第207話 殺戮の姫君より【序】──紅茶と血のあいだに、ぬくもりのない微笑が浮かぶ
第207話
大熊が言うには、この濃霧は、これまでの災厄なんかとはもう別物らしい。水城市そのものが、まるごと別の側へ滑り落ちていく途中――そういう言い方だった。夜が明けても霧が晴れないなんて現象、記録上まずありえない。国際魔術会議本部でも「カスケード発生から十五時間以上が経過。依然、濃霧は維持」と繰り返し報告されていたという。“十五時間”という数字は、普通ならもうとっくに現世側に戻っていないとおかしい長さだ、とも。
ゴブリンやトロールといった北欧の怪物が、幻じゃなく“質量つき”で市街地を歩いているのも、その証拠だ。ぶつかれば骨が折れる。殴られれば血が噴く。そういう重さで現れている、と大熊は言った。「ゴブリン」がこれほどはっきり確認された最後の記録は、五百年前のフランス中部・ピュイ山脈付近で起きた『カスケード』
今の水城は、もう“昔話の側”の危険度に踏み込んでいた。
五百年ぶり。教本では“伝承扱い”になっている項目が、今ここでは普通に階段を駆け降りてくる。
大熊はソファの背にもたれ、まだ血の匂いが残る髪をタオルでわしゃわしゃとかきながら、テーブルに置いた湯呑を親指でちょん、と押した。
そこには翔太と美優と芽瑠がいて、南雲は借り物のシャツを胸の前でそっと押さえ、はだけないように指先でボタンをいじっていた。
高木は無言で、青アザの浮いた肩に保冷剤を押しつけている。
みんな、まだわずかに呼吸が荒い。部屋じゅうはシャンプーと石鹸の匂いしかしないのに、テーブルの上だけが血の温度をしていた。
まずは「何が起きてるのかを教えて」と美優が言い、大熊は「順番に話す」と低く返した。高木や南雲はそれを止めようとしたが、大熊は「いや。この二人には逆に、知っててもらったほうがいい」と、どこか探るような声で押しとどめた。
そこから先は――ほとんど聞きたくない種類の現実だった。
◆ ◆ ◆
「まず、ゴブリンよ。あの、ちっこくて緑ので、映画とかゲームに出る、あれのこと?」
「そうだ、嬢ちゃん。そのゴブリンだ」
大熊はため息まじりに笑った。だが、その笑いは顔のどこにも乗っていない。
「トロールは身の丈五メートル級だ。棍棒をぶん回してくる。水城の階段も駐車場の屋上も、平気で走り回ってる。……今の霧の中は、そういう世界になっとる。もちろん『ゴースト』もいる。車ん中だろうが家ん中だろうが、安全圏なんてもうないかもしれねえ」
美優は膝の上で両手をぎゅっと握った。芽瑠は、その拳の端っこをこっそり掴んで離さない。
「でな。数が多い。あいつら、好き勝手に走り回ってるように見えて、ちゃんと頭が回っとる。ワシらの背中に回り込んで死角を突いてくる。罠も張る。逃げ道も読んでくる。油断して一体でも近寄られたら最後だ。一体で十分だ。足に喰いつかれたら、もう身動きとれん。あとは早い。悲鳴出す前にこっちが静かになる。そういう手口だ」
大熊は、南雲が視線を落とすのを横目にとらえ、そこでいったん言葉を切った。
「それだけじゃねえ」
彼は、さっきまで笑っていた口元を引き結んだ。
「相手が女とみるや、片っ端から“子袋”扱いだ。押し倒して、服を剥いで、自分のもんにしようとする。見境はねえ。捕まったら、人間扱いはもう終わりだ。そういう連中だ。……南雲は真っ先に群がられた。高木も見てる」
南雲の肩がびくっと揺れ、胸元を押さえる指がこわばった。高木は黙ったまま、血が出そうな勢いで唇を噛んでいる。
「……近づかれたら終わりってことね」美優の声は小さい。自分の喉が鳴らしたはずなのに、他人の声みたいに乾いて聞こえた。
「終わりだ」
大熊はあっさりと断言した。
「“助けが間に合えばセーフ”とか、そんな甘い話じゃねえ。囲まれた時点で、そっから先はもう“事件”じゃなくなる。“後処理”になる。だから近づかせねえのがすべてだ。だからこその連携だ」
「……連携?」翔太が問う。
「そうだ。三人で組んだ。ワシが投げナイフで目と喉を止める。高木が棍でふっ飛ばす。南雲が最後にまとめて潰す」
「まとめて潰すって……」
「文字どおりよ、翔太くん」
南雲がやっと口を開いた。濡れた髪を耳にかけ、まだ震えが残る指でこちらを見る。その笑いは「ごめんね」と「見ないで」の真ん中にあった。
「アタシの勾玉はね、一定の範囲を“全部まとめて吸い寄せて、ギュウって潰す”の。ブラックホールって言ったら伝わる? だから、うまく決まると、ゴブリンはお団子になって、どろどろに溶けて、はい終了」
「……」
「最強じゃない……?」美優は息を呑んだ。
「ただし失敗すると、自分も味方も一緒に潰れるの。近すぎると巻き込むし、散られると吸えないし、乱戦では使いにくい。正直、ヤケクソでしかない強さ」
南雲はそう言って、冗談みたいに舌を出した。けれど誰も笑わなかった。笑えなかった。
太は喉の奥が焼けるような感覚を覚え、美優は目を伏せたまま、噛んだ唇をわずかに震わせていた。
「で。ゴブリンは、それで押し返せねぇこともない」と大熊は続けた。「トロールもな。再生持ちで、うるせえくらいに暴れるが、工夫すりゃ腹の中からぶち壊して肉団子にできる。南雲と高木がやってのけた」
「いや……それは南雲さんのアイデアで……」と高木が呟く。
「うるせえ。たまには誇っとけ」
大熊は高木の肩を、わざとらしくベシッと叩いた。高木は少しだけ顔をそむける。
「だからな。ここまでは、まだわかる話だ。怪物? はいはい。殴れば死ぬんだろ? っていう話だ。ここからが、本当におかしい」
大熊の声が、そこで一段低くなった。
「霧の向こうからな、“アリス”が出てきたんだよ」
◆ ◆ ◆
翔太は息を呑んだ。
美優のまばたきが止まる。乃々が言っていた“アリス”という名と重なる。
「ワシも最初は耳を疑った。けど、あちらさんは自分で名乗りやがった。“私の名前はアリス”ってな。水色のワンピに、金の髪、青い目。にっこにこ笑いながら、ワシらを見て“遊ぼうよ”って言ってきた」
これも乃々から得た情報と同じ。
本当に存在しているのだ。
「その“アリス”がな――」
大熊はゆっくり、自分の胸のあたりを指で押さえた。さっきまで血で真っ赤に濡れていたはずの場所だ。今はシャツ越しでもほとんどわからないくらい、きれいに塞がっている。
「――このワシの胸を、背中から前へ、ズブリと突き抜けさせやがった」




