた。
ぬるい。夢にしては、あまりにも生々しい。だが現実にしては、あまりにも手応えがない。
「ボクは……信じたい、と思う」
「“信じたい”というのは、“信じていない”ことだ」
「そんなの、分からない……」
「“分からない”というのは、実は“分かっている”ということだ」
「そんな言い方……ずるい」
「ずるいとも。だが、ずるさを知る者だけが恐るべき神になれる。我はその証明だ。北欧で最も恐れられ、簡単に触れてはならぬ脅威の神となった者。現に我は、神々の宴へ侵入し、やつらの過去の罪や恥辱を一人ずつ暴きたて、善神づらした偉そうな神ども……オーディンやフレイヤ、ヤツらの“夢”を巧みに“現実”に帰してやったわ。侮辱し、“現実”など火の海となると予言してやったわ!」
その瞬間、濃霧の壁がわずかに震えた。
まるで呼吸しているかのようだ。
薔薇模様の一枚一枚が膨らみ、それぞれが吐息を立てる。
乃々は目を閉じた。
頭の奥が軋む。
──歯車のような音。歯車がバラバラになったまま、それでも回り続ける物理法則を無視した機械仕掛け。それは記憶だ。乃々の記憶が、脳の思考の中でデタラメにつながり、デタラメに回転していく。噛み合わない。なのに回る、回る。動く、動いていく。
音の中に、声が混ざる。
母の声。父の声。
夜の交差点、雨、傘の縁。
「危ないっ!」という叫び。
その直後に、何かが“撥ねた”。
世界が白く弾ける。
紅茶の中に光が差した。
車のヘッドライトだ。
逆光の中、翔太の影が現れる。
目の前から大きなトラックが間近に迫ってくる──!
「これは……この記憶は何……!?」
「ほう、リンクしたか」ロキが囁く。
「彼は、あの夜、両親を犠牲にし──妹を救った」
乃々の唇が乾く。
何も言えない。
息をするたび、肺に砂が入るよう。
翔太の肉体そのものから湧き出した“破壊”の影が、逆に翔太自身と妹の芽瑠を庇う。
正面衝突。金属が爆ぜ、歪み、軋む音。衝撃、爆風、竜巻のように回る景色。
乃々の脳内の風に吹かれたのか、乃々の紅茶の表面にさざ波が起こる。
車はねじれ、街が折れる。
白光ののち、雨粒が横に落ちた。
今見ている光景と、心の中でつながった翔太の記憶とが区別不能なほどに混ざり合う。
信号機が逆さに垂れ下がり、空の底にアスファルトが沈み、紅茶のさざ波の音が『世界の終わり』と低い唸り声となった。
景色のすべてが、“堕ちる”。
「世界とは、“堕ちる”ためにある
……そう思わないか?」
ロキの姿はもうない。
ただ声が、空の奥から、その空を覆う濃霧の中から響いた。
「浮かび続ける夢なんて、この世にありはしない。君の信仰も、希望も。全部“堕ちる”。現実と虚実が入り混じり、ゆえにこの世はおかしくなった。それを壊すのが我の楽しみだ。──『ラグナロク』」
「ら? らぐなろく? だって?」
「それはこの水城の『受胎』から始まる!」
「やめて……」乃々は首を振った。
「ボクは何も分からない!」
ロキの笑い声が、今度は乃々の紅茶の渦から響き渡った。
「なあ、姫君よ。今のお前なら見えるはずだ。この世の未来が」
「……み、未来……?」
「でも、見ないようにしているんだろう? 翔太が壊れていく姿を。世界が折れていく瞬間を。空が音を立て堕ちていく姿を。その可能性に君は、目を閉じている。耳をふさいでいる」
その声に合わせて、紅茶の表面がパンッと破れた。
そこから黒い羽が生えてきた。
羽は光を吸い、空を覆い尽くしていく。
それは巨大な影。その影が、街を次々と呑み込んでいく。
学校も、港も、夕焼けの観覧車も。
ひとつずつ、ガラガラと音を立て、悲鳴とともに次々と沈んでいく。
まるで世界が、影の中に帰っていくみたいに。
影こそが、この世すべてを創り出した親かのように。
乃々は息を呑んだ。
だがそれは恐怖ではなく、懐かしさだった。
どうして、涙が出るんだろう。
滅びは美しかった。
黒い影の中で、みんな眠っているように穏やかだった。
そして、巨大すぎるその影。
そこからは、明らかに翔太のにおいがした──。
「そうだ、それが“救い”だ。お前が見なかった、見ようとしなかったものだ」
ロキの声は耳元に落ちてくる。
「滅びは恐ろしい? 違う。滅びは“安らぎ”だ。
お前はそれをもう知っている。だって、お前は彼を愛しすぎている」
「ボ、ボクが……翔太くんを……!」
「救われたのか? 壊されたのか?」
──分からない。何を言っているか、全然、分からない!
