第211話 殺戮の姫君より【渦】──夢の端(はて)
第211話
──風の音が、紅茶の表面で止まった。
琥珀の波紋がひとつ、ぐるぐると回転するのを止められたように、時に閉じ込められている。
ティーカップの縁に指を添え、乃々はそっと息を吐いた。
この音、この匂い、この手触り……知っている気がする。
(あの時も、こうして笑っていたような……)
かすかな記憶。だが困惑している。記憶が塗り替えられている。
確か、あの時は──おとぎ話の姫君たちとも仲良くお話したっけ……。
──ふしぎの国のアリスやシンデレラら、複数の姫君たちから襲われ、最終的に鳥かごに閉じ込められていたことなど、まったく覚えていなかった。
「ようこそ、我が姫君よ。ずいぶん久しぶりだね。変わりはなかったかい?」
その真っ青な肌の青年が声をかけてきた。
背が高く、屈強な肉体。ワイルドな黒の長髪、灰色がかった淡い水色の瞳をした青年。
肌の露出の多い鎧を装備しているにもかかわらずはめている、白い手袋がやけに印象的だった。
その青年は、まるで西洋の貴族……いや、騎士のようにうやうやしく乃々にお辞儀をした。
「……あなたは?」
乃々はすっかり安心しきっている。いや正確にはどこか意識がほわほわ、ふかふかしている。
「案内人です。君をここまで導いた者……と思っていただければ」
「導いた? ボクを……?」
青い青年は、笑ってうなずいた。
その微笑みは、どこまでもやわらかい。
人を溶かすような、毒のない笑顔。
なのに、その奥にある“闇の深さ”だけが、ぞっとするほどの氷結を感じさせた。
「ああ。そんなに緊張しないで。我が姫君よ。これはただのお茶会。美味しい紅茶を飲む会場だよ、君の好きな」
「ボクが……好きな?」
「覚えていないのかい? 昔、何度も開いたじゃないか。ほら、薔薇園の奥で──」
その言葉で、何かが胸の奥を刺した。
薔薇園。
風に触れるたび、血の匂いを放つ赤い花。
膝丈まであるドレスの裾。
白い手袋。
笑う使用人たち。
あれ、ボク、誰だったけか?
ティーカップの中で、ときが戻り、波紋がひとつ弾けた。
黒い点が、水面をかすめて走る。
──ノイズ。
音でも光でもない、ひび割れのような小さな「ひっかき」。
「あれ、いま、何か……」
「気にしなくて良いのです。我が姫君よ。こうしてあなたは、僕の前で守られているのですから」
青い青年は微笑を崩さない。
「夢には、ノイズがつきものなんです。姫。あなたがただほんの少しだけ、目を覚ましているだけ……」
彼の声は、やさしい。
だが裏腹に心の底では怖かった。
安心と恐怖が両立し得る不思議な空気に、乃々の心は少しずつその形を崩していく。
「ねえ、姫君。君は“夢の中”が怖いと思うかい? 思ったことあるかい?」
乃々は答える。
「……怖い、わけじゃ。怖くなかった、わけじゃない。ただ、なんだか……え? ここって」
「落ち着くでしょう?」
「そう……かもしれない」
乃々の瞳がどんどんぼんやりと濁ってくる。
「それでいい。現はいつだって喧しい。姫君よ。君は疲れていたんだ。長いあいだ。ずっと。心の奥底では。その朗らかさの影に、隠れて、いや隠して。その胸の痛みを」
言葉が、乃々の体に沁みていく。
なぜだろう。
彼の声を聞いていると、心臓がゆっくりと溶けていくみたいだった。
薔薇の香りが濃くなる。
気づけば、背後の壁に鏡が現れていた。
そこには、ドレスを着た乃々が映っている。
白いドレス。首元に赤いリボン。
──ああ、これ、知ってる。昔の……。
「姫君、君は美しい」
「え、そんな……ボク、そんなこと言われたことないやい! なんなのさ。君はボクを褒め殺しする気?」
「いいや。本当だ。君のような人は、滅びを招くほどに美しい。だからこそ、愛される。ゆえに我が大切な姫君であらせられるのです」
