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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第三章 蝿の王編

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第172話 朝霧に叫ぶ巨人

第172話


 北欧神話においてロキほど重要な神はいない。


 神々の国アースガルドに住みながら神ではなく、ファールヴァウティとラウフェイという巨人の子であり、つまりは正真正銘の巨人族だ。


 この巨人族は超人的な強さを持つ大自然の精霊の集団で「ヨトゥン」と呼ばれる。


「ヨトゥン」は神々の敵ではあるが、ロキはなぜか、北欧神話の王にして戦闘と死の神であるオーディンに気に入られることになった。これはオーディンが「ヨトゥン」の血を半分引いているからではないかともいわれている。


 神々の敵ながら神の一員となったロキ。その性格は極めて複雑だ。ハンサムでかなりの美男子。だが気まぐれで傲慢。ずる賢く、プライドが高く、いたずら好きで毒舌家。神々の悪事を暴いて罵る「ロキの口論」の逸話はあまりにも有名だ。


 また、北欧神話で起こるトラブルのほとんどはロキが発端となっており、その終末戦争である「ラグナロク」さえもロキがいなかったら起こり得なかったとも過言ではない。その「ラグナロク」ではロキはなんと、巨人族を率いて神の国を攻め滅ぼすなど、油断ならない存在だ。その思考はまったくといっていいほど読めない。


 その一方で、神界でも名だたる武器であるオーディンのグングニルの槍、トールの巨大な槌・グングニルなどを騙して作り与えたのは他でもないロキであり、同時に神々の窮地を何度も救っている。


 ロキは神の敵なのか味方なのか。


 その子も有名で、巨大な狼の怪物・フェンリルや、大蛇・ヨルムンガンドがいる。これら怪物たちはデルピュネー同様、世界最強クラスの力を持つともされる。


 時には神々を振り回し、さらには殺害し、時には助けもする。その掴みどころがない面をもって神話界最大のトリックスターと呼ばれるわけだが、これほど意味不明の言動を起こす神が何故、水城の地で受肉を試みたのか、魔王ベレスをしても不可解であった。


挿絵(By みてみん)

ロキ




 やがて夜が更け、そして朝が来た。


 だが濃霧は去ることなく、いまだ水城市を覆っていた。


「嘘でしょ……」


 カーテンを開け、薄暗い外の景色を見ながら美優は言う。


「夜が明けても消えない『カスケード』なんて聞いたこともないわ……」


 街は驚くほど静まり返っていた。誰も外出できないのだからそれも当然だ。


 だが時折、『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!』と巨人がわななく声が聞こえる。『ゴースト』たちもまだうろついているのか、それ以外の化け物も跋扈ばっこしているのか。美優には想像もつかない。


 まるで夢の中のような静けさの廊下を美優は歩く。


 リビングへ行くと、デルピュネーがいつも通り、朝ごはんを作っていた。その足元に翔太の妹の芽瑠がまとわりついている。


「ねえ、ねえ。今日は、幼稚園、行かないのお?」

「今日はまだ日曜日ですよ、芽瑠さま」


 デルピュネーは優しいほほ笑みを芽瑠に見せる。


「それに、しばらくは幼稚園はお休みかもしれません」

「ええ! そうなの?」

「退屈ならデルがお相手いたしますよ。さあ、芽瑠さまはソファーに座ってタブレットで遊んでいてください」

「……はぁ~い」


 これほどの異常事態なのにいつものような朝の光景。夢かうつつか。このギャップに美優は体を震わせた。美優は芽瑠が走り去るのを見て、デルピュネーの隣まで行き、料理の手伝いを始める。手にした包丁もまるで実感がない。


「おはようございます、美優さま」

「うん、おはよう」


 だがその美優の瞳はどこかうつろだ。


「蒼さんはどこへ?」

「昨晩遅く、セイレーン様と一緒に調査へ出られました」


 トントン、とネギを刻む。


「そう……」


 美優は手際よく、次は豆腐を角切りにし始めた。そしてその存在を確かめるようにデルピュネーと肩を並べ、問いかけてる。


「この『カスケード』、どう思う?」


 デルピュネーはアジの煮干しを魚焼きグリルに入れながら答えた。


「おそらくロキさまのいたずらでしょう」

「いたずら?」

「はい。あのお方はいつも、何を考えているかわかりませんから」

「会ったことあるの?」

「まさか」


 デルピュネーは冷蔵庫から大根を取り出してそれをすりおろし始めた。


「わたくしは幽世の中でも魔界の者です。神界に足を踏み入れることなどほぼありません」

「そうよね。でもその存在は有名なわけね」

「ええ。ロキさまのお考えのわからない行動は魔界でも知れ渡っていますから」

「そのロキって神様だけど」


 と、美優は切り出した。


「私たちの味方だと思う? 敵だと思う?」


 核心だ。


 しばらくの沈黙ののち、デルピュネーは答えた。


「わかりません」

「……わからない?」


 デルピュネーはあじのひらきのやけ具合を覗きながら、驚くべきことをあっさりと言った。


「ええ。なにせその行動の意味を理解する者は神界にもいないといわれていますから」

「それは蒼さんにもわからないってこと?」

「ベレスさまはロキさまとは顔見知りのようです。おそらくこの地に来た理由を聞くために、今、ロキさまを探していらっしゃるのでしょう」


 ソロモン72の魔王の頭領と、北欧神話の神様が顔見知り──!?


