第165話 「死海文書」の堕天使
第165話
胸を背中から腕で貫かれたデルピュネーの惨状を見た神表洋平は、すかさず縦に構えた木刀・黒姫に左腕をかざし“十字”を作る。
同時にデルピュネーを急襲した堕天使の額に十字架のような焼け跡が出現した。そのまま背後へと吹き飛んでいく。
「うっ……!」
腕が突如引き抜かれ呻くデルピュネー。
「この邪悪な神性……堕天使か!」
神表は瀕死のデルピュネーの横を駆け抜け、後方へ飛ばした堕天使を追う。だが、堕天使は背中から漆黒の羽根を広げ空中で踏みとどまっていた。神表はこの一瞬を狙う!
「御霊光輪!!」
堕天使の真下に光の輪が広がり、その輪の中からいくつもの光の槍が突き出す。神表流エクソシズム、大天使ミカエルの力を借りた範囲攻撃だ。
次々と光の槍に串刺しにされる堕天使。だが想像以上にその表情は無垢で穏やかなままだ。
「くっ! やはり悪魔化してないと効果は薄いか……」
堕天使は巨大な漆黒の翼をはためかせると、いくつもの光の槍を抜き去り、上空へと舞い上がった。
「空中線か。ならば、重地開放!」
重力を3分の1にして空へ駆け上がる秘術。
「ヨッド・へー・ヴァウ・ヘー! 神の剣よ、降臨し給え!」
神表は堕天使と同じ高さへ。黒姫に秘術を施し、人間離れした猛スピードで斬撃を加え続ける。
ヨッド・へー・ヴァウ・ヘー。神聖四文字と呼ばれ、「VHVH」と記される。ヨッドが火、ヘーが水、ヴァウは風、最後のヘーは地に対応する。「VHVH」からわかる通り、すなわち唯一神・ヤハウェを意味し、ユダヤ教やキリスト教の秘術では、悪魔をも従える禁断の言葉として知られている。
神表の絶え間ない斬撃。それをほぼ瞬間移動のスピードで全てかわす堕天使。一振り一つ一つが必殺。当たれば並の悪魔ならば一気に消滅させられる程に強力だが相手は堕天使だ。果たしてこの術が、黒姫の秘術が、通用するかどうか。
だがさらに神表には秘策があった。
堕天使の額に焼き付けた十字。それは神表の神経回路と目に見えない回路でつながっている。ここからこの堕天使が何者か、その情報を探り出そうとする神表。十字の秘術。だが人の速さを超えた動きで攻撃を繰り出し続けている為、集中ができない!
(ちくしょう……! 秘術の糸がこいつの魂の深さまで届かねえ!)
次の一瞬だった。
堕天使の姿勢がいきなり崩れた。
デルピュネーだ。
神表も驚がくするほどのエネルギーが堕天使の腹を貫いた。ついに堕天使の表情が変わった。苦悶。だがデルピュネーも無事ではない。渾身の一撃を食らわせながらもひどい吐血で周囲に血の雨を降らせる。
さすがに堕天使の動きが鈍る。一気に十字の秘術が再発動する。そして神表の脳に、ついにその者の名が飛び込んできた。
──“バラキエル”。
「バラキエル……だと!?」
驚きながらも鈍った隙を見つけて、その忌々しい漆黒の翼を切り裂かんとする。だが辛くもかわされ、何枚もの漆黒の羽根がひらひらと神表の前を舞い散った。神表は舌打ちをした。
(とんでもないヤツがこの世に顕現してやがる!)
何故その名が神表に衝撃を与えたのか──。それはいわゆる神秘学の世界。「死海文書」の中に見い出される旧約聖書の偽典「第一エノク書」に登場する高名な堕天使の名だったからだ。
「エノク書」第6章にはこう記されている。
ある時、グリゴリと呼ばれる200人の堕天使の一団が人間界へ降り立った。
彼らは互いに誓いを立て、人間の女性を妻に娶り、交わった。
その際、人間に禁じられた知識を与えたとされ、これにより男は武器で殺し合うこと、女は化粧で男に媚びを売ることを覚え、神の御子である人間は堕落した。
この事件は暗喩とされ、実は南極には今もその200人の堕天使が氷漬けにされているなど怪しい伝承を多く生んでいる。
また、その第69章に200人の天使の頭の1人としてこのバラキエルの名が記されており、堕天使リストの9番目にその名が挙がっている。名の意味は「神の雷光」。
まさに神話時代の世界。異端ではあるがカトリック系である神表にとって、その名は恐怖を与えるには充分な知名度であり、恐るべき敵だった。
だがデルピュネーはそのバラキエルに臆すことなく、得意の槍を振るい続ける。それはそうだ。デルピュネーもギリシア神話では名の知れた怪物である。大神ゼウスを倒したこともあるギリシア神話最強の怪物・テュポーンが使い魔。その力は限りなく神々《リリン》に近い。いや大悪魔と言うべきか。
デルピュネーの瞬激とも言える槍の攻撃、それをかわしながらもデルピュネーを殺さんとする堕天使・バラキエルの死闘。激しい空中戦。
苦悶の表情を浮かべているとは言え、その姿はまだ“ヒト”のままである。おそらくまだまだ本気の力は出してない。それを見ながら神表は思う。
(こんな高位階の堕天使に俺の技は通用するだろうか)
珍しく弱気になっていた。完全に悪魔化している敵ならば話は違う。だが、バラキエルはまだ神性を強く帯びている上に、「死海文書」にも記される要注意の堕天使だ。悪魔専門の殺し屋としては分が悪い。
だが怯んではいられない。神表の使命はこの地に訪れる人間の敵を全て葬り去ること。人を堕落させた200の堕天使集団・グリゴリの頭の1人であるバラキエルはまさにその対象だ。
そのバラキエルは負傷した翔太を抱えたままだ。その状態で、あのデルピュネーの攻撃を受けずに逃げ回り続ける。その力、スピードは「神の雷光」の名が表す通り、まさに雷光のような強力さと言えよう。
死闘が繰り広げられる夜の星見山。その星見山を震わせるようにその時、サイレンが鳴り響いた。
ウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ!!
