第206話 深まる謎
第206話
──玄関。
ドアを開けた瞬間、美優の顔に笑みが浮かんだ。
それは、まぎれもなく、大熊英司の顔だったからだ。
「大熊のおじさんっ!」
今度は絶対、ニセモノじゃない……!
美優の表情がぱっと輝く。
けれど――。
喜びはつかの間だった。その三人の姿に、その傷つきぶりに。
美優は言葉を失った。
「え……どう……したの……」
血と泥。裂けた布。汗と霧で貼りついた髪。
大熊、高木、南雲。まるで戦場から這い出てきたみたいだ。
「ひどい怪我! 一体、何があったの!? 外では何が起こってるの?」
「いや、嬢ちゃん……」
「おかしい、おかしすぎるよ。どうしてこんなんなっちゃってるの!?」
大熊は頭をぼりぼりとかきながら、ちょっと居心地悪そうにこう言った。
「……まあ、嬢ちゃん。とにかく中へ入れてくれ」
◆ ◆ ◆
シャワー。湯気。石鹸の匂い。
まず大熊と高木が出てくる。翔太のスウェットに着替え、タオルで髪を拭きながらリビングのソファへ。
「いやあ……スッキリしたよ。この湯はありがてえな。本当にありがとよ」
高木が続く。
「ありがとうございます。本当に……疲れが取れたような気がします」
二人の顔色が、少し戻っている。
それからしばらくして――。
「美優さん、服……お借りしています。お手数をおかけして、ほんと、ごめんなさい」
脱衣所のドアが開いて出てきたのは南雲麻衣。
濡れ髪が肩から背へ。滴がつうっと肌を伝う。
湯上がりの頬はほんのりと赤い。唇は潤んでいて、のどやうなじが驚くほど白かった。
無防備。けれど大人の色気。
翔太も、美優も、息を呑んだ。
ただ、見とれて――。
その時だった。
ぱちん。
南雲の胸のボタンが、はねた。
「あっ……!?」
美優の目がまん丸になる。
(え、なになに? どういうこと?)
だが、すぐに気づいた。そうか、そういうことか……。
美優の胸の奥がちくりと痛む。
(……私だってEカップあるのに……!)
むうっと内心で毒づき、頬を熱くする。そこで気付いた。
翔太の視線が一瞬だけそこへ向けられたのを。
でも、すぐ真っ赤になって目を逸らす。
だがそれがもう、見たの証拠。
美優はぎゅっと胸を腕で抱きしめた。
自然に頬が膨らむ。
美優はそのまま、ちらりと翔太を睨んだ。
(……コラ……!)
翔太は目を泳がせ、ますます頬が赤い。
南雲は気づかないまま髪をかき上げ、ふうと息を吐いてソファの端へと座った。
美優も隣に座った。
どかっ!
翔太から見れば、なんだか美優がやたらと不機嫌に見えた。
「……?」
美優の気も知らないで、翔太は首を傾げた。
◆ ◆ ◆
リビングに、重い沈黙。
芽瑠だけが、お人形に「おちゃどうぞ」と囁いて、カーペットの上に座ってにこにこしている。
切り出したのは翔太だ。
「で……一体、何があったんですか?」
だがその翔太の声は、不安を含んでいる。
大熊は手にした湯呑を置き、頭をぼりぼりとかいた。
「何があったか……そうさなあ」
「教えて。大熊のおじさん」
美優は静かに促す。
「きっと大変なことが起こっているんでしょ?」
少しの逡巡。ため息。
「だっておかしいわ。夜が明けても濃霧はまだ漂ったまま。変な咆哮が聞こえる。こんなこと今までなかった……。どうして? 大熊のおじさんなら、何か知ってるんじゃない?」
だが、大熊は口を閉ざしている。
「ねえ、お願い。おじさん。何があったのか知っていることだけでも教えて」
「……機密だ」
「そんな! おじさんと私の仲じゃない! お父さんだったら絶対教えてくれる! ねえ!」
「慌てるなよ、嬢ちゃん」
大熊は美優に笑顔を見せた。
「まあ、そうさな。だから本当は話せねえ。だが――まあ、嬢ちゃんたちも、そこの翔太くんも、いわば国際魔術会議の関係者といえば関係者だ。聞け」
「大熊さん、そこまで……」
高木が止めようとする。
「いいんだ、高木」
その様子を南雲が心配そうに見ている。
「二人とも親は国際魔術会議のお偉方だった。それに、もう何度も事件には巻き込まれている」
「でも、今の状況は……」
「まあ、シャワーの礼だと思えばいいじゃねえか」
大熊は高木の背中を笑いながらバンバンと叩く。
これで高木はもう諦めてしまった。
(この人、言い出したら聞かないんだから……)
ついに大人しくなった高木を尻目に、大熊は声を低く落として話し始めた。
「俺たちは、市内の濃霧区域に派遣された。目的は二つ。調査と討伐。霧の中から現れる――ゴブリンやトロールを倒すこと……」
「え、今、なんて?」と美優。
「ゴブリンのことか?」
事も無げにいう大熊に次は翔太が繰り返した。
「ゴブリン?」
美優が続ける。
「……ゴブリンって、あの……?」
「そうだ、嬢ちゃん。そのゴブリンだ」
美優と翔太は、これまでの現実感が崩れる音を聞いた気がした。
「嘘でしょ?」
美優の声は本当に小さかった。
「嘘よね、おじさん。だって、そんなこと、今まで……」
大熊は肩をすくめる。
「嘘なら、どれほど楽か。いた。動いた。襲ってきた。それが全てだ」
高木が淡々と補う。
