第201話 背後から聞こえる笑い声
第201話
浴室の扉に手をかけた美優は、胸が裂けそうなほどの鼓動を抱えながら叫んだ。
「乃々ちゃん! 返事して!」
返答はない。
水滴の落ちるかすかな音すら、妙に遠く聞こえる。
美優は震える手で引き戸を引いた。
――ぶわり、と濃霧が流れ込む。
浴室の窓はしまっている。なのに、外と同じ濃霧が這い込んでいた。
明らかに湯気ではない。
白く濁った空気が視界を覆い、一瞬で肌を刺すほど冷たく変わる。
「なっ……なんで……蒼さんが結界を張ってくれているのに……!」
美優の声は掠れ、喉が乾いた。
床に散らばる濡れたタオル。浴槽の湯は波立ち、誰かがさっきまでそこにいたことを示している。
だが乃々の姿は――なかった。
「乃々っ!!」
翔太も肩で息をしながら、浴室の前に立つ。
「……結界の内側だぞ……どうやって……」
答えのない問いが空気に滲む。
皆が言葉を失っているその時――。
――しゃらん、と軽やかな鈴の音のような声が響いた。
「うーん。これは困ったことになったねぇ」
振り向けば、そこにいたのはふわふわした巨大な灰色猫。
月明かりを閉じ込めたような青い瞳がにっこりと細まり、尻尾をゆらゆら揺らしている。
シャパリュ。
アーサー王伝説にも名を残す怪猫であり、今は北藤家に居候している、どこか飄々《ひょうひょう》とした存在だった。
「シャパリュ……!」
芽瑠が小さな声で呼ぶと、猫はひょいと肩をすくめるように前足を上げた。
「まあ。ここにいても仕方ないさ。ひとまずはリビングに集まろう。話はそこで。霧の前じゃ落ち着かないでしょ?」
その声音は柔らかいが、どこか重みを含んでいた。
◆ ◆ ◆
リビング。
天井の明かりが灯され、なぜか揺らぐ光が皆の顔を照らす。何か異変があったのは明らかだ。
翔太はソファに浅く腰掛け、美優は隣で真剣な目を向けている。芽瑠は膝を抱え、落ち着かない様子でシャパリュを見ていた。
猫はテーブルにひょいと飛び乗り、前足を揃えて座る。
シャパリュはひげを震わせ、尾を揺らす。
「ひとつは――ベールゼバブ。さっきこの結界内で、翔太の“666の影”を少しだけ引き出したのは彼さ。つまり、彼なら再び侵入する道筋を作れても不思議じゃない。どうやったかは分からないけどね」
翔太は眉をひそめ、無意識に拳を握りしめた。
まだ頭はフラフラしている。
“666の影”……自分の魂を一部でも引っ張り出されたのだから当然だ。
学校で、ベールゼバブの操るバジリスクにも、攫われそうになりそのときに大怪我をさせられた。
幸い、デルピュネーの魔力で傷はふさがったものの、肉体自体にもまだ強い疲労が残っている。
「……もう一つは?」
「ロキ。あれは“神属性”だからね。結界の仕組みそのものをすり抜けることも可能だよ」
美優の唇がわずかに震えた。
「……じゃあ……乃々ちゃんをさらったのは、どっちなの?」
シャパリュは小首をかしげ、にっこり笑う。
「そこが肝心なんだけど……残念ながら、僕にも“皆目見当がつかない”んだ」
「っ……」
美優は息を呑む。
翔太は思わず声を荒げた。
「わからない……? 俺を狙うならまだしも……どうして乃々を……」
猫は静かに目を細めた。
「理由が読めないからこそ、厄介なんだよ。標的は翔太、でも巻き込まれた乃々……あるいは乃々そのものに何か意味があるのか……。それとも囮なのか。ただひとつ言えるのは――この霧の奥にいる“何者か”は、君たちに試練を与えたってことさ」
シャパリュの声は柔らかいが、底に冷たい響きを含んでいた。
芽瑠が小さく口を開いた。
「……お兄ちゃん……乃々お姉ちゃん……帰ってくるよね?」
沈黙。
