第200話 目覚めた後で……
第200話
――濃霧がまだ三叉路を覆い尽くしていた。
視界は数歩先も霞み、湿り気を帯びた空気が頬や髪にまとわりつく。霧そのものが生き物のように蠢き、外界との境界を切り離していた。
その背後から、衣擦れの音が響く。しんとした霧の静寂の中で、その音はやけに鮮明に耳へ届く。
「……ベレスさま……」
澄んだ声。
霧を割って現れたのは、銀髪を長く垂らした少女だった。
メイド服の裾を揺らし、手には鋭い槍を携える。
まだ中学生ほどの幼さを残す顔立ちに、似つかわしくない凛とした気配。
そのエメラルドグリーンの瞳は、濃霧のなかでも宝石のように鮮やかに輝いていた。
デルピュネー――冥府に仕える忠実な従者。
少女の髪が霧に揺れ、銀糸のようにきらめく。槍の刃は灯りを受けて幽かな光を跳ね返し、霧を裂く一閃のように映った。
「先ほどの陰皇の一睨みで、この町に現れていた北欧神話の巨人たちも……すべて消え失せました」
報告する声は澄んでいながらも、緊張に震えている。
ベレスは長い前髪の隙間から青い瞳をのぞかせ、ふっと優しく笑んだ。
黒いスーツの裾が、風もないのに淡く揺れる。
「ああ。陰皇に、僕がそうお願いしたからね」
「……!」
デルピュネーの指先がぴくりと震え、槍の柄をぎゅっと握りしめた。
少女は一歩前へ出て、声をひそめる。
「大丈夫だったのでしょうか……?」
「何がだい、デル」
優しげな声音が返る。だが少女は心配を隠せない。
「あれは……ベレスさまでも一筋縄ではいかない存在。陰皇にあのような“貸し”を作ってしまって……あとで、とてつもない災厄がベレスさまに襲いかかりはしないかと……」
霧がざわりと揺れた。少女の声には、恐怖と忠義が絡み合った震えがあった。
だがベレスは――意味ありげに微笑んだ。
唇の端をやわらかく持ち上げ、あえて優しい調子で。
「大丈夫」
と、言わんばかりの笑顔。
不安を包み込むように見せながら、しかし本心を決して覗かせない。
「それよりも……翔太くんの様子はどうだい?」
ベレスの青い瞳が霧の奥を見やる。
ベールゼバブに力の一部を抜き取られた少年。666の獣。その身を案じているのだ。
デルピュネーはすぐに頭を下げ、答えた。
「眠っておられます。おそらく抜き取られた“破壊の影”は……ごくわずかだったのでしょう」
「そうか」
ベレスは短く頷いた。
その声音は柔らかく、だが瞳の奥には底知れぬ深淵の闇が宿っていた。
「……なら良かった」
ベレスの微笑は霧に溶け、静けさだけが残る。
その笑みは安堵ではなく、決意の奥に潜む仄暗い影を映しているかのようだった。
デルピュネーはためらいがちに、なおも言葉を探す。
「……それにしても。陰皇にあんなにっさりと、あのベールゼバブが退いたのは……」
「恐怖だ」
ベレスの声は低く、短く、霧を震わせる。
「奴とて“王”だ。恐怖を知らぬ王など存在しない」
デルピュネーは目を伏せ、わずかに唇を噛んだ。
主の横顔を仰ぎ見るその表情には、忠誠と同時に、人ならぬ畏れが混じっていた。
「……さて」
ベレスはふっと踵を返した。
靴音が霧を踏みしめる。
彼は霧の中を見渡す。
残滓のように漂う影の気配――街にいた巨人の姿はロキとともに消えたが、ゴブリンやオークの群れがまだ潜んでいる。
「デル」
「はい」
「この濃霧の中に、まだゴブリンやオークがうろついているはずだ。セイレーンと協力して、きれいに片付けておいてくれないか」
穏やかな声音。だが命令は絶対の響きを帯びていた。
デルピュネーは槍を握り直し、深く礼をした。
銀髪がさらりと垂れ、メイド服の裾が衣擦れの音を立てる。
「御意……ベレスさま」
その声は忠義に燃えていた。
そして――
ベレスの姿はふっと掻き消えた。
残るのは濃霧と、どこからともなく響く蠅の羽音の残響だけ。
闇に吸い込まれるように、それもやがて消えていった。
◆ ◆ ◆
北藤家。
……。
暗い天井が視界に映る。
北藤翔太は、ベッドの上でゆっくりと目を開いた。
「あっ!」
弾けるような声。
小さな足音が駆け寄り、翔太の顔を覗き込む。
「美優お姉ちゃん、お兄ちゃん起きたの!」
翔太の妹、芽瑠。小学生になったばかりの、あどけない笑顔がぱっと咲く。
その後ろから、布と水の容器を抱えた少女が慌ただしく入ってきた。
長い髪を揺らし、冷たい水の器を手にした美優。