 成宮蒼……魔王ベレスはどれほど顔が広いのだろう。美優が学んだ神学や宗教学、悪魔学の知識の範疇を超えている。学んだなにもかもが壊れていく。お父さんは「神話」というものが独立した体系ではないことを実はすでに知っているのだろうか……?


「驚いたわ」


 美優は率直に言葉にした。


「つまり蒼さん、……ベレスって魔王は、神と同格の存在ってこと?」

「同格といっていいのかどうかはわかりませんが」


 そこでデルピュネーは鍋の火加減を調整する。


「まず、ロキさまの力はただただ“強い”という言葉だけでは測れないと考えたほうがいいと思います。どんな手を使ってどんな行動をとってくるか。戦略の立てようがないからでございます」

「それじゃ」


 と美優は言葉をつなぎ合わせていく。


「蝿の王のほうについて聞くわ……あの地獄屈指の実力者とロキって神様はどちらが強い? やっぱり神様?」

「ベルゼバブさまの強さについてですか?」

「ええ」

「ベルゼバブさまは……」


 ここで初めてデルピュネーと目が合った。


「魔王アスタロトさまらと同格かそれ以上。もともと天使のなかでも熾天使してんしと呼ばれる最高クラスの存在ですから、ほぼサタンさまやルシファーさまと変わらぬ強さを持っておられるでしょう」

「じゃ、その二人が殺し合ったら……?」


 ピクっとデルピュネーの眉が動いた。考えたくもない、そんな空気をゆるふわの白銀の髪にまとわせた。


「世界滅亡の引き金を引きかねないでしょう」


 リビングから芽瑠の嬌声が聞こえた。


 ことことと煮立つ音を聞きながら美優は思った。


 ──なんてことだ。


 事態は想像以上に深刻だった。


「ただ」


 とデルピュネーは続ける。


「ロキさまのことです。もしかしたらベルゼバブさまと手を組む可能性もあります。とても口のうまい方ですし、いかにベルゼバブさまが天才的思考を持っていたとしても騙し合いになるかもしれません。とにかくロキさまとベルゼバブさまの接触は避けるべきです」

「手を組む可能性……? 神と悪魔が? そんなこと起こり得るの?」

「相手はあのロキさまですから」


 静かにデルピュネーは言った。


「そもそも蝿の王とロキがほぼ同時に現れたのって偶然かしら」

「それもまだわかりません」

「蝿の王の存在を知って、この地に現れたとしたら、確かに手を組むってこともありか……」

「そうでございます」

「でもメリットは? そもそも何をしにこちらへ来たの? ……まったくもう頭が混乱する。なんで蝿の王だけじゃなくて、そんな厄介な神さままで現れるのよ。本当に世界は終わるの? だとしたらこうしている場合じゃないんじゃないの?」

「落ち着いてください、美優さま」


 デルピュネーは味噌汁の火を止めた。


「まずはベレスさまを信用してください。ベレスさまがいらっしゃる限り、希望の光は絶えていません。ベレスさまはある程度の予測をしているようでした。ベルゼバブさまが来た理由、そしてロキさまが現れた理由……。さらにベレスさまのお力はとてつもなく強大です。ベルゼバブさまもロキさまも、それはご存知のはず」

「あの人、そんなに強いの……?」


 デルピュネーはその質問には答えなかった。その代わりに背筋を伸ばして美優の目を見て言った。


「いずれにせよ今さら恐れることはありません。お忘れでしょうか。わたくし共にとって最も恐るべき存在……、それは“666の獣”です。ベルゼバブさまがいらっしゃったのもロキさまがいらっしゃったのも、これと無関係ではないでしょう。わたくし共はもうすでに、世界滅亡の爆弾を抱えている。ベルゼバブさまやロキさまよりも前に、わたくし共はよほど触れてはならぬ危険の中にいるのです。……つまり今、やらなければならないこと、考えなければならないのは翔太さまをお守りすること。わたくしも決死の覚悟を持ってこの場に立っております。ゆめゆめ、お忘れなきように……」

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