その青年の言葉の直後だった。
紅茶の中に、黒い影が差した。
細かな英数字が、水面の下を横切る。
ECHO "NONO" :: "HELP"
それが見えた瞬間、頭の奥で危険信号が鳴った。
「なに、これ……?」
「気にしなくてもよろしいかと」
青の青年の声が少しだけ低くなる。
笑顔のまま、乃々のティーカップをそっと乃々の方へと押し戻す。
「飲んでみてくださいませ。君の記憶が、少しずつ戻るはずです。さあ。このロキめの言葉を信じて。姫の守り手であるわたくし、ロキの言葉の通りに……」
その声に操られるかのように乃々はカップを持ち上げた。
琥珀色の液体に、わずかな赤が差す。それが滲む。
それでも、香りは変わらず、甘い。
それを舌の上に乗せた瞬間、なつかしい音がした。
風鈴の音。
それと、誰かの泣き声。
「……ボク、この子の泣き声、知ってる……聞いたことがある。どこで聞いたんだろう?」
「そうでございますか」
ロキと名乗った青の青年はやわらかく言った。
「でも、それより……姫君……」
「姫君、姫君って、さっきからもしかして、それボクのことかい? なんだか照れくさいんだけど」
「思い出しませんか? 昔、このロキが、あなたの鏡の向こうにいたことを。泣いていた乃々姫に、微笑んで……そうすると姫はいつもお笑いになっておりました」
言葉が、霧の中でほどけていく。
それに合わせてロキは、軽く乃々へと手を伸ばした。
その指先が、乃々の頬に触れる。
冷たい。なのに、なぜか熱を感じる。
さっきから、いろいろチグハグだ。
何が本当で何が嘘なのか。分からない。いや、分かりたくない。あれ? 分かりたいんだっけ?
「思い出さなくていいのです。忘れることは、赦しでございますよ、我が姫君よ」
「でも、忘れたら……」
ハッとそこで思い出した。
その泣き声の主を。
それは──中学生時代の北藤翔太。
あの子はとても身長が低かった。
それでいて、どこか人を寄せ付けない空気を漂わせていた。
だから、目をつけられたのだ。
うちの中学の、いじめっこに──!
でも、それは昔のこと。
中二、中三となるにつれ、翔太の身長はどんどん伸びていった。
そして、筋力も──。
いつしか、彼に喧嘩を売るようなバカはいなくなった。
強かったのだ。
格闘術だろう。不思議な型の技を使って、不良たちですら簡単に叩きのめすようになった。
その彼のすぐ傍らに、ボクはずっといた。
ボクだけが、彼の側にいられた。
そう。北藤翔太は強くなってそれでも──いつも寂しさを目の奥ににじませ、ボク以外の誰にも心を許さなかった。
「ああ……思い出してしまわれたのですね、姫よ。その記憶は、あなたにとって大事な思い出ですか?」
「え? あ、うん! すごく大切。ボクの青春にかかわることだよ。……でも、まだ何か忘れているような……」
「そうでございましたか。姫よ。あなたさまがその彼を想っていること、それだけで彼は救われるのでございます。その気持ちこそが大切なのでございます」
「ほんとうに?」
「もちろん! だって姫は、その少年を信じていらっしゃるのでしょう?」
「信じてる。けど──」
そう。何か思い出しかけている。
切なさ。
心の痛み。
とてもすごく重要なことのような。
ボクのアイデンティティそのものに関わるもののような──。
「でも姫よ。あなたは、本当に彼を……信じているのかい?」
ロキの声が、そこで少しだけ変わった。
ほんのわずかだが。しかし、調子が狂う。
空気がわずかに歪んで、音がずれたのか。
それとも、どこかでガラスが軋む音でもしたのか。
TRACE_DEPTH = -03
その時、視界の端で、また何かのプログラムのコードのような文字が視界の中で点滅した。
ノイズ。
これはボクの中の心のノイズ。
なんなんだ、これは一体──?
