第210話 殺戮の姫君より【転】──夢胎(ゆめのはら)
第210話
(あれ、ボク、こんなとこで何しているんだろう……?)
兎谷乃々《うさたにのの》は、“そこ”でやっと目が覚めた気がした。
あたたかい。
ふわふわする。
目の前を、小さな泡粒が立ち上り、それらが乃々のツインテールに絡みつきながら光の中へと消えていった。
(確か……お風呂に入っていたような気がする──)
──そう。確かに乃々は今、何かの液体の中にいる。ような気がする。
その真ん中で、ゆらゆらと留まっている。
すごく心地が良い。
あたたかく、やわらかく。
痛みもなく、安らぎがあり、それでいて、胸の奥だけがなぜかキュッと絞られる感覚がある。
(これは何……? ボク、なんかすごく切ない。切ないよ。この心の苦しさ、なんなの……?)
乃々の意識が少しずつ回復していく。そこで自分が膝を抱えているのが分かった。
白くて細い両の腕が静かに両膝を抱きしめ、その状態で浮かんでいる。
まるで胎児の姿のようだった。丸めた背中にそっと、あたたかな流れが触れる。
頭の上では、揺れる光。
まるで金魚鉢の底から見上げた水面ごしの夏のお日様──。
(でも……きもちいい)
まるで世界全体が自分を抱きしめてくれているかのようだ。
その幸福感に、乃々は素直に身を委ねてみる。
(生きてるのかな……死んでるのかな……。でもどっちでもいいや。今はこの気持ちよさに触れていたい……ボクはここ、すごく好きだ。ずっとここにいたい)
ツインテールが液体の中でひらひらと踊る。
細い髪の線が、指の間を流れていく。
その感触がたまらなく心地よくて、乃々は微笑みで目を細めた。
(……うん……きっとこれは夢のなかだ)
あの夜。あたたかなお風呂と湯気に包まれたなか。
泡に包まれて、自分の背中を誰かに撫でられた気がしていた。
なにか、緑色の小さな影が見える。
それがたくさん……。
そしてボクをここへ運んでくれた。
(それも夢だったのかな──)
夢のなかなら、それでもいい。
もう少しだけ、このあたたかさの中にいたい。
口元から上る細かな気泡が乃々のやわらかな頬を撫でてから消えていく。
このブクブクした泡。これもとても気持ちいいのだ。
だが、そこで声が聞こえた。
──ののおねえちゃん。
聞き覚えのある声。幼い女の子だ。
──ののおねえちゃん。
(ああ……芽瑠ちゃんだ。芽瑠ちゃん。翔太くんの妹の。ボクともたくさん遊んでくれたあの芽瑠ちゃんの)
でも、どこから聞こえるのか分からない。
耳ではなく、心の奥で鳴っているような気がする。
芽瑠の声は、さらに問いかけてきた。
──笑ってるの?
──泣いてるの?
(……どっちも)
そう答えたつもりだった。
けれど、声は泡になって浮かんで消えてしまう。
泡が弾けた瞬間、音が世界から消えた。
その時、ふと、視界の端に、何かが見えた。
白い陶器。
ティーカップ。
(……なに、これ)
だが今は、この波のゆらぎに揺られていたい。
カップの中では、紅茶のような液体が揺れている。
香りが漂う。
甘い。けれど、どこかで“これを感じちゃいけない”という危機感が混じる。
乃々は自分の胸に手を当てた。
鼓動がない。
(あれ……?)
代わりに、どくどくという液体の脈動だけが、体の外から伝わってくる。
(ボク……どうなってるの?)
指を伸ばすと、手が勝手に動いた。
知らず知らずそのティーカップの縁をなぞっている。
指先の感触がやけに冷たい。
これ、あんま好きじゃないな、ボク。乃々はそう思った。
途端に、それがおかしくなった。
(何? この夢……。ティーカップさわって冷たいとか、この水? お湯? がすごく気持ちいいとか。触ったものが好きじゃないとか)
ふふっと笑った。
お酒は飲んだことはない。
だけど、笑い上戸って、こういう感じなのだろうか。
(ふふふふ。すっごくおかしい……うふふふふふふ)
その目の前を、なにやら薄水色に光るデジタル文字が文字の形ごと、流れてきた。
BOOT> SAFE_MODE
SIGIL_SCAN…
ACCESS: GRANTED
PORTAL.INVOKE scope=LOCAL
SUBJECT: NKF-666/SHOTA
ECHO "Nono" :: "HELP"
──何、この文字?
さらに乃々のおかしさが増す。
TRACE_DEPTH = -03
FEED.OPEN ? [Y/N]
ついに吹き出した。ゴボっと、一際大きな気泡が現れて上っていく。
(あははは。何これ。ボク、笑っちゃってるじゃないか。なんだよ。おかしくて仕方ないよ。一体誰なの? ボクを笑わせようとする悪いヤツは!)
突然だった。目の前にゆらめく光が現れ、その中に翔太のものであろう、顔の輪郭が浮かぶ。
え? と思う暇もなかった。
みるみるそれは影へと変貌していき、やがて見上げても視界が届かないほどに巨大化していく。
その影……闇と嵐の巨人が、街を破壊し始める。
逃げ惑う人々が恐怖の声を上げる。
『助けてっ!』
そう乃々に向かって手を差し伸べた若い女性が。
次の瞬間には巨大な影のかぎ爪により、引き裂かれて。
その血しぶきとともに、引き裂かれたバラバラのいくつもの肉片が乃々の頬を打った。
(──いやっ!)
