第191話 戦闘の狼煙(のろし)
第191話
これにはさすがのロキも驚いた。
魔王ベレスといえば、魔界ではサタンと肩を並べるとまで噂された影の実力者。
当然、ルシファーやアスタロト、ベールゼバブはこれを認めない。
それでも一目を置く暗黒の覇道者。
72の魔王を統べる頭領ということ意外はほぼ謎に包まれ、誰もその強さの限界を知らない影滅の支配者なのだ。
破壊された首元から噴き上がる紅の衝動。猛烈な勢いで飛び出す血が天を赤く染めていく。
突然、首を失ったベレスの肉体。それは、まるで、スローモーションを描くかのように、ゆっくりと後ろ向きに倒れていった。
この光景に、ベールゼバブの従者・ラミエル──黒のワンピースを着た少女の姿をした堕天使も声を失った。
「……一切の魔力の波動がなかった……!?」
“666の獣”からは魔力を行使した痕跡が何も感じられなかったのだ。
そしてこれに、その相棒・バラキエル──黒の長髪をなびかせる青年の姿をした堕天使も続く。
「こ、これが、“666の獣”──!」
「いや。違うな」
突如、ロキの声が二人の会話に割って入った。
「あれは“獣”の意識の断片。その断片の“存在”だけでこれほどの出来るといいうことだ」
そして。
「ベールゼバブよ。お前がここへ引きずり出したのは、獣の本体そのものではなく、その存在の一部だろう」
それを聞いたベールゼバブの口元に小さな笑みが浮かんだ。
同時に、彼の周囲の濃霧が渦を巻く。
「頭がよく回るのも考えものだぞ、ロキ」
周囲の時空を歪めながらこう答えるベールゼバブ。その頭上、はるか天空に、巨大な魔法陣が広がった。
「驚いた……。とんでもない魔力量だな」
「こんなもの私の一部に過ぎん」
「それで、“獣とやろうってんのか? 正体もよくわからぬ化け物を相手に」
「いやなに。あそこにある意識の断片だけでも破壊すれば、いかに“獣”といえど、ただでは済まないはずだ」
次にその巨大な魔法陣から無数の蝿が流星のようにこの地に降り注ぐ。
黒い嵐のようなそれは、空間を歪め、時間すら蝕む“腐敗の化身”だ。
ベールゼバブの上空をびっしりと埋め尽くすそれを見ながらラミエルが言った。
「あれがベールゼバブさまの“腐敗領域”……。あれに触れたら私たちでさえ腐り落ちるわ。それこそ魂まで」
「本気でアレを壊すつもりか……ここで……」とバラキエル。
「おそらくそう。……見て、この“冷気”」
気づけばラミエルの腕にもバラキエルの顔にも軽く霜が降りている。
「ベールゼバブさまは、この“受胎”の地ごと、アレを一瞬で破壊する気よ……」
蠢く蝿の群れ。
触れるだけで時空をも腐敗させていくベールゼバブの領域。
腐らせ、そこから蝿という新たな生命を生み出す矛盾した力を持つ破壊と再生の力。
誕生の前にはその地は必ず“ゼロ”でなければならない。
ゆえに。
この“腐敗領域”は触れるすべてを破壊する。
──と、ベールゼバブが動いた。
膨大な数の蝿の群れが一斉に、北藤翔太、いや、“666の獣”に向かって放たれたのだ。
そして一気に、そのゆらゆらと揺れる黒い影を呑み込んでいく。
「やったわ!」とラミエル。
だが。
その実、何も起こらなかった。
腐敗するはずの身体は一切傷つかず、蝿はただ消え去るのみ。
“獣”は動くことなく、そこに立っているだけで全てを無力化していく。
「そ、そんな……」とバラキエルも後ずさる。
「……ふむ。なるほど」
ベールゼバブの冷たい表情に、初めてわずかな驚きが混じった。
「この世をただ“破壊”するだけの無意味な存在など、腐敗に呑み込まれるのが相応しいと思ったのだが、それすら拒むか。“破壊の化身”よ」
“獣”の意識、その断片といえど、これだけの強固さを持つ。本来の覚醒が起こったら一体どうなるのだろう。
「無限の蠅よ、汝の王に集え!
暗闇を蝕む嗜虐の意志、虚無を包む黒翼の嵐!
地上を穢し、天を墜とせ!
我が名を恐れ、膝を屈せよ――。
ベールゼバブの名において命ずる!
『瘴気解放:奈落の宴』!!」
ベールゼバブの詠唱とともに、今度は空そのものが消えたかのように天空が黒く染まった。
──蝿だ。
先ほどとは比べ物にならないほどの数の蝿が巨大な魔法陣から現れた。
ベールゼバブが浮かぶ地の足元から、アスファルトが腐り始める。
まるで腐敗の海。
それが円状に広がっていく。
「この私を、少しは楽しませて見せろっ!」
その号令と同時に再び蝿の群れが、まるで嵐のように“666の獣”を包み込む。
腐の津波。
蝿の竜巻。
そして異空間に通じたかのような時空の歪み──。
だがそれすら“獣”は全て打ち消していく。
その体、数センチ先で届かない。消える。消されていく。
“獣”の額に光る“666”の紋様がわずかに光った。
「ベールゼバブさま! アレは何かする気です! お気をつけください!」
とラミエルが叫ぶ。
それに呼応するかのごとく、“獣”は右腕をゆっくりと上げ、そのゆるく開いた手のひらを、ベールゼバブへ向けた。
ふ、と。ベールゼバブの口角がわずかに上がった。
まるで、これを待っていたかのようだった。
その周囲一帯に。
まるでこの戦いの場を取り囲むかのように。
──突如、無数の“目”が現れた。
おびただしいほどのそれの瞳はひた、と、すべて“獣”に向けられており、時空に亀裂が走る。そして“獣”の影にのみ向け、“時間”を止める。
カキッ!
まるでゲームのような紫色の残像のようなエフェクトが“獣”から広がっった。
“獣”の時間が完全に止まったのだ。
ベールゼバブは膨大な数の蝿の群れと同時に、“獣”の目の前に舞い降りた。
そして真っ黒で巨大な塊から突如、その顔だけを覗かせる。
その顔はこれまでの冷たい無表情から一転。
蝿の大群から現れたその顔は、まさしく“悪魔”そのものの憤怒の表情を見せ、瞳を赤く光らせた。
牙をむき出した口を大きく開け、“獣”が上げた右腕へ向けて、強烈な冷気を放つ。
白い冷気の煙が獣の腕に激しく吹き付けられる。
冷気の白煙が猛烈に打ち付ける。
その冷気は、“獣”の腕を一瞬にして凍りつかせた。
急激な温度低下により、白く染まったその腕にヒビが入った。
同時に、獣の肘からが、爆発!
キラキラと。
ガラス細工よろしく、血を撒き散らしながら粉々に砕け散っていった……。
「な、なに……」
その素早い攻撃と能力にロキですら驚く。
水晶のような破片と、鮮血が、爆発するように周囲へばら撒かれる。
そして次の瞬間には、ベールゼバブは元いた宙空へと戻っていた。
「……効果はあったようだな……」
ベールゼバブは小さく笑う。
対して“666の獣”は無反応だ。
無言で、ただ揺れながら、失われた自身の右腕の傷口を見つめている。
そして、その額の“666”の紋様の光がさらに強まっていく──。