翔太は唇を噛み、答えられなかった。
美優がその手を強く握りしめる。
「ロキか、ベールゼバブか……」
翔太は低く呟き、ソファの肘掛けを握りしめる。
「俺を狙うなら、ベールゼバブの線が濃い……あいつはさっき、俺の“影”を引きずり出した。666の獣を完全に目覚めさせるつもりなら……乃々を囮にする理由は十分だ」
声には苛立ちが滲んでいた。
自分が狙われているせいで乃々が犠牲になった。その罪悪感が、言葉を鋭くする。
だが、美優はすぐに反論した。
「でも……おかしいわ。蒼さんの結界は“魔”を拒むもの。ならベールゼバブは再び入れないはずよ。それに……浴室の中に“霧”が入り込んでいた。だったら、北欧神話でも何をしでかすか、何を考えているかわからない伝承が多く残っている、ロキのほうが辻褄が合うんじゃない?」
美優の眼差しは鋭く翔太を射抜く。
シャパリュは前足で顔を撫で、ひげをぴんと伸ばした。
「うん、両方に理はあるね。ベールゼバブは“鍵”をもう握っている。君の影を利用すれば、結界の隙を突くことは不可能じゃない。一方ロキは、そもそもこの結界を気にせず入れる存在。どちらも“可能”なんだ」
翔太は額を押さえ、苦しげに吐息を漏らした。
「……どっちにしろ、乃々が攫われたのは“俺のせい”だ」
「翔太くん!」
美優は思わず声を荒げた。
「そうやって自分を責めるのはやめて! これは……わたしたち全員の問題よ。あなたひとりが背負い込むことじゃない!」
彼女の声は震えていた。
それでも必死に翔太の視線を掴もうとする。
シャパリュは小さく首をかしげ、にこりと笑った。
「 “どちらでもありえる”ということが、一番怖いんだよ。ベールゼバブでも、ロキでも。理由も手口も読めない以上、動きようがない。それこそが相手の狙いかもしれないけどね」
「シャパリュ……」
翔太が顔を上げた。
「でも、シャパリュの力なら、なんとかできる可能性はあるんだよな?」
「そうだねえ……」
シャパリュは困ったような顔をする。
「ベレスさまもデルも、セイレーンもいないこの状況……まあ、僕にかかれば、ある程度の問題は解決できるだろうけど、何も分からないこの状況じゃ、手出しのしようがないよ」
リビングに重苦しい沈黙が落ちる。
翔太と美優は互いに視線を合わせ、声を失う。
――乃々を攫ったのは誰か。
答えのない問いが、鋭い刃のように胸を抉っていく。
沈黙を切り裂いたのは、芽瑠のか細い声だった。
「……あのね……さっきから……誰かの声が聞こえるの」
リビングの空気が凍りつく。
翔太も美優も、一斉に妹の方を振り向いた。
「芽瑠……声って……誰の?」
美優がそっと問いかける。
芽瑠は膝を抱えたまま、耳を澄ますように目を閉じた。
「……乃々お姉ちゃんの声に……似てるの。『助けて』って……でも、それだけじゃないの。後ろから……知らない人が、笑ってる」
翔太の心臓が大きく跳ねた。
「……っ!」
彼の視線が無意識に周囲にある家具たちの影へ走る。揺れる影の奥から、今にも誰かが現れそうな気配がする。
シャパリュは尻尾を揺らし、声を落とした。
「子供の耳って、時に“結界越し”の声を拾うんだよ。君の妹は、霧に繋がった“囁き”を感じ取ってる」
芽瑠の小さな肩が震えた。
「……でも、変なの。乃々お姉ちゃんの声は遠いけど……その笑い声は、すごく近くて……」
「近くて?」翔太が詰め寄る。
芽瑠は顔を上げ、怯えた目で兄を見た。
「……お兄ちゃんのすぐ後ろから、聞こえてくるの」
──翔太の背筋を氷の刃でなぞられたような気がした!
美優は咄嗟に翔太の腕を掴み、振り返ろうとする。
だが――。
そこには誰の姿もない。




