第167話 血まみれのアリス
第167話
(よりにもよって、なんでボクが来た時に限って『濃霧現象』が起こるんだい。まったく、運がないったらありゃしないよ!)
兎谷乃々は水城市港町の路地をホテルへと走りながら思う。
星城学園文化祭一日目。そのすべての行程が終わり、当然翔太と合流したかった乃々。だが何やら不良同士の抗争が勃発したとかやらで、乃々は翔太から「クラスメイトが怪我をしたんだ。後で連絡するからホテルで待っていてくれないか」と一人、放り出されてしまった。
乃々も水城の『濃霧現象』については知っていた。今年に入って立て続けに起こったことからその被害がテレビのニュースでも流れるからである。だからとにかく、警報が鳴ったら屋内へ避難しなければならない。逆に言えばそれぐらいの知識しかない。
ゆえになにはともあれ走る。走る──!
すでに乃々の周囲も薄い霧に包まれていた。人気もない。日もとっぷりと暮れている。街灯が少なく、その薄暗さが心もとない。
伝聞に過ぎなかった水城特有の災害。それにまさか本当に出くわすとは乃々も思ってもみなかった。
(まるで何か小説の世界にでも飛び込んでしまったような気分だ)
伝え聞くところによればなんでも濃霧の中には『ゴースト』と呼ばれるゾンビのような存在が潜んでいて、人を襲うのだと言う。喰うのだと言う。それ以外の化け物の目撃例もあり、乃々も半信半疑ながら走る先のすぐ前の角から今にも何かが飛び出してきやしないか、ゾクゾクする。
実際体験するのは初めて。乃々だって自分の命は惜しい。一方で本当にそんなものが存在するのか、見てみたい気持ちもあった。だがそれは命がけだ。でも本当に信じているかと言えば半信半疑。まさか自分の身にそんな凄惨なことが起こるはずはない……。そう葛藤するのが人の性。しかしここはおとなしくホテルに閉じこもるのが最適解だろう。
ツインテールにした髪がまるでウサギの耳のように跳ねる。
その時だった!
前方に水色のワンピースのドレス──。少女が一人、歩いているのを乃々は見た。
(人──!? 歩いているってことは、まだこの程度の霧の薄さだったら危険じゃないってこと?)
長い金髪。水色のドレスも何かの衣装のようだ。薄い霧の中をその少女はなんだか楽しげなリズムで歩いている。
文化祭のコスプレのままで帰宅途中の星城学園の女生徒だろうか。それともこれが、『濃霧現象』の時に霧の中に現れるっていう『ゴースト』なのだろか?
いやいや。君子危うきに近寄らず。そう危ぶみながら乃々は急いで少女を追い越す。だがその少女から乃々は突然、声をかけられてしまった。
「あら。ウサギちゃん。そんなに急いでどうしたの?」
え……と乃々は思う。ウサギちゃんって、自分のことだろうか?
「お茶会はまだ先よ。そんなに急ぐことはないわ?」
お茶会って何さ……? 乃々は思わず振り返らずにいられなかった。
金髪のロングヘア。カラコンをしているのか青い瞳。水色のドレスに白いエプロンをしており、白のタイツに黒の靴を履いている。
ニコニコと笑うその美少女は、まるで『濃霧現象』のことなど知らないかのようにゆっくりと、乃々に近づいてくる。
「えと……。あなた……?」
「私? 私はアリス」
少女は流暢な日本語で話した。
「時にウサギちゃん、あなたのお名前は?」
そののんびりとした雰囲気に乃々は戸惑った。地元の人にとって『濃霧現象』とはこの程度の認識なのだろうか。それともこれは幻なのだろうか。乃々は恐る恐る声をかける。
「星城学園の子かい? そんなことより君はどうして避難しないんだ」
アリスと名乗る少女は微笑んだまま乃々を見続けている。
「このサイレンって『濃霧現象』だろ? それともそんなに急いで逃げることはないのかい?」
水色のドレスの美少女は唇に人差し指を当てて「うーん」と呟いた。
「『濃霧現象』……? 確かに海から来る風に乗って霧が訪れている。でもそれがどうかした?」
「どうかしたって……。この霧はすごく危険なんだろう? 有名な話じゃないか。それなのにどうして君はそんなに落ち着いていられるんだ。まるでこんなこと日常茶飯事って感じに見えるが」
「そうねぇ……。でも私はただお散歩をしてるだけよ。それのどこがおかしい?」
キュートな笑顔でウインク。ここに来て、乃々も何か変だと勘付いた。
「君……。そのコスプレは『不思議の国のアリス』のアリスかい? だから自分のことをアリスって呼んでるのかい?」
「コスプレ?」
何それという顔をする。
「コスプレって何?」
乃々はじりじりと後ずさった。関わってはいけない。きっと彼女は!