「こんな時に……!」
神表は唇を噛みしめる。
このタイミングで『濃霧警報』、すなわち『カスケード』がこの街を再び襲ってきたのだ。
神表はこの星城学園、星見山から夜の水城湾を見下ろす。
その『濃霧』は、これまでになく巨塊だった。
その高さは天にまで達していた。
まるで津波。いや、それ以上。
まさにこの世の終わりを示すような広大で巨大な魔の霧。
このままでは海面50メートルの高さにあるこの学園すらも、濃霧に包まれる。それは時間の問題だ。
(一体、どれほどの大物がこの世に顕現しようとしているんだ……?)
バラキエルほどの高位界の堕天使がすでに顕現している。さらにこの巨大すぎる『カスケード』。これから起こる被害たるや、この水城市だけではなく世界全体の危機へとつながる可能性すら感じさせる。
何とかせねば……。神表の直感が、バラキエルにさらわれている翔太が何かの鍵を握っていることを示していた。ならばまずはなんとかバラキエルを倒して翔太を救い出さなければならない。しかしどうやって……?
この神表の迷いが、致命的な油断を生んでしまった。
空中で激しい死闘を繰り広げるデルピュネーとバラキエル。
今、夜空に浮かぶのはその二強だけでなく。
なんと妖獣・バジリスクの群れが、上空を覆っていたのだ。
(囲まれた──!?)
さすがの神表の額にも冷や汗がにじみ出た。まさかこの時に。一匹ではなく。これほどの数のバリジスクが? 俺たちを狙っているというのか。
多勢に無勢の上に、バラキエルという強大な敵。勝ち目はますます薄くなっていく。バジリスクも一体ぐらいなら一撃で切り伏せることができる。が、そもそもバジリスクは嘴から炎を吐き、猛毒の息は草を枯らし石を砕き、人を即死へと追い込む。さらにはその目を見るだけで“ヒト”の魂を打ち砕くとも言われる強敵だ。
これだけの数のバジリスク、神表とこのギリシア神話の怪物だけで撃退できるだろうか。
そうこうしている間にも、バジリスクはデルピュネーに襲いかかる。その巨大な嘴で素早く動くデルピュネーの肉体をついばみはじめる。肉を食いちぎり始める。
「くっ……!」
さすがのデルピュネーの表情も曇る。バラキエル相手で手一杯なのだ。
「邪魔ですっ!」
そう言って槍で数匹のバジリスクを同時に切り裂く。だが数が数だ。バジリスクは次から次へとデルピュネーへとその翼をはためかせた。
当然、神表も何十匹のバジリスクに囲まれる。そして決してその目を見てはいけない。ハンデがでかいにも程がある。
(やむを得ない)
自らの神の力を多大に消費してしまう。しかしこれしか手はなかった。神表は結界を張ろうとする。これだけのバジリスクに襲われたら、大火傷ですめばまだいい方。毒で体が溶かされ、肉はすべてついばまれて骨だけになってしまうかもしれない。
バジリスクの嘴を神表は黒姫で受け続けた。そして秘術を発する為に、一気に精神集中をする。
その時だった。
ブン!
強い風が吹いたような気配があった。
同時に。
突如、バラキエルの左腕の肘から先が、切断され飛ばされる。当然、抱えられていた翔太が落下していく。
「な……?」
さらには。
神表へ襲いかかってきていたバジリスクがすべて一気に破裂して血の塊となった。その血の球体がぐるぐると邪悪な渦を巻く。
(なんだこれは……?)
その時、神表は見た。
夜空が違和感のある不気味な蒼に染まっているのを。
そして、その中にある1人の青年が浮かんでいるのを。
「ベレス様!」
デルピュネーが思わず声を挙げる。
魔王ベレス。ソロモン72柱の頭領にしてデルピュネーの飼い主。強大な力を持った地獄の大王。
堕天使・バラキエルの顔色が変わった。おそらくバラキエルは知っている。その存在を。その力を。バラキエルの驚がくの隙をついてデルピュネーは首を跳ねようとした。だがそれでも、バラキエルはまさに首の皮一枚でこれをかわした。そして魔王ベレスのその尊大な姿を見上げる。
これを見下ろしながら。ベレス=成宮蒼は静かな口調で言った。そしてその表情は、いつもの穏やかなものではなく、眉がつり上がり、怒りの形相を見せていた。
「失せよ」
たった一言。
そのたった一言だった。
その言葉の圧は、悪魔専門の殺し屋・悪魔祓い師の神表ですら重圧を感じた。
デルピュネーは即座に降下し、落ちてきた翔太をしっかりと抱きとめる。
そして堕天使・バラキエルは口惜しそうな表情をしながら、その場から姿を消した。
空を覆っていたバジリスクはすべて血の塊となって渦を巻いている。
そして。
弾けた……!
星城学園のグラウンドは、瞬く間にバリジスクたちの体液で、真っ赤で凶悪で悪臭のする血の海と化した。




