第177話 死の逃亡
第177話
トロール。
北欧神話に登場する妖精の一種で、巨大な体躯の粗暴な人食い化け物として知られている。
北ゲルマンの古語であるノルド語では怪物や妖精を指す一般名詞であり、だが現代の伝承においては深い傷を負っても体組織が再生し、手足を切られてもつなぎ治せる化け物としても描かれる。
欠点は知能が低いこと。他種族と交配することもでき、その範囲はヒューマンにも及ぶなどいろいろとやっかいだ。
そのトロールが『濃霧現象』により受肉して現世に。水城市立総合病院の駐車場で、宇和島第三工業の戦闘狂である龍雅の背後に立っていた。
「危ない!」
野津はそう叫んで龍雅に飛びかかり、アスファルトに龍雅を伏せさせる。即座。
「てめえ、何しやがん……」
悪態をついた龍雅の頭上を、鈍い音を立てて棍棒がかすめた。その風圧で龍雅の髪が一瞬にして流れる。
「だ……!?」
ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!
トロールが吠えた。龍雅は改めてその巨体に目をやり、一気に肉体が緊張で固まる。化け物……? なんでこんなものが現実世界に……?
「……の、野郎!」
濃霧でその巨躯しか見えなかったからであろう。宇和島第三工業の連中が一気に、その巨大な影に襲いかかった。
「やめろ! そいつは、“人”じゃない!」
龍雅の体にのしかかったまま野津が叫ぶ。だが。
その声が彼らに届いた時にはすでに遅かった。
トロールが水平に薙ぎ払った巨大な棍棒が。
宇和島の不良たちを一度に吹き飛ばしたのだ。
それが野津の目にはスローモーションのように映る。
血が舞い散り。
不良少年たちの肉体が手足、頭と。
バラバラになりながら。
濃霧の中へと消えていく──。
野津は愕然とした。
たった一撃。
たった一振りの攻撃で。
人間がこんなにもバラバラになるものなのか──?
濃霧の中を降り注ぐ血と肉の雨。だがそんな中、トロールの攻撃をかわした猛者がいた。
柴田だ。
柴田はボクシングのダッキングの技術を使い、その一撃から紙一重で逃れ。
そのまま柴田は下げた重心を一気に跳ね上げ、強力なアッパーカットをトロールの腹に叩き込んだ。
(いけた!)
柴田は感じる。
(会心の手応えだ!)
だが。
柴田の思惑に反して、その相手は微動だにしなかった。
柴田は思わず、その2メートルはゆうに超えたその巨体を見上げる。
そして初めてその姿をハッキリと見た。
瞳孔が縮む。
体がすくむ。
そう。
こいつは、人間では。
ない。
その怯えが柴田を冷静にさせた。脳内のアドレナリンが一気に引いていき、自身が何か生温かい液体で濡れていることを初めて知った。
これは。
血だ。
この化け物に、仲間たちが一掃された、その時に放出された、
血だ!
ガタガタと震える柴田とトロールの目が合った。下顎から突き出した両対の巨大な牙。猛獣をも黙らせるような残忍な眼光。
──殺される……!
血まみれの柴田が腰を抜かしそうになったのと同時だった。
濃霧の中からもう一人の人影が飛び出したのは。
宇和島第三工業、最強の男・疋田麗央だ。
満身創痍だったとはいえ、星城学園No.2の野津をあっという間に沈めた男。
その拳が。
ズンと重く、トロールの腹に突き刺さった。
それとほぼ同時に。
野津に覆いかぶさられていた龍雅はいつの間にかするりと野津の下から抜け出しており。
飛び上がってトロールの脳天に金属バットを叩きつけていた。
なんという闘志、なんという勇気。
いや、この場合それは、「蛮勇」と言うべきか。
「逃亡」の言葉一色だった野津の脳内は、次の光景を見て文字通り、心から驚くことになる。
あのボクサーの柴田のアッパーを腹に食らってビクともしなかったトロールが。
不死身かと思われたこの巨大なモンスターが。
あらんことか腹を「く」の字に折り。
そして龍雅に金属バットで殴られた頭部からは、噴水のように血が噴き出させたのだ!
麗央はトロールの腹筋を貫いた自らの拳を眺めながらひとりごちた。
「硬ぇ腹だな」
まるで壁でも殴ったかのようにその拳は擦り切れ、皮がめくれていた。
着地した龍雅が麗央に言う。
「やれねえこともねえな」
「ああ。だが、長居は無用だ」
その麗央の拳の威力に野津は驚いた。まさか、これだけ巨大な化け物にも通用する拳を持っているなんて。
敵ながら頼もしい。こいつらの凶暴さが希望の光を指し示してくれた。
「お前ら……」
「あぁ? なんだぁ、野津」
「早く立て。いつまで寝てるつもりだ」
二人の言葉に勇気づけられて野津は立ち上がった。
「ありがとう」
「なんだよ、気持ち悪いヤツだな」
「それより行くぞ。バスはあっちだな」
「……って、おい、柴田よぉ。いつまで震えてんだぁ? おめえも行くんだよ、しゃんとしろ、しゃんと!」
思わず野津の顔に笑みが浮かんだ。
(こいつらとなら、乗り越えられる)と思った。
幸いにもこの濃霧で、どんな惨劇が繰り広げられたか、他の連中はほとんど見えてなかったようだ。
「俺の声が聞こえるか!」
野津の声に周囲から反応がある。
「皆、もっと固まれ! 仲間が見える距離まで集まれ!」
野津はパン!と手を叩いて自分がいる位置を皆に知らせた。
仲間が寄ってくる。密集陣形のままこのまま駆け抜けなければ。
すでに背後ではトロールが再び戦闘態勢をとっている。
野津と麗央と龍雅は、柴田と『ゴースト』に襲われ怯えたままのサラリーマンの手を取り、脱兎のごとく駆け出した。
それにしても、と野津は思う。
水城の『濃霧現象』のことは知られているとはいえ、あんな化け物に出くわしてここまで現実として受け入れられる胆力と状況判断は脅威だ。
それに。
友人があんな殺され方をしたのに、この麗央と龍雅という二人はなぜここまで平気でいられるのだろうか。
そもそも喧嘩にあけくれ、血に慣れているということは考えられる。
だが。
(友達の肉体がバラバラにされたんだぞ──!?)
心強さとともに、野津はこの二人に対して底しれぬ恐怖を感じた。あれだけの光景を見ておきながら、何人もの友人の死を見ておきながら、この冷静ぶりはとても心を持った同じ人間とは思えない。
だが、今は考えるまい。
まずは、路線バスに向かうのが先だ。
残りのやつらが全員、無事とは限らない。
この濃霧で影ぐらいしか見えないからだ。
それほど『濃霧現象』の恐ろしさは、野津の想像を超えていた。
しかし生き残ってる連中だけででも。
たとえ、野津が見えないところで別の犠牲があったとしても。
路線バスへ向かい、バスに乗って、漁協組合まで行かなければならない。
そこで大型コンテナ車を再び病院まで運んで。
中に閉じ込められている連中を、安全な避難場所まで運ばなければならない。
いずれ野津は、その計画があまりに甘いものだったかを知る。
だが、この状況下では、『カスケード』の本当の恐ろしさを知らない今では。
野津は自らの考えが理想主義的だったと知る由もない。
野津たちは走る。
果たして何人、路線バスまでたどり着けるか。
その路線バスまでの距離は、感覚で。
──あと25メートル!
水城市立総合病院
●撮影場所…愛媛県八幡浜市、市立八幡浜総合病院前