危険なヤツだ──!!
乃々はじりじりと後ずさる。
「悪いけどボクは先に行くよ。君はゆっくりと散歩を楽しんでいればいい。じゃあ、さよならだ!」
「そう? ……でもウサギちゃん、あなたは私と一緒にいた方がいいと思うんだけど……」
「ご心配ありがとう! でもボクは行くね!」
このままこの場にいてはいけない。そう思って乃々が前を向き直った、まさにその時である。
とりわけ大きな霧の塊が目の前の路地を通り過ぎた。「あっ」と思った時には遅かった。
乃々は進路を絶たれてしまったのだ。
(で、でも、急いで霧の中を駆け抜けられれば……!)
果敢にも霧の中に飛び込もうとする乃々。だがそこにいくつもの金色に光る目を見てしまう。
──この濃霧の中に……!
何かが……!
いる──!
「うわああああああああ!」
思わず乃々は叫んだ。
濃霧の中でうごめいているのは人の形をした何か。
その影が、一斉にこちらに向かって迫ってくる。
人間ではない。
人の目が金色に光ることなんてあってはならない。
そう。
それらは『ゴースト』だった。
目を光らせながら。
霧の中を。
乃々の姿を見て。
ゆっくりと歩いてくる。
――逃げないと!
だが足が震える。
急激な恐怖に襲われ、体が硬直する。
動け、動け!
どんなに命令しても脚は震えるばかりで動かない。
そんな乃々に、『ゴースト』たちは両手を前に突き出し、迫ってくる。その手のひらが、指が、何かを掴もうとしている。
ボクだ。
ボクを捕らえようとしているんだ!
濃霧の中でも彼らの姿がハッキリわかるほど近づいてきた。
人間。
本当にその辺を歩いている普通の人間の姿。
牙が生えているとかじゃない。とりわけ凶暴な表情をしているわけでもない。
ただただ無表情な人々が。
目だけを光らせながら。
乃々に襲いかかろうとしている。乃々を喰おうとしている。
悲鳴を上げそうになったその乃々の耳元で突然、声が囁いた。
「心配しないで……」
振り返る。水色のドレスを着た少女だった。アリスと名乗るあの子だった。
だが信じられないことに。
手ぶらだったその少女の手に。
突然、巨大な鎌が握られている。
何もない空間からいきなり出現した大鎌。その刃の部分の長さは軽く乃々の身長を超えている。いや。もっと大きいかもしれない。
清楚でおしとやかな金髪の美少女には似つかわしくない大鎌。その鎌を大きく振りかぶると、『不思議の国のアリス』のアリスの紛争をしたその少女は濃霧の中へ向かって飛び込んでいった。
そして乃々の目の前で。
「えい! ええい!!」
可愛らしい声。それと裏腹に軽々と大鎌で霧を切り裂く少女。弾け飛ぶ『ゴースト』たちの腕、頭、胴体。
濃霧が血飛沫でピンク色に染まった。
その濃霧の中を少女はどんどん奥へと進んでいく。
乃々の顔にも飛ぶ血飛沫。もはやどうしていいのかわからない。その場から動くことを痺れる脳が拒否してしまっている。
やがてまるで湖が湧き出すように血が道路にあふれ、乃々の足下まで迫ってきた。乃々の靴が血で汚れる。それでも足はピクリとも動かせない。まるで毒。毒気に当てられ生きることを断念した大蛇の前のカエルのように。
逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない!
動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない動けない!
飛び散る肉。
弾ける血。
一体、どれぐらい時間が過ぎただろう──。
やがて鎌の風切り音がやんだ頃、濃霧からあの美少女が飛び出してきた。血まみれのその少女は驚くべきことに、軽く乃々の頭を飛び越え、そのすぐ背後に着地する。
そして再び、背後から、乃々の耳元で囁く。
「ほらね。私と一緒にいた方が良かったでしょう……?」
少女の白く細い指が、乃々の首筋を撫でた。
「さあ。一緒にお茶会へ行きましょう……?」
おそるおそる振り返った乃々の目に入ったのは、耳のあたりまで口が裂けたアリスの、まるで悪魔のような笑い顔だった。
アリスイメージ




