第152話 新世界より
第152位
「ほら見てみろ! これが今までお前が見て見ぬ振りをしてきた世界だ!」
セイテンタイセイが叫ぶ。
超高速で飛ぶ筋斗雲。とんでもない強い風を受けるひまりは目を開けていられない。
「なあに。風はじきになれる。さあまぶたを開け! 起きろ! 目を覚ませ! お主はもうとっくに前を向いている。もうとっくに歩き始めている。我と共にその一歩を踏み出しているのだ!」
おそるおそる目を開けていくひまり。その瞳に強い風が流れ込んでくる。目が乾きそうになる。だが。
それ以上に。
光が。
海に反射する光が。
空から降ってくる光が。
ひまりの目に飛び込んできた。
そこでひまりが見たのは。
照りつける太陽。
光を受けて輝く海原。
真っ青な海。
流れゆく雲。
そして。
まるで自分を包み込んでくれるかのような優しい青の空。
「うわあ……」
思わずひまりは声を上げた。
これまで、ひまりは常に目を伏せて生きてきた。
しっかり景色を見ようとすると、そこに、何かが見える。
海面から「おいでおいで」をする手。何やら街路樹にぶら下がっている得体のしれない影。防空頭巾をかぶった親子。うずくまった真っ黒な塊。ヒッチハイクしようとする女性の姿。ぶよぶよとした肉体を通りがかる人たちに巻きつけようとする化け物たち。
だから。
見ないようにしていた。
だが今はどうだ。
確かに、何かしらの亡霊の姿は映らなくはない。
でも。
こんなに太陽ってまぶしかったっけ。
こんなに水城の海は島や岬が多かったっけ。
こんなに海や空は青かったっけ。
こんなに、こんなに。
自然って。
美しかったっけ──!
そうだ。
ひまりは見たくなものを見ないようにして。
美しいものすら“見て見ぬ振り”をしてきた。
だが。
軽くなった心のモヤモヤ。
その不快感が取り払われた今。
ひまりの瞳に、美しい青が吸い込まれていく。
夢じゃない。
嘘でもない。
私がこれまで見て見ぬをふりしてきた世界でも。
実はよく知っていて実はよく知らないこの地でも。
いっぱいの空が、雲が、お陽様が、風が、波が、海が、息づいている!
そしてそこに。
いっぱいの人が、いっぱいの生活を。
それぞれに。
自分たちなりに。
それぞれ苦悩を重ねながら。
過ごしている!
それは毎日毎日とぎれることなく。
私が見ていない間も。
ずっと続けられてきた光景。
それってなんて。
なんて、素晴らしいことだったんだろう!
(どうして私は今までそれに気づかなかったの)
自分が持って生まれた巫女としての宿命。
それは決して苔むした岩で閉ざされた牢屋じゃない。
本当は。
なんでもよく見えるってことは。
あらゆる可能性がつまった、まだ開かれてない私の人生で一番の宝箱。
これまで私の心は、吠えていた。
狂っていた。
絶叫していた。
だが確信した。
私の宿命の先には。
宝石がキラキラと輝く世界があったのだ。
「どうじゃ、気持ち良かろう」
セイテンタイセイが振り向いて言った。
「はい!」
ひまりは答えた。
「結局、私は自分だけが不幸だと思ってました。結局、人なんて他の人のことは理解できないし、けどその理不尽を、私は壁だと感じていたんです」
「ほう」
「でもその理不尽こそが現実で、それが現実だからこそ、現実の刃で理不尽を突破した」
「そうじゃな」
セイテンタイセイは言う。
「前をしっかりと見ることが不可能を可能にし、理不尽をしっかり認識することが世界を明らかにし、そこでようやく自らを前へと進められる。我はそう考えている」
「わかった気がしました。友達が、みんなが、この世界で生きていられるのは、この空とこの風とこの海と同じくらい、みんなで過ごしていられるその時間を愛していたからだって。私の目に映る海や空の青、白いお陽様の光、山の緑、そして立ち並ぶ建物、縦横無尽に走る道路、歩く人々、走る人々、転ぶ人々、おじいさん、おばあさん、おじさん、おばさん、子どもたち、赤ちゃん、そして私達…。愛も憎しみも、関心も無関心も含めて、みんなこの土地が大好きなんだって」
「怯えながら、どうせ自分の苦しみなんて他の人にわかってないなんていうモヤモヤした愚鈍な気持ちを引きずるのはやめたのか」
