表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第三章 蝿の王編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

214/240

第207話 殺戮の姫君より【序】──紅茶と血のあいだに、ぬくもりのない微笑が浮かぶ

第207話


 大熊が言うには、この濃霧カスケードは、これまでの災厄なんかとはもう別物らしい。水城市そのものが、まるごと別の側へ滑り落ちていく途中――そういう言い方だった。夜が明けても霧が晴れないなんて現象、記録上まずありえない。国際魔術会議ユニマコン本部でも「カスケード発生から十五時間以上が経過。依然、濃霧は維持」と繰り返し報告されていたという。“十五時間”という数字は、普通ならもうとっくに現世側に戻っていないとおかしい長さだ、とも。


 ゴブリンやトロールといった北欧の怪物が、幻じゃなく“質量つき”で市街地を歩いているのも、その証拠だ。ぶつかれば骨が折れる。殴られれば血が噴く。そういう重さで現れている、と大熊は言った。「ゴブリン」がこれほどはっきり確認された最後の記録は、五百年前のフランス中部・ピュイ山脈付近で起きた『カスケード』

 今の水城は、もう“昔話の側”の危険度に踏み込んでいた。


 五百年ぶり。教本では“伝承扱い”になっている項目が、今ここでは普通に階段を駆け降りてくる。

 大熊はソファの背にもたれ、まだ血の匂いが残る髪をタオルでわしゃわしゃとかきながら、テーブルに置いた湯呑を親指でちょん、と押した。

 そこには翔太と美優と芽瑠がいて、南雲は借り物のシャツを胸の前でそっと押さえ、はだけないように指先でボタンをいじっていた。

 高木は無言で、青アザの浮いた肩に保冷剤を押しつけている。

 みんな、まだわずかに呼吸が荒い。部屋じゅうはシャンプーと石鹸の匂いしかしないのに、テーブルの上だけが血の温度をしていた。


 まずは「何が起きてるのかを教えて」と美優が言い、大熊は「順番に話す」と低く返した。高木や南雲はそれを止めようとしたが、大熊は「いや。この二人には逆に、知っててもらったほうがいい」と、どこか探るような声で押しとどめた。


 そこから先は――ほとんど聞きたくない種類の現実だった。


 ◆  ◆  ◆


「まず、ゴブリンよ。あの、ちっこくて緑ので、映画とかゲームに出る、あれのこと?」

「そうだ、嬢ちゃん。そのゴブリンだ」


 大熊はため息まじりに笑った。だが、その笑いは顔のどこにも乗っていない。


「トロールは身の丈五メートル級だ。棍棒をぶん回してくる。水城の階段も駐車場の屋上も、平気で走り回ってる。……今の霧の中は、そういう世界になっとる。もちろん『ゴースト』もいる。車ん中だろうが家ん中だろうが、安全圏なんてもうないかもしれねえ」


 美優は膝の上で両手をぎゅっと握った。芽瑠は、その拳の端っこをこっそり掴んで離さない。


「でな。数が多い。あいつら、好き勝手に走り回ってるように見えて、ちゃんと頭が回っとる。ワシらの背中に回り込んで死角を突いてくる。罠も張る。逃げ道も読んでくる。油断して一体でも近寄られたら最後だ。一体で十分だ。足に喰いつかれたら、もう身動きとれん。あとは早い。悲鳴出す前にこっちが静かになる。そういう手口だ」


 大熊は、南雲が視線を落とすのを横目にとらえ、そこでいったん言葉を切った。


「それだけじゃねえ」


 彼は、さっきまで笑っていた口元を引き結んだ。


「相手が女とみるや、片っ端から“子袋”扱いだ。押し倒して、服を剥いで、自分のもんにしようとする。見境はねえ。捕まったら、人間扱いはもう終わりだ。そういう連中だ。……南雲は真っ先に群がられた。高木も見てる」


 南雲の肩がびくっと揺れ、胸元を押さえる指がこわばった。高木は黙ったまま、血が出そうな勢いで唇を噛んでいる。


「……近づかれたら終わりってことね」美優の声は小さい。自分の喉が鳴らしたはずなのに、他人の声みたいに乾いて聞こえた。


「終わりだ」


 大熊はあっさりと断言した。


「“助けが間に合えばセーフ”とか、そんな甘い話じゃねえ。囲まれた時点で、そっから先はもう“事件”じゃなくなる。“後処理”になる。だから近づかせねえのがすべてだ。だからこその連携だ」


「……連携?」翔太が問う。

「そうだ。三人で組んだ。ワシが投げナイフで目と喉を止める。高木がこんでふっ飛ばす。南雲が最後にまとめて潰す」

「まとめて潰すって……」

「文字どおりよ、翔太くん」


 南雲がやっと口を開いた。濡れた髪を耳にかけ、まだ震えが残る指でこちらを見る。その笑いは「ごめんね」と「見ないで」の真ん中にあった。


「アタシの勾玉はね、一定の範囲を“全部まとめて吸い寄せて、ギュウって潰す”の。ブラックホールって言ったら伝わる? だから、うまく決まると、ゴブリンはお団子になって、どろどろに溶けて、はい終了」

「……」

「最強じゃない……?」美優は息を呑んだ。

「ただし失敗すると、自分も味方も一緒に潰れるの。近すぎると巻き込むし、散られると吸えないし、乱戦では使いにくい。正直、ヤケクソでしかない強さ」


 南雲はそう言って、冗談みたいに舌を出した。けれど誰も笑わなかった。笑えなかった。

 太は喉の奥が焼けるような感覚を覚え、美優は目を伏せたまま、噛んだ唇をわずかに震わせていた。


「で。ゴブリンは、それで押し返せねぇこともない」と大熊は続けた。「トロールもな。再生持ちで、うるせえくらいに暴れるが、工夫すりゃ腹の中からぶち壊して肉団子にできる。南雲と高木がやってのけた」

「いや……それは南雲さんのアイデアで……」と高木が呟く。

「うるせえ。たまには誇っとけ」


 大熊は高木の肩を、わざとらしくベシッと叩いた。高木は少しだけ顔をそむける。


「だからな。ここまでは、まだわかる話だ。怪物? はいはい。殴れば死ぬんだろ? っていう話だ。ここからが、本当におかしい」


 大熊の声が、そこで一段低くなった。


「霧の向こうからな、“アリス”が出てきたんだよ」


 ◆  ◆  ◆


 翔太は息を呑んだ。

 美優のまばたきが止まる。乃々が言っていた“アリス”という名と重なる。


「ワシも最初は耳を疑った。けど、あちらさんは自分で名乗りやがった。“私の名前はアリス”ってな。水色のワンピに、金の髪、青い目。にっこにこ笑いながら、ワシらを見て“遊ぼうよ”って言ってきた」


 これも乃々から得た情報と同じ。

 本当に存在しているのだ。


「その“アリス”がな――」


 大熊はゆっくり、自分の胸のあたりを指で押さえた。さっきまで血で真っ赤に濡れていたはずの場所だ。今はシャツ越しでもほとんどわからないくらい、きれいに塞がっている。


「――このワシの胸を、背中から前へ、ズブリと突き抜けさせやがった」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ブクマ・ポイント評価お願いしまします!
小説家になろう 勝手にランキング
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