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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第三章 蝿の王編

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第211話 殺戮の姫君より【渦】──夢の端(はて)

第211話


 ──風の音が、紅茶の表面で止まった。

 琥珀こはくの波紋がひとつ、ぐるぐると回転するのを止められたように、時に閉じ込められている。

 ティーカップの縁に指を添え、乃々はそっと息を吐いた。

 この音、この匂い、この手触り……知っている気がする。


(あの時も、こうして笑っていたような……)


 かすかな記憶。だが困惑している。記憶が塗り替えられている。

 確か、あの時は──おとぎ話の姫君たちとも仲良くお話したっけ……。

 ──ふしぎの国のアリスやシンデレラら、複数の姫君たちから襲われ、最終的に鳥かごに閉じ込められていたことなど、まったく覚えていなかった。

 

「ようこそ、我が姫君よ。ずいぶん久しぶりだね。変わりはなかったかい?」


 その真っ青な肌の青年が声をかけてきた。

 背が高く、屈強な肉体。ワイルドな黒の長髪、灰色がかった淡い水色の瞳をした青年。

 肌の露出の多い鎧を装備しているにもかかわらずはめている、白い手袋がやけに印象的だった。

 その青年は、まるで西洋の貴族……いや、騎士のようにうやうやしく乃々にお辞儀をした。


「……あなたは?」


 乃々はすっかり安心しきっている。いや正確にはどこか意識がほわほわ、ふかふかしている。


「案内人です。君をここまで導いた者……と思っていただければ」

「導いた? ボクを……?」


 青い青年は、笑ってうなずいた。

 その微笑みは、どこまでもやわらかい。

 人を溶かすような、毒のない笑顔。

 なのに、その奥にある“闇の深さ”だけが、ぞっとするほどの氷結を感じさせた。


「ああ。そんなに緊張しないで。我が姫君よ。これはただのお茶会。美味しい紅茶を飲む会場だよ、君の好きな」

「ボクが……好きな?」

「覚えていないのかい? 昔、何度も開いたじゃないか。ほら、薔薇園の奥で──」


 その言葉で、何かが胸の奥を刺した。

 薔薇園。

 風に触れるたび、血の匂いを放つ赤い花。

 膝丈まであるドレスの裾。

 白い手袋。

 笑う使用人たち。


 あれ、ボク、誰だったけか?


 ティーカップの中で、ときが戻り、波紋がひとつ弾けた。

 黒い点が、水面をかすめて走る。

 ──ノイズ。

 音でも光でもない、ひび割れのような小さな「ひっかき」。


「あれ、いま、何か……」

「気にしなくて良いのです。我が姫君よ。こうしてあなたは、僕の前で守られているのですから」


 青い青年は微笑を崩さない。


「夢には、ノイズがつきものなんです。姫。あなたがただほんの少しだけ、目を覚ましているだけ……」


 彼の声は、やさしい。

 だが裏腹に心の底では怖かった。

 安心と恐怖が両立し得る不思議な空気に、乃々の心は少しずつその形を崩していく。


「ねえ、姫君。君は“夢の中”が怖いと思うかい? 思ったことあるかい?」


 乃々は答える。


「……怖い、わけじゃ。怖くなかった、わけじゃない。ただ、なんだか……え? ここって」

「落ち着くでしょう?」

「そう……かもしれない」


 乃々の瞳がどんどんぼんやりと濁ってくる。


「それでいい。うつしはいつだってやかましい。姫君よ。君は疲れていたんだ。長いあいだ。ずっと。心の奥底では。その朗らかさの影に、隠れて、いや隠して。その胸の痛みを」


 言葉が、乃々の体に沁みていく。

 なぜだろう。

 彼の声を聞いていると、心臓がゆっくりと溶けていくみたいだった。


 薔薇の香りが濃くなる。

 気づけば、背後の壁に鏡が現れていた。

 そこには、ドレスを着た乃々が映っている。

 白いドレス。首元に赤いリボン。

 ──ああ、これ、知ってる。昔の……。


「姫君、君は美しい」

「え、そんな……ボク、そんなこと言われたことないやい! なんなのさ。君はボクを褒め殺しする気?」

「いいや。本当だ。君のような人は、滅びを招くほどに美しい。だからこそ、愛される。ゆえに我が大切な姫君であらせられるのです」


 その青年の言葉の直後だった。

 紅茶の中に、黒い影が差した。

 細かな英数字が、水面の下を横切る。


 ECHO "NONO" :: "HELP"


