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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
プロローグ~霧の中に、何かがいる!

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第13話 怪猫シャパリュ

第13話


 拳は確かに届いた──はずだった。

 だが、手応えがない。空を切ったような、奇妙な虚無。

 “怒り”という名の獣に身を預け、“理性”をかなぐり捨てた。

 恐怖も混乱も、拳に込めた。

 理不尽を殴りつけるために。

 けれど、その先で──世界が、音を失った。


 この瞬間には、成宮蒼なりみやそうの姿は魔法のようにかき消えていた。

 空気がゆがみ、残ったのは──

 ひとつの“ぷにっ”という音。












 かわいらしい猫の肉球。











 

 あの、どう見てもぷりぷりした猫の肉球そのものが、拳を受け止めていた。


「……え?」


 思わず漏れる声。

 それはそうだ。狙ったのは成宮蒼なりみやそうの左頬。だがその姿はもうない。代わりにあるのがこの肉球。しかも翔太の打撃を完全に吸収しきっていた。

 呆気にとられる翔太。

 そんな翔太に話しかける者がいた。


「もう、危ないなぁ。そんな簡単に拳を振るう子だなんて、僕は思わなかったよ。君はとても優しいと思っていたのに、先が思いやられるじゃないか、まったく」

「ね、猫……!?」

「ああ。そうだよ。見ての通り。見たまんま、猫だよ。ほら、毛並みも完璧だろ?」

「ね、猫が……!?」


 翔太は思わず同じ言葉を繰り返す。

 それほど信じられない出来事が目の前で起こっていた。


「猫が喋った……!!!」


 狙ったのは、膝をついていた蒼の頬。

 それがこの小さな猫一匹の、しかも前脚一本で軽くふっと受け止められている。

 

「猫、猫って、何回も何回もうるさいなあ。まあでも、確かに猫なんだけどね」

「ね、猫がどうして? なんで……?」

「どうして、は後回し。今はそれでいいだろう? 君だってこれ以上、混乱したくはないだろう。結果というものは“単純”であればあるほど“真実”の顔ってやつが見えてくるものさ。そしてこの“真理”に近づいた者だけが、この世を生き残ることができる」

「喋った。猫が……喋った……!?」

「だからあ。動揺は分かるけれど一回で十分だって。そのままをそのまま受け入れなよ」


 しかもその猫は宙に浮いていた。

 浮いたまま、何をしたのか、その肉球で翔太の拳の衝撃を“無効”にした。

 メイド服、悪魔、惨殺、その次に訪れたのは……喋る猫。

 翔太の脳はぐちゃぐちゃに混乱する。


「まあ、無理もないっちゃ無理もないか……。じゃあ、ちょっとしたミニ講義といこう。例えば、だよ。生物いきものが生き残るには何が必要だったか知ってるかい? 強さ? いや、違うね。生き残る者はいつだって“強い者”じゃない。では、どんな者か。しゅを残して来たのは、“適応力”の高いしゅのみ。つまり、そのままをそのままと受け入れ、“変われる者たち”だったんだよ。そしてこれはね、生命せいめいが四十億年かけて証明した単純な“真理”ってやつなんだ」


 そう言って、宙に浮かぶ喋る猫はそっと、肉球で翔太の拳を押し戻した。「えいっ!」

 思わず腰から倒れ込んでしまう翔太。


「さあ。これで、そのままをそのまま受け入れる心の準備は整ったかい? じゃあ自己紹介だ。僕はシャパリュ。過去にはキャスパリーグと呼ばれていたこともあったね。だけど、呼び名なんて、どうだっていいのさ。僕はシャパリュ。それでいい。だから僕も皆もそう呼ぶし、君だって今日から僕のことをそう呼べばいい」

「シャパリュ……」

「そう。よく言えたねえ。僕はシャパリュ。そしてここからの案内人はこの僕。ベレスさまに代わって、このシャパリュが務めさせていただきます」


 言葉が終わるより早く、景色が裏返った。

 翔太は自分が目を回したのではないかと思った。

 天井がなくなり、あおい岩壁と冷たい湿気が押し寄せる。

 そこはどこかの洞窟のようだった。

 だが床を埋め尽くしていたのは──何十匹もの猫。

 そのあまりの猫の数に、翔太は身動きすら取れなくなる。

 シャパリュの演説は、この魔法を挟んでも変わらず、相変わらず朗々と続いていく。


「さて。ここが新たな君の居場所さ。──それにしても人間って乱暴だなぁ。ベレスさまの言う通りだ。一皮剥けばこれだ。危うく、僕の自慢のキュートな肉球が潰れるところだったよ」

「な、なんで喋れる……ん、だ……?」

「ん? もちろん喋るよ。だって僕は化け猫だからね。まあそれもまた、一つの仮初かりそめの姿にすぎないんだけれども」


 そう言うとシャパリュは、翔太の拳を受け止めたピンク色の肉球を口元へ寄せ、ふうふうと息を吹きかけた。ついでに尻尾をくいっと揺らす。可愛らしい仕草なのに、なぜか底知れない怖さがにじむ。


