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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第三章 蝿の王編

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第202話 スマホ画面から落ちる乃々の濡れ髪

第202話


 ――そこには誰の姿もない。

 けれど、芽瑠が言った「声」だけが壁紙の裏を這うみたいに、部屋の縁を撫で続けていた。見えない吐息が耳をかすめ、誰かが背後で確かに笑っている――そう思わせる気配だけが、ぴたりと肌に貼りつく。


「ねえ……まだ、笑ってる……」


 芽瑠の囁きが、冷え切った空気に沈んだ。

 美優は喉を固くし、視線だけで四隅を確かめる。「……どこ? どこにいるの……」


 返事はない。


「乃々ちゃん! あなたもそこにいるの!?」


 その時だった。


 ブブブブブ――。


 テーブルの上の翔太のスマホが、小動物みたいに身を震わせた。最初は短く、次は長く、まるで内側から叩かれているみたいに規則を変えて。

 翔太が手を伸ばす。「……なんだ、これ」

 指先に震動が移るたび、不安も手首を逆流して胸へ戻ってくる。


 そして、画面は唐突に真っ黒へ落ちた。


「えっ?」


 美優が駆け寄る。


「翔太くん、どうしたの?」

「これ……」


 黒い底に、無意味な砂粒みたいな白が滲む。散った粒が線を結び、線は文字に変わる。


 BOOT> SAFE_MODE

 SCAN_SIGIL…

 ACCESS GRANTED


「やっ、何これ……」


 美優の声が震える。


 意味を組み立てる暇もない速さで、次の行が差し込まれた。


 INVOKE://PORTAL(LOCAL)

 ID=NKF-666/SHO-TA

 ECHO:Nono//HELP


「これは……何かのプログラムか……?」


 翔太の声に焦りが滲む。

 シャパリュが細い目で画面を一瞥し、声を低くした。


「なるほど……電波を――いや、信号層そのものを“乗っ取っている”のか」


 次の瞬間、黒の縁から一本の黒髪がゆっくりと、ぬるり、と這い出た。


「うわっ!」


 反射的に端末を取り落とす翔太。

 ぽとり。絨毯へ落ちる。暗い水の輪が静かに広がった。間を置いて、もう一本。ぬるり。――一本ずつ、生えてきては絨毯の上で渦を巻く。その、音のない霧雨のような落下が、逆に神経を削った。


「芽瑠ちゃんっ……!」


 美優は芽瑠を抱き寄せる。「ここにいて、芽瑠ちゃん。動かないで」


 床に落ちたスマホは、自力でずず、とこちらへ滑り来る。その画面には濡れた頬――乃々の断片がちらりと映っては、ノイズに裂ける。


 TRACE:DEPTH -03

 OPEN_FEED? [Y/N]


 電灯が一拍遅れてすべての光を啜った。音もなく室内が闇へ沈む。四方から、同じ低い声が降りてくる。


「666の獣よ……」


 胸の内側を氷指で撫でられたように、翔太の鼓動が跳ねる。頭痛が、黒い画面の中心へと引きずられるみたいに強くなった。黒はもはや機械の暗さではない。魔法陣だ。門だ。


 シャパリュが牙をむき出しにした。


「ロキか……!」


「え? ロキ!?」


 美優の視線が揺れる。


「こんな妙な術を使うのは君くらいだ。それに、その声で分かる」


 シャパリュの全身から、刃の気配が立ち上がる。空気が一段重くなり、床がわずかに沈んだ。家の匂いが、戦場の冷たさに置き換わっていく。


 黒い画面の“向こう”から、肩をすくめた気配が返ってきた。


「怖い、怖い。さすが英雄殺し。アーサー王をはじめとして多くの英雄を倒してきた化け猫よ」

「何が目的だ……!」

「安心しろ、俺は“交渉”で来た」

「交渉だと?」


 シャパリュの声音は研ぎ澄まされたまま。

 シャパリュは不敵な笑みを浮かべた。


「誰がお前のような嘘つきの言葉を信じるものかい」

「信じるも信じないも、お前たち次第だ」


 黒の縁から、また一本、乃々の濡れた髪が静かに生える。ぽとり。

 芽瑠が小さく肩をすくめ、絨毯に滲む輪を見つめた。「乃々お姉ちゃん……」


 美優は唇を噛む。「乃々ちゃんは……無事なの?」

 問いは祈りに近かった。返事の代わりに、黒い画面が再び白を孕み、短い行を吐き出す。


 FEED:VALID

 DEPTH -04

 ONE_CHANCE


「ふざけるな!」

 シャパリュが一歩前へ。見えない重圧が刃となって収束する。


「ここは主の屋内結界。ベレスさまの許可なく踏み荒らす場所ではない。その“交渉”とやらは何だというのだ。こんなことまでして結界内へ侵入したのだ。まさかベールゼバブと手を組むのか。それとも――」

「そう殺気立つな。シャパリュよ」


 ロキは落ち着き払った声で言う。


「今、ベレスは俺たちのやり取りを探知できない位置にいる。だから“俺が来た”。――話は簡単だ」


 黒い画面の底で、笑いが近づく。飄々と――だが、確かにこちらを値踏みする温度で。


「さあ、聞くか? 交渉を」


 電灯の光は薄くなり、壁紙は墨色に滲み、絨毯の毛並みが逆立って見えた。家そのものが『カスケード』に引かれている。シャパリュは戦闘の圧を緩めない。その魔力と恐怖がコンセントの穴や壁紙の継ぎ目にまで満ちた。そのせいか翔太は呼吸のたびに肺がきしむ。


「条項を示せ。干渉の範囲、命の保証、限界――今ここで明らかにしろ」

「そうだな。俺が求めているのは……」


 翔太は口の奥で固まった息を押し流し、喉をゴクリと鳴らす。

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