 それが見えた瞬間、頭の奥で危険信号が鳴った。


「なに、これ……?」

「気にしなくてもよろしいかと」


 青の青年の声が少しだけ低くなる。

 笑顔のまま、乃々のティーカップをそっと乃々の方へと押し戻す。


「飲んでみてくださいませ。君の記憶が、少しずつ戻るはずです。さあ。このロキめの言葉を信じて。姫の守り手であるわたくし、ロキの言葉の通りに……」


 その声に操られるかのように乃々はカップを持ち上げた。

 琥珀色の液体に、わずかな赤が差す。それが滲む。

 それでも、香りは変わらず、甘い。

 それを舌の上に乗せた瞬間、なつかしい音がした。

 風鈴の音。

 それと、誰かの泣き声。


「……ボク、この子の泣き声、知ってる……聞いたことがある。どこで聞いたんだろう?」

「そうでございますか」


 ロキと名乗った青の青年はやわらかく言った。


「でも、それより……姫君……」

「姫君、姫君って、さっきからもしかして、それボクのことかい? なんだか照れくさいんだけど」

「思い出しませんか? 昔、このロキが、あなたの鏡の向こうにいたことを。泣いていた乃々姫に、微笑んで……そうすると姫はいつもお笑いになっておりました」


 言葉が、霧の中でほどけていく。

 それに合わせてロキは、軽く乃々へと手を伸ばした。

 その指先が、乃々の頬に触れる。

 冷たい。なのに、なぜか熱を感じる。


 さっきから、いろいろチグハグだ。

 何が本当で何が嘘なのか。分からない。いや、分かりたくない。あれ? 分かりたいんだっけ?


「思い出さなくていいのです。忘れることは、赦しでございますよ、我が姫君よ」

「でも、忘れたら……」


 ハッとそこで思い出した。

 その泣き声の主を。

 それは──中学生時代の北藤翔太ほくとうしょうた


 あの子はとても身長が低かった。

 それでいて、どこか人を寄せ付けない空気を漂わせていた。

 だから、目をつけられたのだ。

 うちの中学の、いじめっこに──!


 でも、それは昔のこと。

 中二、中三となるにつれ、翔太の身長はどんどん伸びていった。

 そして、筋力も──。

 いつしか、彼に喧嘩を売るようなバカはいなくなった。


 強かったのだ。


 格闘術だろう。不思議な型の技を使って、不良たちですら簡単に叩きのめすようになった。

 その彼のすぐ傍らに、ボクはずっといた。

 ボクだけが、彼のそばにいられた。


 そう。北藤翔太は強くなってそれでも──いつも寂しさを目の奥ににじませ、ボク以外の誰にも心を許さなかった。


「ああ……思い出してしまわれたのですね、姫よ。その記憶は、あなたにとって大事な思い出ですか?」

「え? あ、うん! すごく大切。ボクの青春にかかわることだよ。……でも、まだ何か忘れているような……」

「そうでございましたか。姫よ。あなたさまがその彼を想っていること、それだけで彼は救われるのでございます。その気持ちこそが大切なのでございます」

「ほんとうに?」

「もちろん! だって姫は、その少年を信じていらっしゃるのでしょう?」

「信じてる。けど──」


 そう。何か思い出しかけている。

 切なさ。

 心の痛み。

 とてもすごく重要なことのような。

 ボクのアイデンティティそのものに関わるもののような──。


「でも姫よ。あなたは、本当に彼を……信じているのかい?」


 ロキの声が、そこで少しだけ変わった。

 ほんのわずかだが。しかし、調子が狂う。

 空気がわずかに歪んで、音がずれたのか。

 それとも、どこかでガラスが軋む音でもしたのか。


 TRACE_DEPTH = -03


 その時、視界の端で、また何かのプログラムのコードのような文字が視界の中で点滅した。

 ノイズ。

 これはボクの中の心のノイズ。

 なんなんだ、これは一体──?