心の中の悲鳴は声にならない。
目をつぶり、そしておそるおそる再び開いた時。
首から上がなくなったその若い女性の、両の目玉だけが、その場に留まり、ぬらぬらと鈍い光を放ちながら、じっ……と乃々を見つめていた。その瞳孔が大きく開く。虹彩が急激に回転を始め、開いた瞳孔が鋭い刃のようになって、ものすごい速さで乃々の目へ突き刺さろうとしてくる!
(きゃあああああぁぁぁぁぁあっ!!)
その瞬間だった。その世界が反転したのは。
気づけば、乃々は椅子に座らされていた。
目の前には、白いクロスのテーブル。
十脚の椅子。
十個のティーカップ。
「え……ここ……どこ?」
──声が出せる!
驚きながらも乃々は周囲を見渡した。
それはこれから豪華なお茶会が開かれるかのような、そんな光景。
周囲には誰もいない。
ただ、空気が息をしているように感じる。
足もとには霧のような水蒸気。
床の模様が、波打つように動いている。
そして、このテーブル周りは、薄灰色の濃い霧の壁に覆われていた。
「夢……だったの……?」
悪夢から目覚めたようにそう口にしたが、でもまだ、ここも夢の中である可能性は捨てきれない。
だって、胸をきゅっと締めつけてくる。
なのに、まったく怖くは感じない。
まるでやさしさと恐怖が同じ温度で混ざり合っているかのよう。
そんな、不可思議な気持ちになるお茶会会場。
その準備がなされている途中の時空にいきなり紛れ込んだような気がした。
お茶会……と思って、乃々は重要なことに気づく。
女の子としては致命的だ。
(そうだ……ボク、裸……!?)
ところが。
いつの間にかにドレスが肌に貼りついている。
誰かに着せられた白のワンピース。
肩が透けていて、白い鎖骨に影が落ち、そのくぼみ部分に冷気が溜まっているように感じる。
「どう、なってるの……? ボク……」
試しに裾を引き寄せようとした指先が、思うように動かない。
まるで見えない糸で吊られているみたい。
その前を、何やら小さく緑色の体をした生き物がタタタタタッと駆けていった。
「え……何、何、今の!? うわ~もう何がなんだか分からないよ~! 翔太くぅぅん!」
──カチン。
助けを呼んだ直後、乾いた音が聞こえた。
ティーカップが、ひとりでに揺れている。
思わず、乃々の呼吸が止まる。
自分が座る真ん前に設置してあった椅子が、ゆっくりと動き始める。
誰もいないはずなのに、椅子の脚が床をこする音、光景。
「誰っ!」
視線を向けた先で、霧が人の形を取り始めていた。
輪郭が曖昧で、顔がない。
なのに、確かにこちらを見ている気がする。
霧の“人”が、カップを持ち上げた。
その動きに合わせて、乃々のカップも震える。
(え? これ、あたしの手が勝手に……?)
ソーサーから指が勝手にティーカップを持ち上げている。
そして中に沈んでいる紅茶を口元へと運んだ。
唇が触れる。
液体が舌に落ちる。
あたたかい。
甘い。
まるで心の底からとろけるようだ。
「いや、おかしい……ッ」
思わずカップを離した。
けれど、紅茶は零れない。
宙に浮かび、逆流してカップへ戻っていく。
(……なにこれ……)
目の前の湯気の“人”が笑った。
音がないのに、笑い声が分かる。
カップの中の紅茶に、乃々の顔が映った。
その顔が笑っていた。
(やめて……あたしそんな顔してない!)
──ののちゃん。
──おいで。
──こっち。
次には不思議な声が無数に重なった。
誰の声か分からない。
けれど、どれも“翔太”の声に似ている。
胸がざわつく。
恋しさと恐怖が入り混じり、心臓が痛む。
(翔太くん、そんなこと……言わない……)
その時、目の前で小さな音。
カップのふちが、指でなぞられるような微音。
乃々が目を上げると、そこには青い“影”があった。
長身の男。
青い肌に乱暴に整えられた黒くて長い髪。
額には二本の角。
肌がかなり露出するタイプの、金色の縁取りをした黒い鎧を身にまとっている。
彼は、静かに微笑んで紅茶を飲んでいた。
血をすするように。
「……ようやく、目が覚めたみたいだね」
その声は柔らかく、世界の温度をひとつ上げたような気がした。
「あなた、誰……?」
男はカップを傾けた。
中の液体が紅く光る。
「ただの、語り部さ。
君の夢の続きを見に来ただけ」
笑った。
途端に。
『──ロキ』
どこからともなく、その名前が頭に響いた。
そして、その名を聞いた途端、泡のように、夢の名残が弾けて消える。
明らかに目の前の男は人間じゃない。
なのに、乃々は全然、怖くなかった。
むしろ、まるで自分の恩人か何かのような、そんなあたたかな気持ちに乃々をさせてくれていた。




