第198話 神の結界を破壊する者
第198話
灰色の霧が、再び視界を塗りつぶしていく。
10体はいるであろうロキの分身……いや『ゴースト』。
そう。この濃霧は地球に生命を誕生させた“生命のスープ”。
その濃霧から自らの『ゴースト』を産み出すなどと……。
生命誕生の奇跡を、皮肉にも、悪魔であるベールゼバブは目の当たりにしていた。
むちゃくちゃにも程がある。
これには、さすがのベールゼバブも恐怖せざるを得なかった。
(これが、北欧神話でも最もやっかいな邪神とされるロキの力……)
ベールゼバブも認めざるを得なかった。
自身も魔界のプリンスと恐れられる存在ではあるが、ロキのその“力”の底は、計り知れないほどに、深い。
ロキ“たち”のクスクス笑いが止まった。
そして一瞬、時が止まったような沈黙が流れる。
(……来る……!)
ベールゼバブの直感が的中する。
次の瞬間、霧の奥から影が飛び出した。
三体のロキ──、いや正確には、ロキの『ゴースト』か。
本物と寸分違わぬ動き、魔力、殺意。
虚実を見極める暇はない。
ベールゼバブはたまらず、超高速で空中へと舞い上がる。
それにあの三体は同じ速度でついてくる。
なんという能力だ。
「ちっ!」
ベールゼバブは再び飢餓の双刃を構えた。
フルパワーでなくともいい。
この三体を仕留められれば、ひとまずは、良い。
それには、“スピード”だ。
ベールゼバブは自らの能力を“速度”に全振りした。
たちまち放たれる衝撃波。
飢餓の双刃を降ったその腕すら見えない速さだ。
さすがのロキの『ゴースト』も面食らう。
そして悲鳴を上げる暇もなく、二体が霧に帰す。
だが、最後の一体が死角から迫り、肩口を浅く裂いた。血の熱が肌を伝う。
気づけば、ロキが持つレーヴァテインが杖の形から刀へと変貌を遂げていた。
(─——速すぎるっ!)
これがロキ最強の武器といわれるレーヴァテインの恐ろしさだ。
そして息をつく暇もなく、さらに四方から魔力の刃が突き上がる。
(次は何体だ……!?)
背後では空間が裂け、無数の刃が無音で迫る。
本体であろうロキは霧の奥で静かにこれを見上げている。だが、その視線は、迷いなく獲物を解体する解剖者のよう。
(いや、それも罠かも知れぬ)
本体に見せかけているだけ。
実はこの『ゴースト』の群れにまぎれて、必殺の一撃を狙っているのかもしれない。
『ゴースト』の連携。遠距離からの遠隔攻撃。、何体から攻撃されているかわからない、不可視の罠……。そのすべてが同時に押し寄せ、呼吸のリズムを奪っていく。
「くそ……っ」
ベールゼバブは急旋回し、決死の勢いで反撃に転じる。だが切り裂いた影はまたもや『ゴースト』。手応えは霧に溶けて消える。
次の瞬間、頭上から四体同時の刃が振ってきて、飢餓の双刃の両刀で受け止める。動きが一瞬鈍ってしまった。
このままでは押し切られる……!
そう悟った瞬間だった。
そこにいるすべてのロキが上空を見上げた。
そして異口同音にこう言う。
「何っ……!?」
パキ……。
乾いた音が、結界の上空から響いた。
ロキも動きを止め、ベールゼバブも息を呑む。
霧がざわめき、空気が微かに震えた。
パキ……パキィン……。
結界の天蓋に黒い亀裂が走る。
蜘蛛の巣のように広がる亀裂は、ひとつひとつが重低音を伴い、空間そのものを軋ませていく。
――何だ、これは……?
ロキ“たち”は瞳を細めた。結界を破れる存在は限られている。いや、本来、存在しないはずだ。
ベールゼバブの背筋を冷たいものが這い上がる。外から……何かが来る。
亀裂は枝分かれし、空全体を覆う。
そして──。
ガシャアアアアンッ!!
世界が砕ける音が響き、天蓋は粉々に崩れ落ちた。光の破片が雨のように降り注ぐ中、亀裂の中心にひとりの青年が浮いていた。
――魔王ベレスだ。
彼は何も言わず、ゆっくりと右手を空へ掲げる。
……世界から音が消えた。
風も、霧も、遠くの魔力の唸りも、すべてが吸い込まれていく。
掌に集まっていくのは、色も熱もない、純粋な「消滅」。空間が歪み、景色が波打ち、存在そのものが押し潰されるような圧。
ロキの表情がわずかに歪む。
ベールゼバブの飢餓の双刃が反射的に後退のため動く。
その想像を超えるような魔力の波動に、抗うなどという発想すらも霧散する。
掌の魔力は限界を超え、周囲の空気がひび割れるように揺らぐ。
その圧は一瞬のためらいもなく──。
──閃光が走った。
すべてが消えた。霧も、大地も、空も。
そしてロキ自慢の固有結界と『ゴースト』たちも……。
その光が収まった頃、ロキは驚愕する。
固有結界は完全に消され、元の水城市の三叉路に帰っていた。
(……あり得ない……!?)
まさか、ベレスの力がこれほどとは……。
だが驚いている場合ではなかった。
宙空に浮かぶ魔王ベレス。
そのはるか上空に、巨大な“目”が見開き、こちらを見ていたのだ……!
その姿、その存在は、もちろんロキもベールゼバブも知るところだった。
世界中の神々さえ手を出せない存在。
悪魔王サタンですら、その戦いを避け続けていた存在。
そう。
あの。
九天の王……この世の“魔”の中では最強の存在。
神からも悪魔からも恐れられる、この惑星の異次元の存在・陰皇と畏れられる、それ《・・》が、いつの間にか、濃霧に覆われた空でも分かるほどハッキリと、その巨大な一つ目を見開いていた……!




