第13話 怪猫シャパリュ
第13話
拳は確かに届いた──はずだった。
だが、手応えがない。空を切ったような、奇妙な虚無。
“怒り”という名の獣に身を預け、“理性”をかなぐり捨てた。
恐怖も混乱も、拳に込めた。
理不尽を殴りつけるために。
けれど、その先で──世界が、音を失った。
この瞬間には、成宮蒼の姿は魔法のようにかき消えていた。
空気がゆがみ、残ったのは──
ひとつの“ぷにっ”という音。
かわいらしい猫の肉球。
あの、どう見てもぷりぷりした猫の肉球そのものが、拳を受け止めていた。
「……え?」
思わず漏れる声。
それはそうだ。狙ったのは成宮蒼の左頬。だがその姿はもうない。代わりにあるのがこの肉球。しかも翔太の打撃を完全に吸収しきっていた。
呆気にとられる翔太。
そんな翔太に話しかける者がいた。
「もう、危ないなぁ。そんな簡単に拳を振るう子だなんて、僕は思わなかったよ。君はとても優しいと思っていたのに、先が思いやられるじゃないか、まったく」
「ね、猫……!?」
「ああ。そうだよ。見ての通り。見たまんま、猫だよ。ほら、毛並みも完璧だろ?」
「ね、猫が……!?」
翔太は思わず同じ言葉を繰り返す。
それほど信じられない出来事が目の前で起こっていた。
「猫が喋った……!!!」
狙ったのは、膝をついていた蒼の頬。
それがこの小さな猫一匹の、しかも前脚一本で軽くふっと受け止められている。
「猫、猫って、何回も何回もうるさいなあ。まあでも、確かに猫なんだけどね」
「ね、猫がどうして? なんで……?」
「どうして、は後回し。今はそれでいいだろう? 君だってこれ以上、混乱したくはないだろう。結果というものは“単純”であればあるほど“真実”の顔ってやつが見えてくるものさ。そしてこの“真理”に近づいた者だけが、この世を生き残ることができる」
「喋った。猫が……喋った……!?」
「だからあ。動揺は分かるけれど一回で十分だって。そのままをそのまま受け入れなよ」
しかもその猫は宙に浮いていた。
浮いたまま、何をしたのか、その肉球で翔太の拳の衝撃を“無効”にした。
メイド服、悪魔、惨殺、その次に訪れたのは……喋る猫。
翔太の脳はぐちゃぐちゃに混乱する。
「まあ、無理もないっちゃ無理もないか……。じゃあ、ちょっとしたミニ講義といこう。例えば、だよ。生物が生き残るには何が必要だったか知ってるかい? 強さ? いや、違うね。生き残る者はいつだって“強い者”じゃない。では、どんな者か。種を残して来たのは、“適応力”の高い種のみ。つまり、そのままをそのままと受け入れ、“変われる者たち”だったんだよ。そしてこれはね、生命が四十億年かけて証明した単純な“真理”ってやつなんだ」
そう言って、宙に浮かぶ喋る猫はそっと、肉球で翔太の拳を押し戻した。「えいっ!」
思わず腰から倒れ込んでしまう翔太。
「さあ。これで、そのままをそのまま受け入れる心の準備は整ったかい? じゃあ自己紹介だ。僕はシャパリュ。過去にはキャスパリーグと呼ばれていたこともあったね。だけど、呼び名なんて、どうだっていいのさ。僕はシャパリュ。それでいい。だから僕も皆もそう呼ぶし、君だって今日から僕のことをそう呼べばいい」
「シャパリュ……」
「そう。よく言えたねえ。僕はシャパリュ。そしてここからの案内人はこの僕。ベレスさまに代わって、このシャパリュが務めさせていただきます」
言葉が終わるより早く、景色が裏返った。
翔太は自分が目を回したのではないかと思った。
天井がなくなり、蒼い岩壁と冷たい湿気が押し寄せる。
そこはどこかの洞窟のようだった。
だが床を埋め尽くしていたのは──何十匹もの猫。
そのあまりの猫の数に、翔太は身動きすら取れなくなる。
シャパリュの演説は、この魔法を挟んでも変わらず、相変わらず朗々と続いていく。
