第205話 ドアから呼ぶ声
第205話
──再び翔太の家のリビング。
その瞬間、翔太は胸に妙なざわつきを覚えた。
「……っ!」
胸骨の奥を冷たい爪でひっかかれたような感覚。
思わず前屈みになる。
「翔太くん!? 大丈夫!?」
すぐに駆け寄った美優が肩を支える。だが翔太は声を返せなかった。
喉の奥が詰まり、呼吸すら細くなる。
「翔太くん……ねえ、しっかりして!」
翔太には、その声も遠く、霞んで聞こえていた。
そこへ、小さな足音。
芽瑠が兄の袖をぎゅっと掴み、心細げに呟く。
「お兄ちゃん……? 怖いの……? 苦しいの……?」
翔太の顔色は真っ青に染まり、冷たい汗が額を伝い落ちていく。
(何だ、今のは……。胸の奥を誰かに握られたみたいだ……)
そう。そして、それは切ない感触でもあった。
(この感覚……どこかで……)
不意に、脳裏に像が浮かんだ。
――青白い顔で、無表情のひまりが、海辺の神社の境内を、霧に溶けるようにこちらへ歩いてくるのを。
「葉山さんっ!!」
思わず名を漏らした翔太に、美優が驚き、問い返す。
「何? ひまりちゃんのことでなにか感じたの!?」
「葉山……さん……」
芽瑠も小さく名を繰り返す。
「その感じ……翔太も気付いたかい?」
その時だった。
空気を切る軽い音とともに、小柄な影がふわりと宙に浮かんだ。
シャパリュだ。
まるで全てを知っていたかのように、片目を細める。
「どういうこと? ひまりちゃんに何かあったの!? やっぱり崇徳……崇徳上皇になにか関係があるの!?」
シャパリュは前足を胸の前で組むようにしながら、「う~ん」と唸った。
「なんともないってことはないけど……」
美優はごくりとつばを飲む。翔太も額の汗を拭う余裕もなく、必死にシャパリュを見上げていた。
「でも心配することはないと思うよ」
「心配することはないって……どういう意味だよ」
翔太がかすれ声で問いただす。
シャパリュは尾を揺らしながら三人を見回し、淡々と告げた。
「崇徳上皇は、確かに、一瞬、その姿を見せた」
ぞくり、と空気が震える。
「でも安心してほしい。ひまりの中に宿るあの大怨霊は、復活なんてしていないよ。ロキを消し去ったのは……きっと、陰皇の突然の出現に呼応して、溢れ出した力だと思う。恐怖を感じたのか、それとも“アレ”を倒すべき敵と見なしたのか……」
「“アレ”って……陰皇のこと?」
美優が焦りを含んだ声で問いかける。
シャパリュは小さく笑った。
「そうだね。確かにロキは恐るべき敵ではあるけど、崇徳上皇を反応させるほどの存在じゃない。ロキはおそらく巻き添えだ」
「巻き添え?」
翔太は意外そうに声を漏らした。
「そうさ。突然のあの力に、ロキの術式がかき消されたんだろうね」
皆が黙り込む。
「陰皇という規格外の存在に、この街全体の結界も、ひまりの“器”も、ほんの一瞬だけ軋んだ。その隙に……上皇の怨嗟が漏れ出したんだろう」
翔太は唇を噛み、堪えきれずに声を荒げた。
「化け物だ……。やっぱり、あの怨霊は化け物だ……」
再び、苦しそうに翔太がいう。
「それを、君が言うかい?」
シャパリュはいかにも愉快そうに皮肉めいて笑った。
「まあ、いい」
そして続ける。
「確かに、崇徳上皇とひまりについては、今後も注視をしなければならない。それよりも今、考えなければいけないのは、この状況をどうするかってことだ」
「どうもこうも、この濃霧……こんな状況じゃ、俺たちだって外へ出ようがない。それに、乃々も攫れたままだ。まずは、乃々を救出することから始めたい」
「うん。まあ、翔太ならそう言うだろうね」
「頼む……シャパリュ……」翔太は懇願する。
「乃々を救い出す手立てはないか……?」
う~ん、と前脚で腕組み(?)をするシャパリュ。
「いくつか方法はあるけれど……」
と、そのときだった。
ピンポーン。
ドアのベルが鳴った。
その場のシャパリュ以外の誰もが息を呑む。
緊張が走る。
シャパリュは――なぜか、にやりと笑った。
「じゃあ、僕はこのへんで姿を消すね~」
「シャパリュ!?」
驚く間もなく、宝石が砕けるような音を残して、影ごと空気に吸い込まれるように消えてしまった。
一瞬前までそこにいた存在が、まるで幻だったかのように。
美優は思わず声を詰まらせる。
(……どうして、このタイミングで……?)
残ったのは静けさだけ。心臓が跳ねる。
ドンドン、とドアが乱暴に叩かれた。
「……誰?」
美優が立ち上がる。緊張で足がこわばる。
そう。こんな濃霧現象の真っ只中、現れる者なんて――。
──人間じゃないっ!
胸の奥が凍りつく。翔太も芽瑠も、呼吸を止めた。
ところが。
「おーい。無事か? 開けてくれ、嬢ちゃん。わしだ。大熊だ!」
その声を聞いた瞬間、美優の瞳が揺れた。
それは、とてもあたたかく懐かしい声。
胸の奥に、小さな花が咲くように光が広がる。
不安で縮こまっていた心に、ぱっと陽が射す。
美優の直感が告げていた。
――間違いない。今度はホンモノだ。
「ちょっと休ませてほしい。あとシャワーだ。…………。聞こえないのか? おーい」
ドンドン!
たしかに乱暴な音。だが、その声は優しかった。
大熊さん――父のように頼れる存在。
その響きに、美優の胸は強く打たれた。
恐怖が溶けていく。
代わりに、温もりが満ちていく。
足は自然に動いた。
走るたびに、こわばりがほどけていく。
一歩ごとに、心が軽くなる。
気付けば笑っていた。
涙がにじむほどに、安堵が広がっていた。
美優は、そのまま玄関へと走って行った。
もう震えはなかった。
足取りは確かで。
足取りは真っ直ぐで。
足取りは跳ねるようで――。
その背中には。
翔太の不安をも溶かすほどの安心と喜びが、はっきりと刻まれていた。