「……」
ひまりはその問いには答えなかった。
一気に涙が溢れ出してきたからだ。
涙はひまりの目から流れて、そして後方へと散っていった。
とめどなく、とめどなく、涙は湧き出した。
止められなかった。
止めたくなかった。
セイテンタイセイはスピードをゆるめ、海岸線を低空飛行し始めた。
そう。ひまりは気づいたのだ。
これまでひまりは、現実から、目に見えるものから、逃げていた。
それによって、彼女の“人生”が彼女から逃げ出してしまっていた。
だから。
だからこそ、苦しかったのだ。
辛かったのだ。
「我は天竺より授かった経により気づいたことがある。自身の短所を攻めるのは敵だ。だが長所を認めてくれるのがライバルだ。我は敵よりもライバルが欲しい。常に我を焚き付けてくれるのはそんな自分というライバルの存在だ」
セイテンタイセイは続ける。
「今のお主は自分のダメだった部分を認めることができた。だからこうやって前へと進める。空をも飛んでいる。一番怖いことは、自覚がないことじゃ」
ひまりはそのセイテンタイセイの背を見た。
「思い屈するような心萎える時間を過ごしてきたのじゃろう。心がしなっている状態で、なんとか心を潰さんとする重い雪を滑り落とそうとしてきたのじゃろう」
もう、ひまりは我慢ができなかった。声をあげて泣きじゃくり始める。
「辛かったのじゃな」
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
ひまりは大声を上げて泣いた。その泣き声は潮風に飛ばされていくので、誰にも聞かれる恐れはなかった。
こんなに世界は美しかった。
こんなに世界は愛おしかった。
色鮮やかで、光彩によって同じ景色もさまざまな顔を見せる。同じように自分の心も、どこから光が当たるかによって、姿かたちが変わる。
「これからもお主は異形の者たちを見るであろう。だがこれまでと同じようにする必要はない。何かをするのが思いやりではない。何もしない思いやりもある。今のままでいいのじゃ。今のままで、目から映るその光を、闇を、影を、色を、それぞれ自分の心に素直に刻め。苦しければ叫べばいい。腹が立ったら怒ればいい。今こそ、お主から逃げ出していたお主の人生を、再び呼び戻す時。再び自分の本当に人生を歩む時」
「いいんですか! 私は、私の人生を、歩いていいんですか! 私はいろんなことから逃げてきた。北藤くんも苦しめた。いじめにも加担しちゃった。私なんて、そんなモヤモヤした気持ちを引きずって、モヤモヤした人生を歩いているのがお似合いじゃないんですか? それが人を傷つけた代償じゃないですか? 私の好きだった人を傷つけた代償じゃないですか?」
ひまりは泣き叫ぶ。
「今さらということはない」
水城市の上空でセイテンタイセイは筋斗雲を止めた。
「我はセイテンタイセイ。人の味方というわけではないからハッキリ言う。苦しめ、抱えて生きろ。だがその先に」
と、トンと、ひまりの胸を押した。
「逃げ出したはずのお主の人生が確かにある」
ひまりはそのままバランスを崩して筋斗雲から落下した。落ちて、落ちて、落ちて。
そんなひまりを、あの消えたはずの小学生の北藤翔太の幻がやさしく抱きとめてくれたのを感じた。
その翔太はひまりの耳元でこう囁きかけた。
「実は、心に傷を負ってくれていてありがとう。僕の苦しさと同じように苦しさを感じてくれていてありがとう。僕、葉山さんのその優しい気持ちのおかげで……」
ひまりに優しい視線が注がれる。
「君の思い出から消えるこの瞬間、あれも青春だったって、思うことができたよ」
その言葉を聞いて耐えられなかった。翔太の幻の手の中でひまりは、わんわんと泣いた。
泣いて、泣いて、泣いているうちに。
心の痛さと苦しさに耐えているうちに。
この色彩の美しさ、世界の美しさを感じているうちに。
真っ青なこの海から。海面から。海の腹から。
ひまりが落としていく数々の涙のしずくと裏腹に。
腹の底からのひまりの泣き声と涙のしずくの間を縫うように。
かつてひまりを助けてくれた紅い蝶の群れが一斉に飛び立つ幻を、見た。




