第204話 海辺の神社にて…崇徳上皇、再び
第204話
――その頃。午後過ぎ。
水城市はいまだ濃霧カスケードの中にあった。
昼であるはずの時刻は灰色に閉ざされ、海と町の境目さえ判然としない。
その海岸沿い、古い家屋の奥にある神社もまた、白い帳に覆われ、外界から切り離されていた。
拝殿の奥。
ひまりは膝を揃え、畳の上で手を組んでいた。
(……また霧が濃くなった。お願い……どうか、誰も傷つきませんように……)
声は掠れ、肩が小さく震える。
幼い頃から「見えてしまう」せいで避けられ、恐れられてきた。
人と関わるのが苦手で、笑うことすら下手だった。
けれど――。
(あの時、センテイタイセイさんと筋斗雲で見た景色……。あんなに綺麗で……世界は捨てたもんじゃないって思えた……)
陽に煌めく海と町並み。
その記憶が、まだ胸に灯っている。
(だから……守りたい。この町を。そして大事な人たちくらいは……)
その祈りの最中だった。
そして突然だった。
不意に、下腹部を抉るような痛みが走った。
「……っ!」
子宮が軋む。
内側から刃で切り裂かれるような感覚。
封じられているはずの“それ”が、目を覚ましたかのように。
そう。
ひまりは――日本三大怨霊、崇徳上皇の“器”である。
(やめて……! 出てきちゃだめ……!)
額から汗が滴り、畳に手をつく。
〈われをうしと 世をもうらみし……〉
耳の奥に、濁った声が広がった。
それは血の奥から響いてくるようで、骨を這うように冷たい。
「ひッ……!」
拝殿の柱が軋み、天井から煤のような影が垂れ下がる。
空気は胎内のように湿り、重くふくらんでいく。
吐き気。眩暈。
その直後――。
下腹部の奥で、ぷつりと膜が破れるような感触が走った。
そこから、どろりと熱いものがあふれ出す。
「…………!?」
最初は、生理が突然始まったときのような、ねっとりとした生温かさ。
だがすぐに、堰を切った破水のように、ぬるりとした液体が股間を伝い、畳に落ちていった。
「ひ……いやぁぁあああ!」
鮮血がじわじわと広がっていく。
畳の目地を這い、赤黒い染みは音を立てて吸い込まれ、まるで畳そのものが脈打つようにぶくぶくと泡を吐き出した。
鉄の匂いが鼻を突く。
(……いやだ……!)
湿った布を叩いたような、じゅわ、とした音が絶え間なく耳にまとわりつく。
脚の下から迫り上がるぬめりは、生の証ではなく、むしろ死の胎動だった。
ひまりは必死に逃れようとする。
だが、畳は柔らかく沈み込み、腰を呑み込もうとする。
それは出産の陣痛にも似た圧迫感――しかし、産声の代わりに聞こえるのは怨嗟の句。
(何、何なの……! 何なのこれ……! 痛い……苦しい……)
血は花のように大きくその花びらを広げる。
そして、その中心で、彼女自身が産み落とされるように、魂を削られていく。
「助け……て……翔太くん……!」
なぜその名を呼んだのか、ひまりにも分からなかった。
喉は勝手に動き、怨嗟の句を繰り返す。
〈あぢきなく 種はつくして 世にたえにけり〉
声を出した瞬間、骨が砕けるような痛みが全身を駆け抜けた。
思わず、背を反らし、ひまりの喉の奥から絶叫がこぼれる。
(取り込まれる……私が、上皇さまに……!)
血は脚を絡め取り、魂を塗り替えようとする。
涙は止めどなく流れる。
だが声は詰まり、ひまりにはそれに抗う術もなかった。
その刹那――だった。
胸元から滑り落ちた御守りが、ぱん、と弾けるように光を放った。
黄金の閃光。
いきなりの神秘。
そして。
その光が畳に広がった血を照らした。
……その次の瞬間。
畳を覆っていた血は、ぐにゃりと波打ったかと思うと、一瞬のうちに消え去ってしまった。
それはまるで「裏返った」ような印象をひまりに与えた。
音を立てて吸い込まれるわけでも、蒸発するわけでもない。
一瞬前まで確かにあったものが、強引に“なかったこと”にされたのだ。
唖然とするひまり。
そこには――ただ乾いた畳が残っていた……。
「…………!?」
鉄の匂いも、湿り気も、音さえも消えた。
残ったのは静寂だけ。
最初から何もなかったかのように。
夢でも見ていたかのように。
「……幻……だったの……?」
ひまりは震える手で股間を確かめる。
乾いている。
血で濡れた形跡すらない。
ひまりは混乱する。
その混乱した胸の奥のずきずきとした痛みは残っていた。
そして涙に濡れた頬を押さえ、小さく首を振る。
(でも……あの苦しみは本物だった……。体の奥が……まだ痛む……)
幻にすぎなかった。
だが、それを「幻」と片づけることが、ひまりにはさらなる恐怖だった。
(上皇さまのお力は封じられているはず……なのに……どうして……!)
胸を押さえ、震える瞳を閉じる。
眠っているはずの崇徳上皇が、なぜここまで干渉するのか。
答えは出ない。ただ恐怖だけが膨張していく。
拝殿は静けさを取り戻した。
だがそれは安堵ではない。怨霊の息が潜むような沈黙だった。
(……負けちゃだめ……。この体で……ここで……上皇さまを、守らなきゃ……)
ひまりは震える腕で自分を抱きしめた。
その姿は小さく、脆く見えた。
けれど――その小さな灯火こそ、崇徳の闇に抗う唯一のものだった。
※…崇徳上皇
ひまりが自らの子宮と、水城市特有の結界で封じている大怨霊。保元の乱で敗れ、四国に流された崇徳上皇は「罪人」として扱われ、崩御しても後白河院は喪礼を行わなかった。その怨嗟は安元3年(1177年)、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀と大事件を起こし、人々を恐怖のどん底へと突き落とした。菅原道真、平将門と並ぶ“三大怨霊”として語られる。『雨月物語』や『弓張月』などでも恐怖の象徴として描かれ、時に四国の守護神として信仰されるなど二面性も帯びる。




