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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第三章 蝿の王編

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第205話 ドアから呼ぶ声

第205話


 ──再び翔太の家のリビング。


 その瞬間、翔太は胸に妙なざわつきを覚えた。


「……っ!」


 胸骨の奥を冷たい爪でひっかかれたような感覚。

 思わず前屈みになる。


「翔太くん!? 大丈夫!?」


 すぐに駆け寄った美優が肩を支える。だが翔太は声を返せなかった。

 喉の奥が詰まり、呼吸すら細くなる。


「翔太くん……ねえ、しっかりして!」


 翔太には、その声も遠く、霞んで聞こえていた。


 そこへ、小さな足音。

 芽瑠が兄の袖をぎゅっと掴み、心細げに呟く。


「お兄ちゃん……? 怖いの……? 苦しいの……?」


 翔太の顔色は真っ青に染まり、冷たい汗が額を伝い落ちていく。


(何だ、今のは……。胸の奥を誰かに握られたみたいだ……)


 そう。そして、それは切ない感触でもあった。


(この感覚……どこかで……)


 不意に、脳裏に像が浮かんだ。

 ――青白い顔で、無表情のひまりが、海辺の神社の境内を、霧に溶けるようにこちらへ歩いてくるのを。


「葉山さんっ!!」


 思わず名を漏らした翔太に、美優が驚き、問い返す。


「何? ひまりちゃんのことでなにか感じたの!?」


「葉山……さん……」


 芽瑠も小さく名を繰り返す。


「その感じ……翔太も気付いたかい?」


 その時だった。

 空気を切る軽い音とともに、小柄な影がふわりと宙に浮かんだ。


 シャパリュだ。

 まるで全てを知っていたかのように、片目を細める。


「どういうこと? ひまりちゃんに何かあったの!? やっぱり崇徳……崇徳上皇になにか関係があるの!?」


 シャパリュは前足を胸の前で組むようにしながら、「う~ん」と唸った。


「なんともないってことはないけど……」


 美優はごくりとつばを飲む。翔太も額の汗を拭う余裕もなく、必死にシャパリュを見上げていた。


「でも心配することはないと思うよ」


「心配することはないって……どういう意味だよ」

 翔太がかすれ声で問いただす。


 シャパリュは尾を揺らしながら三人を見回し、淡々と告げた。


「崇徳上皇は、確かに、一瞬、その姿を見せた」


 ぞくり、と空気が震える。


「でも安心してほしい。ひまりの中に宿るあの大怨霊は、復活なんてしていないよ。ロキを消し去ったのは……きっと、陰皇いんのすめらぎの突然の出現に呼応して、溢れ出した力だと思う。恐怖を感じたのか、それとも“アレ”を倒すべき敵と見なしたのか……」


「“アレ”って……陰皇いんのすめらぎのこと?」

 美優が焦りを含んだ声で問いかける。


 シャパリュは小さく笑った。


「そうだね。確かにロキは恐るべき敵ではあるけど、崇徳上皇を反応させるほどの存在じゃない。ロキはおそらく巻き添えだ」


「巻き添え?」


 翔太は意外そうに声を漏らした。


「そうさ。突然のあの力に、ロキの術式がかき消されたんだろうね」


 皆が黙り込む。


陰皇いんのすめらぎという規格外の存在に、この街全体の結界も、ひまりの“器”も、ほんの一瞬だけ軋んだ。その隙に……上皇の怨嗟が漏れ出したんだろう」


 翔太は唇を噛み、堪えきれずに声を荒げた。


「化け物だ……。やっぱり、あの怨霊は化け物だ……」


 再び、苦しそうに翔太がいう。


「それを、君が言うかい?」


 シャパリュはいかにも愉快そうに皮肉めいて笑った。


「まあ、いい」


 そして続ける。


「確かに、崇徳上皇とひまりについては、今後も注視をしなければならない。それよりも今、考えなければいけないのは、この状況をどうするかってことだ」


「どうもこうも、この濃霧……こんな状況じゃ、俺たちだって外へ出ようがない。それに、乃々もさらわれたままだ。まずは、乃々を救出することから始めたい」


「うん。まあ、翔太ならそう言うだろうね」


「頼む……シャパリュ……」翔太は懇願する。

「乃々を救い出す手立てはないか……?」


 う~ん、と前脚で腕組み(?)をするシャパリュ。


「いくつか方法はあるけれど……」


 と、そのときだった。


 ピンポーン。


 ドアのベルが鳴った。


 その場のシャパリュ以外の誰もが息を呑む。

 緊張が走る。


 シャパリュは――なぜか、にやりと笑った。


「じゃあ、僕はこのへんで姿を消すね~」


「シャパリュ!?」


 驚く間もなく、宝石が砕けるような音を残して、影ごと空気に吸い込まれるように消えてしまった。

 一瞬前までそこにいた存在が、まるで幻だったかのように。


 美優は思わず声を詰まらせる。

(……どうして、このタイミングで……?)

 残ったのは静けさだけ。心臓が跳ねる。


 ドンドン、とドアが乱暴に叩かれた。


「……誰?」


 美優が立ち上がる。緊張で足がこわばる。

 そう。こんな濃霧現象カスケードの真っ只中、現れる者なんて――。


 ──人間じゃないっ!


 胸の奥が凍りつく。翔太も芽瑠も、呼吸を止めた。


 ところが。


「おーい。無事か? 開けてくれ、嬢ちゃん。わしだ。大熊だ!」


 その声を聞いた瞬間、美優の瞳が揺れた。

 それは、とてもあたたかく懐かしい声。


 胸の奥に、小さな花が咲くように光が広がる。

 不安で縮こまっていた心に、ぱっと陽が射す。


 美優の直感が告げていた。

 ――間違いない。今度はホンモノだ。


「ちょっと休ませてほしい。あとシャワーだ。…………。聞こえないのか? おーい」


 ドンドン!


 たしかに乱暴な音。だが、その声は優しかった。

 大熊さん――父のように頼れる存在。


 その響きに、美優の胸は強く打たれた。

 恐怖が溶けていく。

 代わりに、温もりが満ちていく。


 足は自然に動いた。

 走るたびに、こわばりがほどけていく。

 一歩ごとに、心が軽くなる。


 気付けば笑っていた。

 涙がにじむほどに、安堵が広がっていた。


 美優は、そのまま玄関へと走って行った。

 もう震えはなかった。

 足取りは確かで。

 足取りは真っ直ぐで。

 足取りは跳ねるようで――。


 その背中には。

 翔太の不安をも溶かすほどの安心と喜びが、はっきりと刻まれていた。

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