「……この文字、なんだか気持ち悪い」
ロキの声は徐々に遠くから響くように聞こえ始めていた。
「大丈夫でございます。姫よ。君の“現実”が、まだ君を手放したくない、そうあがき苦しみ、もがき、抗い……そう、あなたさまは、このロキのもの。ロキの囚われし人」
「囚われし……?」
「そうだ……。その通りだ……。わたくしは、姫を苦しめる現実から救うために、あなたを囚えた。ほら、あそこを見よ、姫……。そこにそのお前が見たくなかった“現実”がある」
どんどん意識が混濁してくる。
そしてそのロキの指差す先へ視線を移す。
誰かがいた。
翔太。
立っている。
遠く、霧の奥。
輪郭がゆらゆらと揺れている。
こちらを見ている──ように見えた。
だけど、その瞳が黒すぎる。
光がない。
呼びかけようにも、声が出ない。
動いた唇の形は、何かの祈りのようで、同時に、呪いのようでもあった。
「あれだ。あの彼は、君の夢にも現れるのだな。我が姫よ……」
「もしかして、翔太くん……?」
「さあ、どうか。そう思えばそう。違うと思えば違う。けれど、君が見たいと願った顔だ。違うか? 君を悲しみの俘虜にした、その顔ではないのか?」
ロキは唇の片端を吊り上げた。
今度は、笑みにほんの少しだけ邪悪さが混じって感じた。
目元に影が落ちる。
声の抑揚が奇妙に人間くさい。
人間ではないはずなのに。
まるで、変貌していっているような。
「君は、彼を信じる。信じすぎる。
でも、信じるということは、盲目になるということさ。
だから君は、何も見えなくなる。
それでもいいのかい? なあ、姫君」
「……そんなの、分からない」
「分からない? 分からないと来たか!」
ロキは大きな声を上げて笑った。
「そうだ。そうなのだ。人はみな、分からないまま信じるんだ。故に愚か。ゆえに神が導かなければならぬ」
ロキが椅子から立ち上がる。
音もなく、テーブルの周囲の霧が押し広がる。
足元から、赤い光が上がってくる。
まるで下から照らされているように。
「君の信仰は、いずれ世界を壊す。
でも、それは何も悪いことじゃない。
壊すというのは、始まりの別名だ。
俺もそれを望む。
そのために、お前をここへと連れてきた。
ゴブリンの群れを使ってな」
そのとき、部屋全体に低いノイズが走った。
周囲を覆い尽くす濃霧が明滅し、文字が空中へと流れていく。
PORTAL.INVOKE scope=LOCAL
SUBJECT: NKF-666/SHOTA
「……これは?」
さすがの乃々も、気付いた。ロキのこれまでの声色も、喋り方も、何から何まで変わっている。
そしてそれを自然に受け入れている自分がいる。
怖いのに、あたたかい。
頭はどんどん呆けてくる。
何が起こっているのか分からなくてパニックになりそうだ。
「それはただの調整さ。夢の安定化となる」
ロキは微笑み、ティーポットを傾けた。
こぽこぽ、と音が鳴る。
だけど、注がれた液体は紅茶ではなかった。
黒い。
「なあ、乃々。夢の世界は、どこまでが現実だと思う?」
「ボ、ボクは……」
「答えなくていい。ただ、覚えておくことだな。
“信じること”と“縛られること”は、同じ意味なんだ
“信じることは“裏切られる”ことの前奏曲なのだよ」
ロキがそう放った瞬間、背後で誰かが笑った。
女たちの笑い声。
聞き覚えがある。
どこか血の匂いが漂う、この声たちは──。
声たちが重なって、増えていく。
ガタガタとティーカップが震え始める。
ここが夢なのか、現実なのか、そんなのどっちだっていい。
自身に何が起こっているのか。それは些細な問題。
思考が渦巻く。
その渦は次第に乃々の心をその中心へと呑み込んでいく。




