第14話 滅びの予兆
第14話
空気が裂けるように、世界の縫い目が口を開け。
二つの世界をつなぐ“縫い目”。
それが、水城市の沖で口を開けている──
意識の向こうで、音もなく何かが笑った気がした。
「いいものを見せてあげよう」
シャパリュは器用に、指をひとつ打ち鳴らした。
──パチン。
次の瞬間、床を覆い尽くしていた猫の群れが、煙のように掻き消える。
「続きは歩きながら話そう。君の案内人である僕がね」
「……いや、でも」
翔太は振り返った。
部屋としての体裁を失ったそこにはまだ、ソファーに残された美優と芽瑠がいる。時間は止まったまま。壁から伸びる蒼体の亡者の腕が、今にも二人の頬へ触れそうに揺れている。
「安心しなよ、翔太」
シャパリュは翔太の心を読んだかのように、口の端を吊り上げて言う。
「ここは結界の内側だ。ベレスさまが敵意を持って閉じ込めたのでなければ、亡者は彼女たちに触れられない。むしろ安全とすら言えるんじゃないのか」
「それを……信じろ、と……?」
口から出た声は震えていた。胸の奥で何度も否定しようとしたのに、言葉になった瞬間、哀れなほど弱々しく響いた。
「そうだね。だって今の翔太には、信じるしか選択肢はないじゃないか」
猫の姿をした案内人は笑いながら、前脚を舐めて毛づくろいを始めた。
まるで世間話でもしているように。
「それに──ああ。これを最初に言うべきだったのね。君たちは僕たちの“保護対象”になっている。下手に刺激して困るのは、ベレスさまも僕も一緒なんだよ」
魔王ベレス。すなわち成宮蒼。
その名を、翔太は後に美優から知らされる。
ソロモン七十二柱の魔王にして、地獄王の一人。
八十の軍団を率い、恋を操る権能を持つ。
かつて天に座したが、今は堕ちた。
猫たちはその前に並び、ホルンを鳴らして道を開く。
──それが、成宮蒼だ。
地下へ続くこの巨大な洞穴も、そのベレスの手によるものだ。
壁も天井も、蒼白い肉で覆われていた。
蠢く。押し合う。無数の顔が、翔太を覗く。
焦点のない瞳。喉の奥で、絶叫とも呻きともつかぬ音。
──洞窟そのものが胎内のように、息づいている。
足元もまた例外ではない。折り重なった背骨や肩、頭蓋の連なり。
髪の毛の残る頭皮が、わずかに指を動かすように震え、冷たい吐息を吹きかけてくる。
これが幻想なのか現実なのか、判然としない。だが、亡者たちの蒼白な眼孔がいちいち翔太を追い、喉の奥で湿った笑いを漏らしているのは確かだった。
「で。今、おそらく君が一番知りたいのは──自分の正体だろうけど」
シャパリュの声が洞窟内で朗らかに響いた。こだまする。「だろうけど……」「だろうけど……」
「まずさっきも言ったけど、“神の転生者”だ。──そしてもう一つの名を持つ。『黙示録の獣』だ。こう告げられても混乱するのは当たり前だよね。これまで普通の高校生だったんだから。だが君は『濃霧』を見た。『アストラル』……ここでは君たちと同じ言葉を使おうか。じゃあ『ゴースト』たちと遭遇した。そしてさっきの不死。殺害、その直後の蘇生。これをしっかりと脳内で転がせば、僕が嘘つきじゃないことが見えてくるんじゃないかな」
確かに。反論できない。胸の奥に冷たい石が落ちる。
「『アストラル』──それは君たち自身の“別の層”だ。世界は幾重にも重なり、穴に呑まれた魂は隣の層から溢れ出す。それが君たちの言う『ゴースト』」
「つまりは……『ゴースト』の中に、“俺”が混じっている可能性も……?」
「ビンゴ~♪ なかなかいい理解速度になってきたね。まさにそう」
シャパリュの目が細く光る。
「だが次元を超える負担はあまりに大きい。多くの人間は発狂し、バーサク状態に陥る。肉体も変異し、人を襲う怪物へと成り果てる。それが君たちが言う『ゴースト』の正体さ」
頭では否定したいのに、心臓は冷たく萎んでいく。そんなはず……そんなはずはない……!