「目覚めよ!」
一際大きなロキの恫喝がこの茶の会場を震わせた。
「我が姫君よ、お前は、彼を信じた。
だが信じるということは、同じ地獄に立つということ」
「地獄なんて、知らないやいっ……!」
「いや。もう見ている。お前は見えているんだ」
紅茶の表面が再び開いた。
そこに、事故現場が映っていた。
──雨の中、砕けた車体の隙間から翔太が這い出てくる。
泥と血にまみれた少年が、両手でガラスを払いのけ、
中にいる芽瑠を引きずり出していた。
顔が、笑って見えた。
いや、違う。正確には、“影”だけが笑っていたのだ!
その“影”の背中から、何かが伸びていた。
翼とも、腕ともつかない。
夜そのもの。闇そのものの羽ばたき。
「やめて!」乃々が叫ぶ。
「もう十分よ!」
「夢は現実のもうひとつの翻訳だ。
──翻訳者は、たまに原文より正確。
我は、その翻訳者としてお前を呼んだ、姫君よ」
ロキの声がゆっくりと低くなっていく。
紅茶のカップが割れ、破片が宙に浮いた。
破片のひとつひとつに、異なる世界が映っている。
港、教会、学校、夜の海──全部、滅び去り、廃墟となっている。
黒い煙があちこちでもうもうと上がる。
子どもの泣き声が聞こえる。
嫌だ、もう聞きたくない。もう……。
「君は、翔太を信じると言ったね。
でも、信じることは、従うことだ。
従うことは、形を失うこと。
形を失えば、痛みも消える」
乃々はさっきから立ち上がろうとしていた。
だが足が動かなかった。
路面が、柔らかすぎた。
そして無数の指が、彼女の足首を掴んでいるのが見えた。
(え? 指……?)
影の風に髪をなびかせながら、まるで舞踏会の主のようにロキは言う。
「落ちていくとき、人はようやく真実を見る。
それが、信仰の正体!」
その声に触れた瞬間、世界が反転した。
上と下が入れ替わり、光が音になる。
街が、音楽のように分解されていく。
家々は鍵盤、道路は五線譜、夜は譜面。
すべてが鳴りながら、消えていく。
乃々の記憶もまた、音になって散る。
紅茶の香りが遠ざかる。
音も、色も、名前も。
世界の意味が、少しずつ削がれていく。
そして、すべてが静止した。
そして鎮まった紅茶の渦の中心に、三つの影が写っていた。
それは。
北藤翔太。
海野美優。
デルピュネー。
──え?
気づくと、茶会のテーブルに、翔太と美優、そしてデルピュネーが座っている。
彼らは同じ角度で微笑んでいる。
まるで、最初からそこにいたように。この濃霧の中のドームに、いるのは当然だといわんばかりに。
乃々の唇がかすかに動いた。
声にはならなかった。
──ただ、風の音が、紅茶の表面で止まった。




