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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第三章 蝿の王編

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第200話 目覚めた後で……

第200話


 ――濃霧がまだ三叉路を覆い尽くしていた。

 視界は数歩先も霞み、湿り気を帯びた空気が頬や髪にまとわりつく。霧そのものが生き物のように蠢き、外界との境界を切り離していた。


 その背後から、衣擦れの音が響く。しんとした霧の静寂の中で、その音はやけに鮮明に耳へ届く。


「……ベレスさま……」


 澄んだ声。

 霧を割って現れたのは、銀髪を長く垂らした少女だった。

 メイド服の裾を揺らし、手には鋭い槍を携える。

 まだ中学生ほどの幼さを残す顔立ちに、似つかわしくない凛とした気配。

 そのエメラルドグリーンの瞳は、濃霧のなかでも宝石のように鮮やかに輝いていた。


 デルピュネー――冥府に仕える忠実な従者。


 少女の髪が霧に揺れ、銀糸のようにきらめく。槍の刃は灯りを受けて幽かな光を跳ね返し、霧を裂く一閃のように映った。


「先ほどの陰皇いんのすめらぎの一睨みで、この町に現れていた北欧神話の巨人たちも……すべて消え失せました」


 報告する声は澄んでいながらも、緊張に震えている。


 ベレスは長い前髪の隙間から青い瞳をのぞかせ、ふっと優しく笑んだ。

 黒いスーツの裾が、風もないのに淡く揺れる。


「ああ。陰皇いんのすめらぎに、僕がそうお願いしたからね」

「……!」


 デルピュネーの指先がぴくりと震え、槍の柄をぎゅっと握りしめた。

 少女は一歩前へ出て、声をひそめる。


「大丈夫だったのでしょうか……?」

「何がだい、デル」


 優しげな声音が返る。だが少女は心配を隠せない。


「あれは……ベレスさまでも一筋縄ではいかない存在。陰皇いんのすめらぎにあのような“貸し”を作ってしまって……あとで、とてつもない災厄がベレスさまに襲いかかりはしないかと……」


