第209話 殺戮の姫君より【急】──ロキの庭
第209話
「『受胎』……?」
美優が会話を止める。
「ちょっと待って。その『受胎』って言葉……。私、お父さんから聞いたことある。……それ一体、どういうニュアンスで使われている言葉なの?」
「嬢ちゃんの父上がそんなことを? じゃあ、それは国際魔術会議の上のほうは、すでに何か掴んでるみてえだな……」
大熊が眉間にしわを寄せる。だが、知らないことを今ここで転がしても意味はない。
もっと確かめたい顔がある。
大熊は翔太を見た。
次にどんな色を浮かべるか、待つように。
そして再び反応を伺うために話を続けた。
「まあいい。ワシもその『受胎』については探っておく。それより、だ。そこにいた“姫”たちはみんな言った。ひとりずつな。シンデレラも、赤ずきんも、人魚姫も、みんな同じことを言った。“私がロキ”。“わたしもロキ”。“わたしたち全部ロキ”」
部屋の空気が凍る音がした。
「ロキ……って」美優が声を失いかけながら言う。「ロキって、あの、北欧神話のロキ? さっき……わたしたちの家にも来た、あのロキ?」
大熊が眉を上げた。「……来た?」
そこへ美優が、小さく息を吸ってから、一気に吐き出した。
「来たの」美優は言った。「さっき。この家の中に」
高木と南雲が同時に顔を上げる。
美優は、両手をぎゅっと組んで、机の上で震えを押さえた。
「インターフォンに“大熊のおじさん”が映ったの。ノックして、『開けろ、嬢ちゃん』って。でも口が動いてなかった。デルが“外に出ないで”って言って、シャパリュが“ロキだ”って言ったの」
「そのデルってのと、シャパリュってのは、例のそこの北藤の坊っちゃんの使い魔か」
正確には違うが、美優はそこには触れなかった。
「そしたら家の中がいきなり揺れて、壁から血が落ちて、テレビから鎖が飛び出して、デルの首に嵌められて。窓を誰かがバンバンバンバン叩いて、でも誰もいないの。ただ、……シャパリュが、あなたの姿をした“ニセ大熊のおじさん”を、ばらばらにして、追い出したけど……」
大熊は目を丸くし、すぐに顔をしかめた。「なるほどな。……だからシャワーの前、嬢ちゃんも北藤の坊っちゃんも、腰ぬけた顔してやがったのか」
「それだけじゃない」美優は続けた。「そのロキは、“乃々ちゃん”の声を使った。“助けて”って。芽瑠の耳に直接届いたの。あと、芽瑠の耳と、私たちの知人の、ひまりちゃんって子の目とお腹のことも狙ってるって、はっきり言った。『芽瑠の耳を媒介にしろ』って。……乃々ちゃんがいなくなったのは、その後よ。お風呂から消えたの。この結界のなかで、よ」
沈黙。
リビングが一瞬、別の空気になった。
さっきまでの「戦いの報告会」じゃない。今ここで誰かの名前がもう“こっち側”から“向こう側”へ行ってしまった、という種類の重さだった。
「結界から一人の少女が……連れ去られた」高木が低くつぶやく。「ロキですかね?」
「……だとしたら」大熊は眉間を押さえた。「だとしたら、嬢ちゃん。そりゃ多分、同じとこだ」
「同じとこ?」美優が顔を上げる。
「“お茶会”だよ」
大熊は、ひどくいやそうな顔で言った。
「霧ん中で、姫たちがテーブル敷いて待ってる場所。血をカップに集めて、“この子は可愛いから残しといて”って笑う場所。あそこは、ロキの庭なんだ。そして、それはどこにでも現れる。おそらく……だがな。だが、ロキが何人にもバラけて、おとぎ話の姫の顔をして、好き勝手に標本を並べる場所。その乃々って女の子が消えたってんなら――連れていかれた先は、そこ以外に考えられねえ。そうでなければ……」
美優の顔が、一瞬で蒼ざめた。
「いや。憶測はやめておこう。何しろ、あのロキだ。北欧神話でも悪名高い、あのロキなんてもんが顕現してんだぞ。今、この地には……。ワシも決めつけすぎた。今はどんなことが起こるか、あまり予測しないほうがいい。謎が増えすぎた」
大熊は、言葉を選び直した。
それにしても、北藤の坊っちゃん、アレ以来、あんま反応見せねえじゃねえか。こりゃ骨が折れそうだ……。大熊は自嘲する。
「まあ、とにかくだ。ワシらにだって、確信まではない。だがよ。そいつらは最初から、坊主のことを“中心”って扱って話してやがる。『666の獣』を起こすだの、『反キリスト』だの、『水城の受胎』だの。この街じゅうを霧で塞いで、お茶会ひらいて、エージェントを片っ端から狩って、“その話”しかしねえんだ。そういう状況なんだよ、今の水城は」
翔太は俯いた。汗がこめかみを伝っていた。
美優は彼の肩をそっと抱くように手を回す。無理やり前を向かせようとはしない。ただ「ここにいるから」というふうに。
