第203話 その耳をよこせ
第203話
「そうだな。俺が求めているのは――単純なことだ」
黒い画面の奥で乾いた笑いが弾けた。温度はひどく冷たい。にもかかわらず、発せられる言葉は鼓膜に直接、細い針で突き刺される。
「乃々はまだ生きている。ただし半分はもう霧に飲まれた。肉体は存在しても、魂は“カスケード”に囚われている」
「なに……!」翔太の声が裏返った。
「嘘だ……乃々が……!」
「嘘だと思うか? なら、確かめてみるといい」
黒い画面がわずかに揺れる。震動は単なる電子ノイズではない。室内の空気そのものを軋ませるような“ざらつき”が混じっていた。
直後、リビングの窓ガラスがびりびりと震え、冷たい夜気を孕んだ水銀の鏡のように滲んだ。そこに映ったのは――乃々の裸体だった。
濡れた黒髪が額に貼りつき、真珠のように白い頬を涙がつたい落ちる。だが輪郭は首筋から下で霧と混じり合い、体は半ばで存在を拒む。肩の線は霧に掻き消え、指先は煙のように散って虚無へ溶ける。
窓に張りつくその裸体は、ガラスの向こうに幽閉された花嫁の幻影――美しく、痛ましく、そして不気味なほど静謐だった。
「乃々……!」
美優が掠れ声で叫ぶ。だが呼び声は届かない。
乃々の唇だけが微かに動き、曇ったガラスに紅の影を刻む。
──翔太クン……。
次に。
――“たすけて”。
その一言が、室内の温度をさらに凍りつかせた。
翔太は立ち上がろうとしたが、シャパリュが尾で押しとどめる。
「触れるな。……あれは本物だが、ここには“届かない”。霧に繋がれた姿に過ぎないよ」
黒画面からは、なおも愉快げな笑い声が降り注ぐ。
「俺なら引き戻せる。俺が引きずり込んだんだからな。だが、戻すには、代価がいる」
「……代価?」翔太が歯噛みする。
「芽瑠の“耳”だ。囁きを拾う感覚は希少だ。その器官を媒介にすれば、乃々を取り戻すどころか――“カスケード”すら制御できる」
「やめろっ!」翔太が吠える。
「妹を犠牲にするなんて、絶対に許さない!」
黒い画面に、冷淡な文字列が走った。
FEED:VALID
DEPTH -05
CONDITION: ONE LIFE = ONE LIFE
「単純な式だろう? 一つの命を差し出せば、一つを救える」
シャパリュが低く唸る。
「……お前の狙いは本当にそれだけか?」
一瞬の沈黙。続いて、ロキの声が笑みを含んで戻る。
「……見抜かれたか。俺が欲しいのは芽瑠だけではない。――確かいただろう。この地に封じられたもう一体の強大な怨霊が……」
空気が歪む。壁紙が血のように滲み、電灯は赤黒く明滅した。
「海岸沿いの神社にいるあの娘。見えないものを視る目。そして――その胎に眠るもの」
翔太と美優の胸を、氷の手がわし掴みにする。
ひまり。葉山ひまり。その体に宿る“存在”。一度目にした理不尽な怨念の光景が、鮮やかに蘇る。
芽瑠が美優の腕の中で震え、囁く。
「……怖い歌が……聞こえる……」
――次の瞬間。
家全体が水底に沈むような圧迫感に包まれ、窓の外の濃霧がさらに膨れ上がった。外で荒れていたゴブリンやオークの咆哮は、嘘のように止む。世界から音が削がれ、ただ胸の奥を抉る囁きだけが響いた。
〈われをうしと 世をもうらみし あぢきなく 種はつくして 世にたえにけり〉
血のような赤文字が黒画面に奔る。
崇徳上皇が死の間際に遺した怨嗟の歌――古の呪いが歌となって顕現し、壁も天井も見えない血潮に塗りつぶしていく。
窓ガラスが悲鳴のように軋み、赤黒いひびが放射状に走る。絨毯は逆立ち、家具は勝手に震え、部屋全体が異界の胎動と化す。
シャパリュの瞳が鋭く光った。
「……狙いは、見えざるものを見る目を持つ葉山ひまりの目と崇徳上皇……じゃ! ロキ、お前……! 自分が何をやろうとしているか分かってないわけじゃないだろうな」
その名が発せられた瞬間、赤文字はさらに輝きを増し、黒画面の奥でロキが愉快げに笑う。
「そうだ! あの怨霊を、この俺が手駒にしてやる!」
そして、なお言葉を重ねる。
「ひまりの目は“見えないものを見る目”。そして彼女の子宮には、崇徳が眠っている。芽瑠の耳とひまりの目、そして“器”が揃えば――俺は怨霊を手駒にできる」
シャパリュが冷笑を漏らした。
「やめておいたほうがいい。ロキ。崇徳は神でも悪魔でもない。“呪詛”そのものだ。お前の狡猾な神性などで、制御できるものではない」
「不可能? 俺は“可能性”を試すために生きている」ロキの声が愉快そうに揺れる。
「ベレスも、陰皇も、ベールゼバブも、俺の盤上に並べてやる。怨霊だろうが、縛れるものなら手駒にしてみせる」
シャパリュは、やれやれと言わんばかりに首を横に振った。
「無理だな」
そして――
「何故なら」
次の瞬間だった。
歌の赤文字が燃え上がり、黒画面から炎柱のように噴き出す。電流と怨嗟が混じり合い、稲妻の衝撃が室内を貫いた。
ロキの声が悲鳴に変わる。
「ぐっ……な……!? これは……プログラミングと魔術の制御が……っ!」
赤い稲光が黒画面を突き破り、渦を巻く霧とともに炸裂した。リビング一面に閃光が乱舞し、血潮の雨のような赤黒い光粒が降り注ぐ。
壁が裂け、床が震動し、天井を走る影がひしめく。スマホは自壊するように火花を散らし、黒画面は悲鳴をあげて霧に呑まれ――
――ロキの気配は、爆ぜるように消し飛んだ。
……あとに残ったのは、何事もなかったかのようなリビング。
通常の状態に戻った翔太のスマホ。
耳に残るのは稲妻の轟き。
赤黒い残光が瞼の裏に焼きつき、鉄の味が喉に張り付く。
翔太は膝をつき、荒く息を吐いた。
「ロキ……が……」
美優は蒼白な顔で芽瑠を抱きしめ、涙を滲ませる。
「ひまり……今も神社で、あの“もの”を……」
翔太は奥歯を噛みしめ、拳を震わせた。
「崇徳上皇……あんな化け物だったなんて……」
美優も、ひまりが抱えた苦しみの具体を思い描き、痛々しいほど身を固くする。
部屋の空気はなお重く、外の霧はゆらぎ続ける。恐怖の残響だけが、生き物のように胸の奥に居座っていた。