一方で。
翔太の脳裏に──美優の『ゴースト』が思い出された。
翔太は見ていたのだった。その裏付けを。すでに。あの時に。
(……あれは、別の世界の美優だったのか……)
逃げようがない事実を突きつけられ、思考が暴れる。
シャパリュの饒舌は止まらない。
「だが、なぜ人を喰らうのか。その理由は──これに関しては、すまない。まだ秘密にしておくね。だから知っておくべきはひとつ。“奴らは人を喰う”。それだけで十分だ」
それ以上は語らない気配。翔太は黙して歩を進める。
「さて、海に空いた穴。その穴の向こうにあるもの……それは何か。気になるよね。まあ君たちの目から見たらそこには“虚無”が広がっている。何もない。どこへでも繋がる空白の空間──。しかしその先には確かにあるんだ。魔界や、神界が。そこは『幽世』とでも言えばいい。概念的に大きな違いはないからね」
「……そんなものが本当に存在するなんて」
「そう。もっとも神ほどの存在となると、穴など介さずとも、この世に顕現できる。あ。これは初出の言葉だったね。『リリン』──それは多神教の神々、怪物、悪魔。その総称だ。僕もデルも、ベレスさまでさえ『リリン』に数えられる。まあ便宜上、あの『ヒトガタ』も、『アストラル』というよりは『リリン』に近い存在かな。下等な妖魔だけど」
「『リリン』……この水城には神も悪魔も現れうる。それがこの水城の秘密ってことか」
「いい調子! そうやって素直になんでも受け入れてもらえれば、こっちも話しやすいかな」
翔太は二足で歩く小さな背中を見つめる。どう見てもただの猫なのに。
「さて。僕たちが『幽世』から来た理由を説明しよう。君が事故で意識を失っていた一ヶ月前。あの時も『濃霧』が起きていた。それは美優からすでに聞かされているはずだよね」
この猫、どこまで知っているんだ……。
「あの『濃霧』はね。僕らが来たからだ。ベレスさまに召喚され、この水城へ。つまり──『濃霧』の夜は“外”からの侵入がある夜。そう理解しておいて今は問題ない」
翔太は頷くしかなかった。
「そして僕らが呼ばれた理由。それは──“最悪”が始まりかけたから」
「最悪?」
「……君さ」
「俺……?」
「そう。事故だよ。例の君の両親を奪ったあの事故。そこで何が君に起こったのかは不明だが……“早まった”。これは確実に言える。──本来なら君は静かに生涯を終えられていたのかもしれない。だがベレスさまは“滅びの兆候”を見た。『卵』と言ってもいいかな。君の中の“獣”の萌芽が急成長したことを。だから八十の軍団を呼び寄せたのさ。つまり僕たち」
「…………」
「そして十六年前の最悪の『濃霧』。あれはね──」
シャパリュは一拍、笑みを止めた。
「君がこの世に生を受けた瞬間、世界の“縫い目”が裂けたんだよ」
言葉が出なかった。
胸の奥で、何かがゆっくりと音を立てて崩れていく。
音もなく。
世界が、赤ん坊の泣き声で軋んだ。
「あの夜から、“獣”は目を覚ました。
つまり、君の誕生こそが──最初の“終わり”だったんだ」
シャパリュの声音が低く響く。
「ハヤブサの頭を持つ太陽神ラー。古代都市ヘリオポリスで最も崇められた神。世界でも最強格──いや、“滅びに抗える”数少ない神の一柱だ。ラーの特性は“習合”。どんな神とも悪魔とも融合し、同一視される力だ」
「……他の存在を取り込める神。それが俺──」
「そしてラーは、聖書──ヨハネの黙示録に記されたアポカリプス。その到来に備えるための存在だったんだ。それが君。ラーさ。その転生体」
「分からない、もう分からない……」
