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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第三章 蝿の王編

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第199話 陰皇

第199話


 灰色の霧をも断ち割るかのように、その“巨大な目”は瞬きひとつせず見開かれていた。

 眼球の表面を、濡れた雲が流れていく。空そのものが、ぬめるように生き物めいて震えていた。


 陰皇いんのすめらぎ――この世の魔の王。おそらくは神や悪魔を超越する者。


 天蓋を覆うその巨大な一つ目の瞳が、ただ一度、地上に視線を落とした。


 その時だった。

 視線を受けた「666の影」は、呻き声も悲鳴もなく、ぬるりと震えた。

 天を割り、大地を粉砕するはずだった災厄と破壊の具現。

 その仕草一つで太陽系を亡きものにし、流し目の一閃で宇宙をえぐる存在。


 それが――。


 ぐにゃり、と。

 影の輪郭が液状化し、黒い泥のように崩れ落ちていく。

 どろりと地面に溶け、滴る。

 それはアスファルトに吸われず、ただ「無」に飲み込まれていった。


 痕跡は残らない。音すら立たない。

 あれほどの恐怖が、在ったという記録ごと消え去っていく。


 ――なかったことにされた。


「……なっ……」


 ベールゼバブの喉から擦れた音が漏れた。

 背筋がぶるりと痙攣する。

 世界を滅ぼそうとする野望のプロローグは、抗う暇すらなく否定された。


 世界の呼吸が止まる。

 この濃霧に覆われた広い三叉路すら、沈黙を選んだ。


「……そうか」


 低く、重く。

 ベールゼバブは唇を動かす。

 その声音は墓の底から吹く風のように震えていた。


「――サタンさまですら、手を出せなかったわけだ……」


 言葉の余韻は、黒い棘となって空気を震わせる。

 恐怖と絶望の匂いが混じり、ベールゼバブの従者・ラミエル──黒のワンピースを着た少女の姿をした堕天使もその相棒・バラキエル──黒の長髪をなびかせる青年の姿をした堕天使も、堪え切れず崩れ落ちた。


「ベ、ベールゼバブさま……」

「こ、これは……!?」


 彼らの体は細かく震えていた。

 地を掴む指先に爪が割れ、血が滲む。


 ベールゼバブは吐き捨てた。


「――来い」


 従者は主の影にすがるように這い寄る。

 その瞬間、ぶわりと蠅の群れが溢れ出した。


 地面から、瓦礫から、空気そのものの裂け目から。

 数千、数万、数え切れぬ黒の群れ。


 羽音が空気を削る。

 祈りを掻き消し、鼓動を覆い隠す。

 世界が「蠅の王」の存在だけに染め上げられていく。


 黒い奔流は従者を包み、ベールゼバブをさらに巨大な影に変えた。

 それはまるで腐敗の棺。


 次の瞬間、蠅の群れが渦を巻き、黒い棺を形づくる。

 ぱっくりと裂け、彼ら三人を飲み込み――消えた。


 羽音も、裂け目も、残らない。


 残ったのは――沈黙。


 灰色の霧が揺らぎ、静寂がさらに深く沈み込む。

 そこに立つのは、ただ二人。


 ロキと、ベレス。


 ロキの喉がかすかに鳴った。

 冷汗が頬を伝い、顎に滴る。

 いつもの軽口はどこにもなかった。


「……ベレス」


 かすれた声が、ようやく夜の空気を震わせた。


「なぜだ……」


 その言葉は呻きに近い。

 だが吐き出すごとに、胸の奥で火がはぜる。


「なぜ“お前”が……陰皇を呼び出せる……?」


 震える。

 だが一歩、前へ踏み出した。

 瓦礫を砕く音が夜に大きく響く。


「あれは――神も魔も踏み込めぬ禁忌だ」


 声が強さを取り戻す。

 だがその奥に潜むのは、恐怖と焦燥。


「俺も……お前も……知っているはずだろう……!」


 絞り出した言葉は夜気に溶け、余韻となって響き続けた。

 絶叫よりも深く、耳に棘のように突き刺さる。


 ロキの瞳には、恐怖と苦悶、そして微かな嫉妬が揺らめいていた。

 ――なぜベレスが陰皇いんのすめらぎを呼び出せたのか。

 まだ、自分が知らぬ謎が、この魔王にはあるというのか。


 答えを欲した。

 だが、答えがあればあるほど恐怖は現実味を帯びる。


 沈黙。


 ベレスは、動かない。

 月光を浴びた横顔は冷たい彫像。

 目の奥は深い井戸。


 そして――唇の端が、かすかに持ち上がった。


 笑った。


 嘲笑ではない。安堵でもない。

 ただ、沈黙を深めるための微笑。


 ロキの背筋を冷たいものが這い上がる。

 その笑みは、答えを拒絶する。

 旧友は単なる72の魔王の頭領・地獄の公爵ではない。別の「何か」──。


(……なのか……?)


 だがロキは無理やり笑いを作った。


「……フフ」


 喉はひび割れていた。

 だが笑わなければ立っていられない。


「いいだろう……」

 肩をすくめる。

「お前が何を隠していようと……その秘密が、お前自身を喰い破る日を、俺は前列で見てやる」


 霧が揺れる。

 ロキの影がほどけ、ロキの『ゴースト』たちが、アリスやシンデレラたちも、主の気配に従って消えていく。


 最後に、もう一度だけベレスを見た。

 月光に浮かぶ姿は、夜そのもの。

 動かず、語らず、ただ笑む。


「……じゃあな、ベレス。だが、俺の力も侮るなよ」


 濃霧が立ち上り、裂け目が開く。

 ロキは闇に呑まれ、消えた。


 静寂。


 廃墟に残されたのは、魔王ベレスと瞬きひとつしない陰皇の巨大な瞳。


 空気は凍りつき、町も山も海も、呼吸を忘れていた。


 ベレスは仰ぎ見た。

 唇がかすかに動く。


「……これでいい」


 誰に向けたものでもない。

 だが、その言葉に応じるように――。


 陰皇の瞼が、ひと刻だけ重くなる。


 その瞬間、地平線の向こうで海が逆流した。

 音もなく、大地が軋む。


 瞬間、陰皇いんのすめらぎは消えた。

 そして再び、濃霧が立ち込めてくるなか、ベレスの背後からデルピュネーが現れた。

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