表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第三章 蝿の王編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

208/240

第201話 背後から聞こえる笑い声

第201話


 浴室の扉に手をかけた美優は、胸が裂けそうなほどの鼓動を抱えながら叫んだ。


「乃々ちゃん! 返事して!」


 返答はない。

 水滴の落ちるかすかな音すら、妙に遠く聞こえる。


 美優は震える手で引き戸を引いた。


 ――ぶわり、と濃霧が流れ込む。


 浴室の窓はしまっている。なのに、外と同じ濃霧が這い込んでいた。

 明らかに湯気ではない。

 白く濁った空気が視界を覆い、一瞬で肌を刺すほど冷たく変わる。


「なっ……なんで……蒼さんが結界を張ってくれているのに……!」


 美優の声は掠れ、喉が乾いた。


 床に散らばる濡れたタオル。浴槽の湯は波立ち、誰かがさっきまでそこにいたことを示している。

 だが乃々の姿は――なかった。


「乃々っ!!」


 翔太も肩で息をしながら、浴室の前に立つ。


「……結界の内側だぞ……どうやって……」


 答えのない問いが空気に滲む。


 皆が言葉を失っているその時――。


 ――しゃらん、と軽やかな鈴の音のような声が響いた。


「うーん。これは困ったことになったねぇ」


 振り向けば、そこにいたのはふわふわした巨大な灰色猫。

 月明かりを閉じ込めたような青い瞳がにっこりと細まり、尻尾をゆらゆら揺らしている。


 シャパリュ。

 アーサー王伝説にも名を残す怪猫であり、今は北藤家に居候している、どこか飄々《ひょうひょう》とした存在だった。


「シャパリュ……!」


 芽瑠が小さな声で呼ぶと、猫はひょいと肩をすくめるように前足を上げた。


「まあ。ここにいても仕方ないさ。ひとまずはリビングに集まろう。話はそこで。霧の前じゃ落ち着かないでしょ?」


 その声音は柔らかいが、どこか重みを含んでいた。


 ◆  ◆  ◆


 リビング。


 天井の明かりが灯され、なぜか揺らぐ光が皆の顔を照らす。何か異変があったのは明らかだ。

 翔太はソファに浅く腰掛け、美優は隣で真剣な目を向けている。芽瑠は膝を抱え、落ち着かない様子でシャパリュを見ていた。


 猫はテーブルにひょいと飛び乗り、前足を揃えて座る。


 シャパリュはひげを震わせ、尾を揺らす。


「ひとつは――ベールゼバブ。さっきこの結界内で、翔太の“666の影”を少しだけ引き出したのは彼さ。つまり、彼なら再び侵入する道筋を作れても不思議じゃない。どうやったかは分からないけどね」


 翔太は眉をひそめ、無意識に拳を握りしめた。

 まだ頭はフラフラしている。

 “666の影”……自分の魂を一部でも引っ張り出されたのだから当然だ。

 学校で、ベールゼバブの操るバジリスクにも、攫われそうになりそのときに大怪我をさせられた。

 幸い、デルピュネーの魔力で傷はふさがったものの、肉体自体にもまだ強い疲労が残っている。


「……もう一つは?」


「ロキ。あれは“神属性”だからね。結界の仕組みそのものをすり抜けることも可能だよ」


 美優の唇がわずかに震えた。


「……じゃあ……乃々ちゃんをさらったのは、どっちなの?」


 シャパリュは小首をかしげ、にっこり笑う。


「そこが肝心なんだけど……残念ながら、僕にも“皆目見当がつかない”んだ」


「っ……」


 美優は息を呑む。


 翔太は思わず声を荒げた。


「わからない……? 俺を狙うならまだしも……どうして乃々を……」


 猫は静かに目を細めた。


「理由が読めないからこそ、厄介なんだよ。標的は翔太、でも巻き込まれた乃々……あるいは乃々そのものに何か意味があるのか……。それとも囮なのか。ただひとつ言えるのは――この霧の奥にいる“何者か”は、君たちに試練を与えたってことさ」