「さて。ここが新たな君の居場所さ。──それにしても人間って乱暴だなぁ。ベレスさまの言う通りだ。一皮剥けばこれだ。危うく、僕の自慢のキュートな肉球が潰れるところだったよ」
「な、なんで喋れる……ん、だ……?」
「ん? もちろん喋るよ。だって僕は化け猫だからね。まあそれもまた、一つの仮初めの姿にすぎないんだけれども」
そう言うとシャパリュは、翔太の拳を受け止めたピンク色の肉球を口元へ寄せ、ふうふうと息を吹きかけた。ついでに尻尾をくいっと揺らす。可愛らしい仕草なのに、なぜか底知れない怖さがにじむ。
──そう。シャパリュ。
翔太は、その名の猫が何者なのか、後にベレス=成宮蒼から詳しく聞くことになる。
英名はキャスパリーグ。
『アーサー王物語』や『騎士道物語』にその名が記されている怪猫。
スイス・アルプス、ローザンヌ湖の近くに棲んでいたとされ、歴代の英雄たちを葬ってきた。
フランスの伝承では、アーサー王の首を落とした──とも。
つまり、英雄殺し。それがこの「シャパリュ」
そんな物騒な伝説が残る、怪猫が、彼だった。
「話は変わるけど、それにしても、君はやっぱり別格だね」
「え?」
「いや。さすがベレスさまが探していた存在なだけはあるなあって」
シャパリュは愉快そうに目を細めた。
「そもそも、このベレスさまの結界の中で、こんなに自由に動ける人間なんてそうはいないよ。人間どころか、妖魔でさえもこの結界の中では身動き一つできなくなるんだ。持つ“力”が違いすぎてね。だから、さすがしか言えない。さすがは、エジプトの古代神の転生者であり、“666の獣”と呼ばれる存在だね。その卵ももう、孵りかけてるけど」
「エジプト? 古代神……? 666……? 卵……?」
翔太の頭はますます混乱する。
「だから言っただろ。“真理”を見つけるには、ありのままをありのまま、受け入れるしかないって。あ、もしかして君、ここに来て、まだ自分が、“普通の人間”だとでも思っているのかい?」
「…………」
なんと返したらいいか分からない。
まるで情報の爆弾だ。
「考えてもみなよ。体を真っ二つにされても、すぐに修復される。そんなこと、人間にできると思う?」
そうだ。あれは確かに不可解だった。
とても現実とは思えない。
いまだ悪夢を見せ続けられているとしか考えられない。
だがシャパリュは、そんな翔太なんてお構いなしで続けていく。
「できないよね。人間だったらあれで即死さ。でも君は……翔太は死ななかった。つまり、それが君さ。そのままをそのままと受け入れれば、自分が人間ではないという“真理”にすぐたどり着けると思うよ。それに過去を振り返ってみなよ、記憶の片鱗はきっと残ってる。君はその“真理”から逃げ続けてきただけ」
「記憶の……片鱗……?」
「そうさ。君は本当は“真理”の在り処を知っている。証明しようか? じゃあ僕が君を短い記憶の旅に連れ出して上げる。さあ。君の過去を呼び起こしてごらん。見えてくるはずだよ。君の“真理”が。ほおら、もう見えてきた」
シャパリュのその言葉自体が、まるで魔法か何かのようだった。
翔太の脳裏に、子どもの頃の光景が蘇ってくる。
コマ送りに進んでいき、ある一瞬で普通に動き始める。
それらのシーンは。
忍者ごっこ。神社の屋根から落ちても無傷だったこと。
初動の授業の後、廊下を走ってきた同級生とぶつかっても、かすり傷ひとつ負わず、手にしていた硯すら割れなかったこと。
やんちゃな同級生にひどい暴力を振るわれても、その傷口が翌日には消えてなくなってたこと。
そして訪れた──交通事故。
両親を奪い、自分と芽瑠だけを生かしたあの惨劇。
その瞬間、翔太は確かに見た。
自分の体から現れ、芽瑠をも包み込もうとしていた“黒い影の手”を。
(まさか……)と翔太は思った。あれは……ずっと前から、俺の中に“いる”ってことなのか……?