「そりゃあ僕だってなぜ君なのか──そこは是非知りたいところだよ。偶然か、運命か。だけど現状。この議論に意味はない。ただただ事実として、君はラーの転生者であり、“終末”に抗う切り札。そう思ってもらっていい」
「つまりは救世主ってことじゃないか。──信じがたいけど。なのにどうしてあんな最悪の『カスケード』が?」
「そうそう。君たちはあれを『カスケード』と呼んでいるね。じゃあ僕たちもそう呼ぶ。その16年前の『カスケード』だが、それは太陽神ラーが君として生まれたからじゃない。それとは別にね、“終末”を起こそうとする存在……聖書に記された“666の獣”。反キリストとも記されているね。それが来た。これが、16年前の『カスケード』の正体さ」
次の瞬間、シャパリュの表情から冗談めいた影が消える。
「あれはね、別格の存在。悪魔をも滅ぼす者。世界を壊す者。聖書はそれをほのめかしているに過ぎない」
「……じゃあ、もしかして、あの16年前の『カスケード』は」
「そうだよ。ヤツは見つけたのさ。君が生まれたことを。自身を邪魔するだろう存在を。つまり“獣”が。『反キリスト』と呼ばれる存在が、『濃霧』に乗って、この街に降りた」
(つまり……!?)
「そう。君の行き当たった直感はおそらく正しい」
シャパリュが歩みを止めた。そして再び指を鳴らした。
──パチン!
音とともに視界が揺れ、また世界が塗り替えられる。
次に翔太の目の前に広がったのは──地獄の底にあるような血に染まった湖だった。
血の泡が脈打つ。──まるで心臓の鼓動。
血泡のぷつりという音が、鼓動の拍に揃う。
頭上の太陽は黒く欠け、世界を呑み込む穴のように広がって見えた。
遠い地平には四騎士の影。馬に跨り、黙示録の預言書から抜け出したようにじっと佇んでいる。
そして。この湖の中央。そこでは──ハヤブサの頭を持つ太陽神ラーが、翼を広げて抗っていた。
しかしその羽根には、じわじわと「666」の印が焦げ跡のように浮かび、腐った痕のように広がっている。終末の“獣”に蝕まれているのだ。
そのラーはこの真紅の湖に“影”を落としていた。
だが影と呼ぶにはあまりに異様。
百の顔が同時に蠢き、泣き顔、笑い顔、獣の牙、赤ん坊の口……見るたびに姿を変える。
その正体を言葉で定めることはできない。
混沌そのもの──黙示録に描かれる「世界を喰らう獣」そのもののイメージだった。
「……!」
もう、言葉もない。声を出そうとしても空気が漏れるばかり。
血の湖。黒く欠けた太陽。遠くに控える四騎士。
ラーの翼に刻まれる“666”。
そして形を持たぬ”獣”の影。
神話の書物に記された終末の情景が──目の前で再現されている。
血の湖が泡立つ音が、心臓の鼓動と同じリズムで鳴っている気がして吐き気が込み上げる。
(ふざけるな……! こんなものが俺の未来だなんて……!)
その光景は、他ならぬ自分自身の未来を告げていると直感した。
翔太はただ呆然と立ち尽くし──胸の奥底で、抗えぬ“真理”を悟った。
信じられない。
信じたくない。
「いいや、翔太」
猫の声が冷徹に告げる。
「これが“真理”。これが今の君の魂の現形なんだ」
尻尾で翔太の足首を軽く叩きながら、シャパリュはピンク色の肉球をちらりと見せつけるように差し出した。可愛らしいその手が、残酷な宣告をしていることに背筋が凍った。
「ラーは“習合”の神。融合を許す。だから寄生されたんだ──“滅び”そのものに。
君は、世界を壊す側に立ってしまった。
……世界を壊すのは、君だ」
シャパリュイメージ