 シャパリュの声は柔らかいが、底に冷たい響きを含んでいた。


 芽瑠が小さく口を開いた。


「……お兄ちゃん……乃々お姉ちゃん……帰ってくるよね?」


 沈黙。


 翔太は唇を噛み、答えられなかった。

 美優がその手を強く握りしめる。


「ロキか、ベールゼバブか……」


 翔太は低く呟き、ソファの肘掛けを握りしめる。


「俺を狙うなら、ベールゼバブの線が濃い……あいつはさっき、俺の“影”を引きずり出した。666の獣を完全に目覚めさせるつもりなら……乃々を囮にする理由は十分だ」


 声には苛立ちが滲んでいた。

 自分が狙われているせいで乃々が犠牲になった。その罪悪感が、言葉を鋭くする。


 だが、美優はすぐに反論した。


「でも……おかしいわ。蒼さんの結界は“魔”を拒むもの。ならベールゼバブは再び入れないはずよ。それに……浴室の中に“霧”が入り込んでいた。だったら、北欧神話でも何をしでかすか、何を考えているかわからない伝承が多く残っている、ロキのほうが辻褄が合うんじゃない?」


 美優の眼差しは鋭く翔太を射抜く。


 シャパリュは前足で顔を撫で、ひげをぴんと伸ばした。


「うん、両方に理はあるね。ベールゼバブは“鍵”をもう握っている。君の影を利用すれば、結界の隙を突くことは不可能じゃない。一方ロキは、そもそもこの結界を気にせず入れる存在。どちらも“可能”なんだ」


 翔太は額を押さえ、苦しげに吐息を漏らした。


「……どっちにしろ、乃々が攫われたのは“俺のせい”だ」


「翔太くん!」


 美優は思わず声を荒げた。


「そうやって自分を責めるのはやめて! これは……わたしたち全員の問題よ。あなたひとりが背負い込むことじゃない!」


 彼女の声は震えていた。

 それでも必死に翔太の視線を掴もうとする。


 シャパリュは小さく首をかしげ、にこりと笑った。


「 “どちらでもありえる”ということが、一番怖いんだよ。ベールゼバブでも、ロキでも。理由も手口も読めない以上、動きようがない。それこそが相手の狙いかもしれないけどね」


「シャパリュ……」


 翔太が顔を上げた。


「でも、シャパリュの力なら、なんとかできる可能性はあるんだよな?」


「そうだねえ……」


 シャパリュは困ったような顔をする。


「ベレスさまもデルも、セイレーンもいないこの状況……まあ、僕にかかれば、ある程度の問題は解決できるだろうけど、何も分からないこの状況じゃ、手出しのしようがないよ」


 リビングに重苦しい沈黙が落ちる。


 翔太と美優は互いに視線を合わせ、声を失う。


 ――乃々を攫ったのは誰か。

 答えのない問いが、鋭い刃のように胸を抉っていく。


 沈黙を切り裂いたのは、芽瑠のか細い声だった。


「……あのね……さっきから……誰かの声が聞こえるの」


 リビングの空気が凍りつく。

 翔太も美優も、一斉に妹の方を振り向いた。


「芽瑠……声って……誰の?」

 美優がそっと問いかける。


 芽瑠は膝を抱えたまま、耳を澄ますように目を閉じた。


「……乃々お姉ちゃんの声に……似てるの。『助けて』って……でも、それだけじゃないの。後ろから……知らない人が、笑ってる」


 翔太の心臓が大きく跳ねた。


「……っ!」


 彼の視線が無意識に周囲にある家具たちの影へ走る。揺れる影の奥から、今にも誰かが現れそうな気配がする。


 シャパリュは尻尾を揺らし、声を落とした。


「子供の耳って、時に“結界越し”の声を拾うんだよ。君の妹は、霧に繋がった“囁き”を感じ取ってる」


 芽瑠の小さな肩が震えた。


「……でも、変なの。乃々お姉ちゃんの声は遠いけど……その笑い声は、すごく近くて……」


「近くて?」翔太が詰め寄る。


 芽瑠は顔を上げ、怯えた目で兄を見た。


「……お兄ちゃんのすぐ後ろから、聞こえてくるの」


 ──翔太の背筋を氷の刃でなぞられたような気がした!

 美優は咄嗟に翔太の腕を掴み、振り返ろうとする。


 だが――。


 そこには誰の姿もない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ブクマ・ポイント評価お願いしまします!
小説家になろう 勝手にランキング
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