「……この文字、なんだか気持ち悪い」


 ロキの声は徐々に遠くから響くように聞こえ始めていた。


「大丈夫でございます。姫よ。君の“現実”が、まだ君を手放したくない、そうあがき苦しみ、もがき、あらがい……そう、あなたさまは、このロキのもの。ロキの囚われし人」

「囚われし……?」

「そうだ……。その通りだ……。わたくしは、姫を苦しめる現実から救うために、あなたを囚えた。ほら、あそこを見よ、姫……。そこにそのお前が見たくなかった“現実”がある」


 どんどん意識が混濁してくる。

 そしてそのロキの指差す先へ視線を移す。

 誰かがいた。


 翔太。


 立っている。

 遠く、霧の奥。

 輪郭がゆらゆらと揺れている。

 こちらを見ている──ように見えた。


 だけど、その瞳が黒すぎる。

 光がない。

 呼びかけようにも、声が出ない。

 動いた唇の形は、何かの祈りのようで、同時に、呪いのようでもあった。


「あれだ。あの彼は、君の夢にも現れるのだな。我が姫よ……」

「もしかして、翔太くん……?」

「さあ、どうか。そう思えばそう。違うと思えば違う。けれど、君が見たいと願った顔だ。違うか? 君を悲しみの俘虜とりこにした、その顔ではないのか?」


 ロキは唇の片端を吊り上げた。

 今度は、笑みにほんの少しだけ邪悪さが混じって感じた。

 目元に影が落ちる。

 声の抑揚が奇妙に人間くさい。

 人間ではないはずなのに。

 まるで、変貌していっているような。


「君は、彼を信じる。信じすぎる。

 でも、信じるということは、盲目になるということさ。

 だから君は、何も見えなくなる。

 それでもいいのかい? なあ、姫君」

「……そんなの、分からない」

「分からない? 分からないと来たか!」


 ロキは大きな声を上げて笑った。


「そうだ。そうなのだ。人はみな、分からないまま信じるんだ。故に愚か。ゆえに神が導かなければならぬ」


 ロキが椅子から立ち上がる。

 音もなく、テーブルの周囲の霧が押し広がる。

 足元から、赤い光が上がってくる。

 まるで下から照らされているように。


「君の信仰は、いずれ世界を壊す。

 でも、それは何も悪いことじゃない。

 壊すというのは、始まりの別名だ。

 俺もそれを望む。

 そのために、お前をここへと連れてきた。

 ゴブリンの群れを使ってな」


 そのとき、部屋全体に低いノイズが走った。

 周囲を覆い尽くす濃霧が明滅し、文字が空中へと流れていく。


 PORTAL.INVOKE scope=LOCAL

 SUBJECT: NKF-666/SHOTA


「……これは?」


 さすがの乃々も、気付いた。ロキのこれまでの声色も、喋り方も、何から何まで変わっている。

 そしてそれを自然に受け入れている自分がいる。

 怖いのに、あたたかい。

 頭はどんどん呆けてくる。

 何が起こっているのか分からなくてパニックになりそうだ。


「それはただの調整さ。夢の安定化となる」


 ロキは微笑み、ティーポットを傾けた。

 こぽこぽ、と音が鳴る。

 だけど、注がれた液体は紅茶ではなかった。

 黒い。


「なあ、乃々。夢の世界は、どこまでが現実だと思う?」

「ボ、ボクは……」

「答えなくていい。ただ、覚えておくことだな。

 “信じること”と“縛られること”は、同じ意味なんだ

 “信じることは“裏切られる”ことの前奏曲プレリュードなのだよ」


 ロキがそう放った瞬間、背後で誰かが笑った。

 女たちの笑い声。

 聞き覚えがある。

 どこか血の匂いが漂う、この声たちは──。

 声たちが重なって、増えていく。

 ガタガタとティーカップが震え始める。


 ここが夢なのか、現実なのか、そんなのどっちだっていい。

 自身に何が起こっているのか。それは些細な問題。

 思考が渦巻く。

 その渦は次第に乃々の心をその中心へと呑み込んでいく。

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