「翔太くん!」
容器を置き、ベッドへ駆け寄る。
「具合はどう? どこか痛いところはない?」
「……あ……ここは……どこだ?」
翔太の声は掠れている。
「あなたの部屋よ、翔太くん」
美優はきっぱりと言い切る。その声は凛として強さを帯びていた。
翔太は額に触れられ、冷たい布の感触に小さく息をつく。
「大変だったのよ、ここまで運ぶの」
美優は眉を寄せつつも、安堵の笑みを浮かべる。
「ほんとに……目を覚ましてくれてよかった」
「……美優……」
その声に、芽瑠が無邪気に笑った。
「お兄ちゃん、死んじゃったかと思ったんだよ!」
翔太は苦笑し、首を振る。
そして唇を震わせながら尋ねる。
「……乃々は?」
翔太が弱々しくつぶやくと、美優はすぐに答えた。
「お風呂に入ってるわ。あなたをここまで運んで、汗をかいたからね」
美優はタオルを軽く絞り直しながら、少し呆れたように息をついた。
「ほんと、世話の焼ける人なんだから」
翔太はその言葉にようやく安堵の表情を浮かべる。
芽瑠も「乃々お姉ちゃん、すごく頑張ってたんだよ!」と嬉しそうに付け加えた。
緊張に張りつめていた空気は、束の間の平穏に変わっていく。
◆ ◆ ◆
「ふぅ~~~っ……あっつ……でも気持ちいい~~っ!」
湯船に肩まで沈み込み、乃々はぐったりと背をもたせかけた。
天井を見上げれば、湯気に霞んだ灯りがゆらゆら揺れ、白い光の輪を描いている。
頬は桃色に染まり、胸元から伝う雫が湯面に落ちるたび、小さな輪紋が広がった。
「……あ~……背中まで汗でべったべただったからねぇ……。ほんっと……ボクがいなかったら翔太、廊下で転がってたんだからねっ!」
ぷくっと頬を膨らませる。
けれど湯の心地よさにすぐ表情は緩み、笑みがこぼれる。
「でも……よかったぁ……無事で。ほんとに」
胸元に手をあて、安堵の息を吐く。
ぽちゃん、と脚を揺らす。白い脚が水中でひらりと交差し、湯が跳ねる。
――脳裏をよぎるのは、美優の姿。
翔太の枕元に座り込み、真剣に世話をしていた姿。
「……むぅ」
乃々は湯に口まで沈み、ぶくぶく泡を立てた。
頬を真っ赤にしたまま、心の中で言葉がこぼれる。
「あの子、翔太の何なのよ。……奥さんみたいに甲斐甲斐しく世話して……」
ぷいっと横を向き、鎖骨を伝う雫を指で弾く。
湯から片腕を出し、水滴が滴る腕を眺める。
ほんの少し大人びた仕草に、自分で照れ笑いしてしまう。
「ちょっと……ずるいなぁ。ボクだって……一番近かったはずなのに」
中学の頃。
放課後の教室で、隣で笑っていた翔太の顔が鮮明に浮かぶ。
胸の奥がじんと熱くなる。
「……ねぇ翔太、あの頃、いちばん隣にいたのはボクだったよね……?」
小さく呟き、すぐに「なに言ってんだ、ボクは~!」と首を振る。
けれど耳まで赤くなった頬は湯の熱だけではなかった。
両手を湯面にぱしゃりと広げ、肩まで沈み込む。
やわらかな双丘が浮き沈みし、雫がきらめく。
乃々は「あ~……幸せ……」と吐息を漏らし、夢見心地のように目を閉じた。
――その時。
ぞくり。
湯の温かさとは正反対の冷気が背筋を這い上がる。
浴室の空気が張り詰め、水音すら止んだように静まり返った。
「……え?」
乃々はゆっくり目を開けた。
ふやけていた指先が急に冷たくなる。
「……誰?」
声は震えて掠れた。
湯面はぴたりと静止し、外の物音が遠ざかる。
見えない視線が、確かに肌を撫でている。
「いるんでしょ……そこに……!」
振り返った瞬間――
「きゃあああああああああっ!!」
浴室を裂く絶叫が、夜の家を震わせた。
◆ ◆ ◆
「……今の声……!」
美優は椅子を蹴り飛ばすように立ち上がった。木脚が床を擦り、甲高い音が部屋を切り裂く。心臓を鷲づかみにされたかのように顔色が変わり、彼女は迷うことなく浴室へ駆け出した。
翔太も頭を振り、霞む視界を必死に繋ぎ止める。
全身に鉛を詰め込まれたような重さをこらえ、ふらつく足でなお、美優の背を追う。
心臓がばくばくと高鳴り、耳の奥で血流の音が雷鳴のように響く。
だが、意識はまだハッキリしない。視界が悪い。朦朧としている。
歩くだけでも必死の状態だ。
そして……。
その場に取り残された小さな芽瑠は、小鹿のように震える膝を抱え、胸をぎゅっと押さえ込んだ。
小さな唇が何度も開きかけるが、声にならなかった。