「でな」
翔太をじっくりと観察しながら、大熊はゆっくり、椅子にもたれ直した。肩を大きく回し、重い息を吐く。
「まあ、よく分からんのだが、高木と南雲はかごに吊られていた。だが、気づいたら別の路地でワシらの意識が戻っていた。どういう移動をされたのか、ワシや高木、南雲らの傷がこうまで丁寧に直されているのかも、正直わからん」
大熊は、第三者の存在を匂わせる。
「そんなよくわからねえ状況を止められるやつは、そう多くはねえ。少なくともワシら、人間側だけじゃ足りねえ。ワシはな、ワシと高木と南雲でゴブリンの群れは落とせたって胸張って言える。トロールも潰せる。だけど“姫”は別だ。あれはロキそのものだ。ワシらを殺して、直して、縛って、血を集めて、笑ってる」
高木と南雲はここに来て、ようやく大熊の意図を悟った。
なるほど。大熊は、ほぼ確実に、『666の獣』も『反キリスト』も、この北藤翔太ではないかと確信して、その尻尾を掴もうとしている……。
大熊は続ける。
「あれに手ェ突っ込むのは、もう普通の作戦じゃねえ。神と悪魔の領分だ。なあ、北藤の坊っちゃん。……何か、心当たりはあるな?」
濃霧の外は、まだ白かった。窓の向こうは昼なのに夜みたいで、昼のはずなのに夜より冷たい。
翔太は唇を噛んだまま、何も言えなかった。
美優もまた、ただ彼の隣で息をしているだけ。翔太の魂の話の秘密は、私が守りきらなければならない。声をかければ、どこからか大熊に何かを勘付かれる。だからまだ翔太の名を呼ばない。
代わりに、芽瑠がぽつりとつぶやいた。
「……お兄ちゃん……乃々お姉ちゃん、助けてあげるんでしょ……?」
翔太はその言葉に、ゆっくりと顔を上げた。耳が赤い。この“耳”を、ロキは狙っている。
「……当たり前だろ」
その声はひどくかすれていたけれど、ちゃんと届く声だった。
大熊は、ふう、とゆっくり長い息を吐いた。
「だったら、その覚悟で聞け、あんちゃん」
彼はそう言って、わざとらしく肩を鳴らした。
「今から聞く話は、戻れん話だ──。まず、乃々ちゃんって子が今どこにいるかは分からん。だが、踏み込めば向こうの思うツボって線は高い。“666の獣”だの“反キリスト”だの、あいつらはそれを起こしたがってる。こっちの顔色ひとつまで観察してる連中だ。それでも助けに行くってんなら──ワシは止めん。止めても無駄だしな」
翔太は息を吸い、そして、ほんの少しだけ笑った。痛い笑いだった。
「行きますよ」
美優がぎゅっと彼の袖を握り直す。涙がにじもうとするのを堪えている。それほど、大熊の話は衝撃だった。
世界は確実に終末に近づいている。
そして、大熊は、翔太こそが、その核である“666の獣”だと、当たりをつけている。
それは……美優が、絶対に他に漏らしたくない秘密。何とかしたい。だが、すでに取り返しがつかないところまで来ている。
──私は、無力だ……。
翔太の返事に、大熊は短く頷いた。高木も黙って頷いた。南雲は唇を噛んで、小さく「助けてあげられなくてごめんね……」と呟いた。
それはまだ、作戦会議でも対策でもなかった。
ただの確認だ。
自分たちがどこにいるのか。誰を相手にしているのか。そして、これから何をやらされるのか。
水城の霧はまだ晴れない。霧は窓の向こうでずっと渦を巻き、まるでそこに置かれた巨大な白いテーブルクロスが、めくれる瞬間を待っているみたいに、静かに、静かに、揺れている。
「そろそろいいだろう。嬢ちゃん。じゃあワシらは行く。また何か新しい情報が入れば、連絡をする。……そして、あんちゃん。あんちゃんが、その女の子を探しに行くって決めたなら、行くべきだ。ただ霧の外は、今、ワシが語った通り。あんちゃんが、どんな手で、女の子救出作戦を実行するのか。あの北藤神父の息子だ。あの人は、国際魔術会議でも、かなりこの世の真実に近づいた存在だと言われていたからな。その息子さんだから、何もできないってことはねえだろう。ただまあ、せいぜい取り込まれんようにな」
そう謎めいた言葉を言い残して、大熊らは去る。霧の向こうへ、再び。
ほぼ、翔太が“獣”であることを確信した言葉……いや、あの調子では、まだ探りか。
だが、翔太はまだ知らない。『受胎』とは何か。ロキやおとぎ話の姫たち、ゴブリンやトロール以外に、何がこの結界の外で待ち受けているのか。病院から脱出した路線バスの行方、ベールゼバブの受肉を伴った顕現。まだまだ謎が多すぎる。
──どうすれば、乃々を救い出せるか。
分からないことばかりなら、急務は乃々救出だ。まずは、その方法から考えなければならない──。