「やっぱりね~」
シャパリュは得意げに尻尾を揺らした。
「それが君さ。君そのもの。そのまま、まるごと君なんだ」
「いや、おかしい! 理屈がまったく見えない!」
「何が見えないんだい?」
「そりゃ分からないだろ! そんな突然そんなこと言われても、あんなもの見せられても、あれが俺? まるごとの俺? 嘘だ。そんなわけがない。あの影だって何かの見間違いだ。あれだけの衝撃、ショック……何か幻を見たに過ぎない!」
「頑固だなぁ」シャパリュは肩をすくめ、くすりと笑った。
「なんでだよ!」翔太は抗う。
「それに、エジプトの神なら、エジプトに生まれるはずだろ。ここは日本だぞ。極東のさらに片隅の田舎町だぞ」
「いや、逆に、その田舎町だからだよ、翔太」
シャパリュは重い言葉を、軽い調子で言い放った。
「君がこの街に生まれたのは、偶然じゃない。君は古代神だからここに落ちたんだ。この水城市という“選ばれし場所”に」
「落ちた……? “選ばれし場所”……?」
ますます分からなくなる。
「そのままをそのまま受け入れなよ」とシャパリュはもう一度、言った。
そして。
「いいかい? ここは仏教の真言宗を開いた空海にすら“人里はない”と見逃された土地なんだ。つまり聖なる守護を受けられなかった場所。四国お遍路を見ても分かるだろ。ここを避けるように妙にハッキリと迂回されている。おかしいと思わないかい? だが、それにはちゃんとした理由があったとしたら?」
「今は令和だぞ! 空海上人? 平安時代の人の話じゃないか!」
「でも君はもう見たはずだよ。その、君が言う“令和の時代”ってやつで」
「な、何を……」
「まずは『濃霧』」
シャパリュはそこで毛づくろいをして話に句読点を打った。そしてすぐ続ける。
「あと“情緒体”たちも見たはずだ。まあ、君たちはそれぞれを『カスケード』とか『ゴースト』って呼んでるみたいだけど」
「アストラル……? 何だそれ……」
「情緒体と書いてアストラル、この世のものじゃない存在。君たちが言う『ゴースト』や『ヒトガタ』だよ。どうしてそんなものが、水城市にだけ現れるのか考えたことぐらいあるだろ? 一体どうして、って」
「そ、そりゃあ、まあ……」
翔太は言い淀む。
それに関しては、国連が国際魔術会議とともに独占で研究をしているとも聞く。
だが翔太には分からない。公表されているわけでもないからだ。
確かに16年前。翔太が生まれた年。
ここ近年で稀に見る規模の『濃霧現象』が起きたことは聞かされている。
その時、多くの尊き人命が奪われた。この街は一時、壊滅的な被害を受けた。
過疎化の原因もそこにある。
それからだからだ。この町から人々が離れるようになったのは……。
でも。
確かに、それがどうして、この水城にだけ、何度も何度も。
さらには令和の今ですらも起こるのか──?
「今言えることはね。この地が古代から選ばれた場所の一つだったってことだよ」
翔太は生唾を飲み込むことしかできない。
「すべてを話すには時間が足りない。まあ、シンプルに言えば、……穴さ」
シャパリュの声が洞窟に響いた。
「穴?」
「ああ、そう。その“穴”」
シャパリュは相変わらずひょうひょうとしている。
「実はこの水城市の沖のある地点には、この世と幽世をつなぐ穴が開いてる。『濃霧』も、『情緒体』も、そこから漏れる。もちろん、僕らも、ね。まあ僕らに関しては自ら来たわけだけど。他のやつらは大体、何者かに呼び出されて現れることがいいね。つまり、ここは二つの世界が最も近い場所。分かりやすくというと、その”穴”ってやつは、世界の“縫い目”みたいなものさ」
聞くことすべてが不可解だ。
ひどく壮大な話が、いとも簡単でシンプルな話だとして聞かされ続けている。
「時間がないから要点だけ伝えるけど、つまり、この街は、幽世に最も近い土地とされているんだよ。突如現れ、突如消えた謎の古代人──古代シュメール人って知ってるかい? 彼らが旅の果てにここを見つけたのも偶然じゃあない」
だが、黙って聞いていることしかできない。
情報の渦に巻き込まれ、溺れてしまっても。
「そして君は、君はもう、“聞き手”じゃいられない。だって、君は、この物語の中心で、生まれたんだからね」
シャパリュの金の瞳が細まり、薄闇の中で笑った。
「さあ、そのままを──そのまま、受け入れるんだ。じゃないと、君は自らが持つ宿命ってやつに、自ら押しつぶされてしまう。そんな可能性だってある。だから受け入れろ……受け入れるしかないんだよ……」
水城湾の沖合。ここに時空の裂け目があり、そこから『濃霧』が訪れる。
【撮影】愛媛県八幡浜市真網代。透明度のある美しいブルーの海にリアス式海岸の岬や小さな島々が見える。