「あれは確かにゴブリンと、トロールでした。例の北欧神話などに出てくる化け物たちです。やつらは一匹一匹は大した事ないが、近接に入られると危険です。ですので僕たち三人は“距離の分担”で崩しました。ただ、大熊さんのナイフさばきと、麻衣さんの勾玉の秘術がなかったら、危なかったかもしれません。……詳説は省きますが、数が多くてもやり方次第で、押し返すことはできる。ただ――」
「ただ?」
翔太が唾を飲む。
大熊は一拍、言葉を飲み、置いた。
「途中から、様子が違ったんだ」
その大熊の声にはゾッとするような不穏が入り混じっていた。
「ゴブリンやトロール自体は、我々で何とかなった。だが、匂いが変わった。霧がざわつく。……説明できねえ“何か”が混じってやがったんだ」
湯呑のふちを指でなぞりながら聞いていた美優が、パッと顔を上げた。
「“何か”って、どんな……?」
ただ事ではない。美優は、大熊の話し方を熟知している。
間違いない。
ゴブリンやトロール以上の、何か恐ろしいことがあったのだ。
そんな美優の気配を察したかどうか。
大熊はこう呟いた。
「おとぎ話だ」
そして目を伏せた。
「おとぎ話?」
「そうだ」
何を言っているか美優には分からない。
ただでさえ異常事態が起こっているのに、そこで「おとぎ話」というのはどういうことか。
「大熊さん……」
高木が大熊に呼びかける。
話すか話さないのか。その大熊の判断を見守っている。
そして大熊は、前者を取った。
もう、分かることはすべて話すつもりになったのだ。
「姫が出たんだ」
「姫?」
「ああ、そうさ、嬢ちゃん」
大熊は深くソファに座り直して言った。
翔太がつばを飲む。
「まあ、言うのもバカらしいが、姫としかいいようがねえ。水色が笑って、白が微笑んで、眠るのも、赤いずきんも。……霧の向こうから、こっちを見てた」
ソファの革がきゅっと鳴る。
芽瑠が「おひめさま」とつぶやき、人形の向きを直した。
「不思議の国のアリスって知ってるか?」
「もちろんよ」
「そうか……。それだ。アリスだ」
「アリス……!?」
翔太と美優の目が合う。
なるほど。「おとぎ話」とは兎谷乃々《うさたにのの》が語っていた、例の「おとぎ話の姫たち」の話のことだ。乃々が話していたこととの辻褄が合う。
乃々の言葉は、悪ふざけでもウソでもなかった。
「それに白雪姫にシンデレラ、赤ずきんに、人魚姫……」
美優は頭を整理しながら聞く。
「それらが、悪魔のように襲ってきたんだ」
リビングに沈黙が流れる。
そうだ。
これは本当の話。乃々も語っていた話し。
高木や南雲だって信じられない。
だが、見たのだ。
これは事実なのだ。
時間を置いて、美優はすべてを理解する勇気を持ったようだった。
そして尋ねた。ごくごくシンプルに……。
「強いの?」
だがその美優の声は震える。
「規格外だ」
大熊は短く、はっきりと言った。
「理屈が利かねえ。刃が通るのに、通らねえ。重さがあるのに、ない。笑って、近づいて、気付いたら詰んでる。……そういう種類の、バケモンだ」
高木が言葉を選んで言う。
「既存の分類に当てはまりません。記録に近いのはありますが、一致しない。霧との連動は濃厚です。茶会のような場を……構築していた、気配」
「茶会?」
美優の喉が鳴る。
大熊は頷き、視線をテーブルへ落とす。
「カップが並ぶ。上品に笑って、何かを集める。……その何か、が、俺の血だったかどうか。そこは――ぼかしておく。まあ、わしも匂いと温度だけ、覚えてるって感じかな。あと、こんなことも言っていた。これはわしら国際魔術会議も追ってる獲物だ。聞き間違えるわけねえ」
「その言葉って……」
「大熊は、天井を見上げて言った。
「“666の獣”を復活させる……だとさ」
「…………!」
翔太と美優は、同時に顔を見合わせた。
冷たい汗が、背中をつつっと落ちる。
――“666の獣”。
その四文字が、二人のこめかみで鈍く脈打つ。
翔太の魂に刻まれた“666”。宿命であり、悪夢のようなその真実。
美優は黙っている。翔太の苦悩は、誰よりもよく分かっているつもりだ。
それに……。
(確か、ロキも、“666の獣”を復活させたがっていたはずだ……何か関係があるのか……?)
大熊がそんな二人の表情を見て、眉をひそめる。
「どうした?」
「い、いえ……」
翔太は視線を落とす。指が小さく震える。
美優は作り笑いで誤魔化し、翔太の袖をそっとつまんだ。
大熊は短く「……まあ、いい」とだけ言って、話を続けた。
「問われた。名指しに近い言葉でな。『反キリスト』だの、『六がどうの』だの。……ああいう遊びの声色で、核心をつついてくる。気味が悪い。そして答える前に――やられた」
再び沈黙が流れる。そして。
「まあ、とにかく言えるのは二つ。一つ、今回の濃霧は異常だということ。ゴブリンとトロールが実在化してるんだからな。この霧では“呼ばれて”るって思っていいだろう。そして、二つ、あの“姫たち”は――ダメだ。規格外に強すぎる。今のわしらの戦力じゃ、歯が立たねえ」
芽瑠が「おちゃ、どうぞ」と人形にカップを当てる。こつん。小さな音。
翔太はかすれ声で、なおも食い下がる。
「国際魔術会議は……どこまで、わかってるんです?」
「調査中だ。討伐と並行。手が足りねえ。通信も霧で乱れる。――だからここでひと息入れて、また出る。それだけだ」