 霧がざわりと揺れた。少女の声には、恐怖と忠義が絡み合った震えがあった。


 だがベレスは――意味ありげに微笑んだ。

 唇の端をやわらかく持ち上げ、あえて優しい調子で。


「大丈夫」


 と、言わんばかりの笑顔。

 不安を包み込むように見せながら、しかし本心を決して覗かせない。


「それよりも……翔太くんの様子はどうだい?」


 ベレスの青い瞳が霧の奥を見やる。

 ベールゼバブに力の一部を抜き取られた少年。666の獣。その身を案じているのだ。


 デルピュネーはすぐに頭を下げ、答えた。


「眠っておられます。おそらく抜き取られた“破壊の影”は……ごくわずかだったのでしょう」

「そうか」


 ベレスは短く頷いた。

 その声音は柔らかく、だが瞳の奥には底知れぬ深淵の闇が宿っていた。


「……なら良かった」


 ベレスの微笑は霧に溶け、静けさだけが残る。

 その笑みは安堵ではなく、決意の奥に潜む仄暗い影を映しているかのようだった。

 デルピュネーはためらいがちに、なおも言葉を探す。


「……それにしても。陰皇いんのすめらぎにあんなにっさりと、あの(・・)ベールゼバブが退いたのは……」

「恐怖だ」


 ベレスの声は低く、短く、霧を震わせる。


「奴とて“王”だ。恐怖を知らぬ王など存在しない」


 デルピュネーは目を伏せ、わずかに唇を噛んだ。

 主の横顔を仰ぎ見るその表情には、忠誠と同時に、人ならぬ畏れが混じっていた。


「……さて」


 ベレスはふっと踵を返した。

 靴音が霧を踏みしめる。


 彼は霧の中を見渡す。

 残滓のように漂う影の気配――街にいた巨人の姿はロキとともに消えたが、ゴブリンやオークの群れがまだ潜んでいる。


「デル」

「はい」

「この濃霧の中に、まだゴブリンやオークがうろついているはずだ。セイレーンと協力して、きれいに片付けておいてくれないか」


 穏やかな声音。だが命令は絶対の響きを帯びていた。


 デルピュネーは槍を握り直し、深く礼をした。

 銀髪がさらりと垂れ、メイド服の裾が衣擦れの音を立てる。


「御意……ベレスさま」


 その声は忠義に燃えていた。


 そして――


 ベレスの姿はふっと掻き消えた。

 残るのは濃霧と、どこからともなく響く蠅の羽音の残響だけ。

 闇に吸い込まれるように、それもやがて消えていった。


 ◆  ◆  ◆


 北藤家。


 ……。


 暗い天井が視界に映る。

 北藤翔太は、ベッドの上でゆっくりと目を開いた。


「あっ!」


 弾けるような声。

 小さな足音が駆け寄り、翔太の顔を覗き込む。


「美優お姉ちゃん、お兄ちゃん起きたの!」


 翔太の妹、芽瑠。小学生になったばかりの、あどけない笑顔がぱっと咲く。


 その後ろから、布と水の容器を抱えた少女が慌ただしく入ってきた。

 長い髪を揺らし、冷たい水の器を手にした美優。


「翔太くん!」

 容器を置き、ベッドへ駆け寄る。

「具合はどう? どこか痛いところはない?」


「……あ……ここは……どこだ?」


 翔太の声は掠れている。


「あなたの部屋よ、翔太くん」


 美優はきっぱりと言い切る。その声は凛として強さを帯びていた。

 翔太は額に触れられ、冷たい布の感触に小さく息をつく。


「大変だったのよ、ここまで運ぶの」


 美優は眉を寄せつつも、安堵の笑みを浮かべる。


「ほんとに……目を覚ましてくれてよかった」

「……美優……」


 その声に、芽瑠が無邪気に笑った。


「お兄ちゃん、死んじゃったかと思ったんだよ!」


 翔太は苦笑し、首を振る。

 そして唇を震わせながら尋ねる。


「……乃々は?」


 翔太が弱々しくつぶやくと、美優はすぐに答えた。


「お風呂に入ってるわ。あなたをここまで運んで、汗をかいたからね」


 美優はタオルを軽く絞り直しながら、少し呆れたように息をついた。


「ほんと、世話の焼ける人なんだから」


 翔太はその言葉にようやく安堵の表情を浮かべる。

 芽瑠も「乃々お姉ちゃん、すごく頑張ってたんだよ!」と嬉しそうに付け加えた。

 緊張に張りつめていた空気は、束の間の平穏に変わっていく。


 ◆  ◆  ◆


「ふぅ~~~っ……あっつ……でも気持ちいい~~っ!」


 湯船に肩まで沈み込み、乃々はぐったりと背をもたせかけた。

 天井を見上げれば、湯気に霞んだ灯りがゆらゆら揺れ、白い光の輪を描いている。

 頬は桃色に染まり、胸元から伝う雫が湯面に落ちるたび、小さな輪紋が広がった。


「……あ~……背中まで汗でべったべただったからねぇ……。ほんっと……ボクがいなかったら翔太、廊下で転がってたんだからねっ!」


 ぷくっと頬を膨らませる。

 けれど湯の心地よさにすぐ表情は緩み、笑みがこぼれる。


「でも……よかったぁ……無事で。ほんとに」


 胸元に手をあて、安堵の息を吐く。

 ぽちゃん、と脚を揺らす。白い脚が水中でひらりと交差し、湯が跳ねる。


 ――脳裏をよぎるのは、美優の姿。

 翔太の枕元に座り込み、真剣に世話をしていた姿。


「……むぅ」


 乃々は湯に口まで沈み、ぶくぶく泡を立てた。

 頬を真っ赤にしたまま、心の中で言葉がこぼれる。


「あの子、翔太の何なのよ。……奥さんみたいに甲斐甲斐しく世話して……」


 ぷいっと横を向き、鎖骨を伝う雫を指で弾く。

 湯から片腕を出し、水滴が滴る腕を眺める。

 ほんの少し大人びた仕草に、自分で照れ笑いしてしまう。


「ちょっと……ずるいなぁ。ボクだって……一番近かったはずなのに」


 中学の頃。

 放課後の教室で、隣で笑っていた翔太の顔が鮮明に浮かぶ。

 胸の奥がじんと熱くなる。


「……ねぇ翔太、あの頃、いちばん隣にいたのはボクだったよね……?」


 小さく呟き、すぐに「なに言ってんだ、ボクは~!」と首を振る。

 けれど耳まで赤くなった頬は湯の熱だけではなかった。


 両手を湯面にぱしゃりと広げ、肩まで沈み込む。

 やわらかな双丘が浮き沈みし、雫がきらめく。

 乃々は「あ~……幸せ……」と吐息を漏らし、夢見心地のように目を閉じた。


 ――その時。


 ぞくり。


 湯の温かさとは正反対の冷気が背筋を這い上がる。

 浴室の空気が張り詰め、水音すら止んだように静まり返った。


「……え?」


 乃々はゆっくり目を開けた。

 ふやけていた指先が急に冷たくなる。


「……誰?」


 声は震えて掠れた。

 湯面はぴたりと静止し、外の物音が遠ざかる。

 見えない視線が、確かに肌を撫でている。


「いるんでしょ……そこに……!」


 振り返った瞬間――


「きゃあああああああああっ!!」


 浴室を裂く絶叫が、夜の家を震わせた。


 ◆  ◆  ◆


「……今の声……!」


 美優は椅子を蹴り飛ばすように立ち上がった。木脚が床を擦り、甲高い音が部屋を切り裂く。心臓をわしづかみにされたかのように顔色が変わり、彼女は迷うことなく浴室へ駆け出した。


 翔太も頭を振り、霞む視界を必死に繋ぎ止める。

 全身に鉛を詰め込まれたような重さをこらえ、ふらつく足でなお、美優の背を追う。

 心臓がばくばくと高鳴り、耳の奥で血流の音が雷鳴のように響く。

 だが、意識はまだハッキリしない。視界が悪い。朦朧もうろうとしている。

 歩くだけでも必死の状態だ。


 そして……。


 その場に取り残された小さな芽瑠は、小鹿のように震える膝を抱え、胸をぎゅっと押さえ込んだ。

 小さな唇が何度も開きかけるが、声にならなかった。

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