 ──そう。シャパリュ。

 翔太は、その名の猫が何者なのか、後にベレス=成宮蒼なりみやそうから詳しく聞くことになる。


 英名はキャスパリーグ。

『アーサー王物語』や『騎士道物語』にその名が記されている怪猫かいびょう

 スイス・アルプス、ローザンヌ湖の近くに棲んでいたとされ、歴代の英雄たちを葬ってきた。

 フランスの伝承では、アーサー王の首を落とした──とも。


 つまり、英雄殺し。それがこの「シャパリュ」

 そんな物騒な伝説が残る、怪猫かいびょうが、彼だった。


「話は変わるけど、それにしても、君はやっぱり別格だね」

「え?」

「いや。さすがベレスさまが探していた存在なだけはあるなあって」


 シャパリュは愉快そうに目を細めた。


「そもそも、このベレスさまの結界の中で、こんなに自由に動ける人間なんてそうはいないよ。人間どころか、妖魔でさえもこの結界の中では身動き一つできなくなるんだ。持つ“力”が違いすぎてね。だから、さすがしか言えない。さすがは、エジプトの古代神の転生者であり、“666の獣”と呼ばれる存在だね。その卵ももう、かえりかけてるけど」

「エジプト? 古代神……? 666……? 卵……?」


 翔太の頭はますます混乱する。


「だから言っただろ。“真理”を見つけるには、ありのままをありのまま、受け入れるしかないって。あ、もしかして君、ここに来て、まだ自分が、“普通の人間”だとでも思っているのかい?」

「…………」


 なんと返したらいいか分からない。

 まるで情報の爆弾だ。


「考えてもみなよ。体を真っ二つにされても、すぐに修復される。そんなこと、人間にできると思う?」


 そうだ。あれは確かに不可解だった。

 とても現実とは思えない。

 いまだ悪夢を見せ続けられているとしか考えられない。

 だがシャパリュは、そんな翔太なんてお構いなしで続けていく。


「できないよね。人間だったらあれで即死さ。でも君は……翔太は死ななかった。つまり、それが君さ。そのままをそのままと受け入れれば、自分が人間ではないという“真理”にすぐたどり着けると思うよ。それに過去を振り返ってみなよ、記憶の片鱗はきっと残ってる。君はその“真理”から逃げ続けてきただけ」

「記憶の……片鱗……?」

「そうさ。君は本当は“真理”の在り処を知っている。証明しようか? じゃあ僕が君を短い記憶の旅に連れ出して上げる。さあ。君の過去を呼び起こしてごらん。見えてくるはずだよ。君の“真理”が。ほおら、もう見えてきた」


 シャパリュのその言葉自体が、まるで魔法か何かのようだった。


 翔太の脳裏に、子どもの頃の光景が蘇ってくる。

 コマ送りに進んでいき、ある一瞬で普通に動き始める。

 それらのシーンは。

 忍者ごっこ。神社の屋根から落ちても無傷だったこと。

 初動の授業の後、廊下を走ってきた同級生とぶつかっても、かすり傷ひとつ負わず、手にしていたすずりすら割れなかったこと。

 やんちゃな同級生にひどい暴力を振るわれても、その傷口が翌日には消えてなくなってたこと。


 そして訪れた──交通事故。


 両親を奪い、自分と芽瑠だけを生かしたあの惨劇。

 その瞬間、翔太は確かに見た。

 自分の体から現れ、芽瑠をも包み込もうとしていた“黒い影の手”を。


(まさか……)と翔太は思った。あれは……ずっと前から、俺の中に“いる”ってことなのか……?


「やっぱりね~」


 シャパリュは得意げに尻尾を揺らした。


「それが君さ。君そのもの。そのまま、まるごと君なんだ」

「いや、おかしい! 理屈がまったく見えない!」

「何が見えないんだい?」

「そりゃ分からないだろ! そんな突然そんなこと言われても、あんなもの見せられても、あれが俺? まるごとの俺? 嘘だ。そんなわけがない。あの影だって何かの見間違いだ。あれだけの衝撃、ショック……何か幻を見たに過ぎない!」

「頑固だなぁ」シャパリュは肩をすくめ、くすりと笑った。

「なんでだよ!」翔太は抗う。

「それに、エジプトの神なら、エジプトに生まれるはずだろ。ここは日本だぞ。極東のさらに片隅の田舎町だぞ」

「いや、逆に、その田舎町だからだよ、翔太」


 シャパリュは重い言葉を、軽い調子で言い放った。


「君がこの街に生まれたのは、偶然じゃない。君は古代神だからここに落ちたんだ。この水城市という“選ばれし場所”に」

「落ちた……? “選ばれし場所”……?」


 ますます分からなくなる。


「そのままをそのまま受け入れなよ」とシャパリュはもう一度、言った。


 そして。


「いいかい? ここは仏教の真言宗を開いた空海にすら“人里はない”と見逃された土地なんだ。つまり聖なる守護を受けられなかった場所。四国お遍路を見ても分かるだろ。ここを避けるように妙にハッキリと迂回されている。おかしいと思わないかい? だが、それにはちゃんとした理由があったとしたら?」

「今は令和だぞ! 空海上人? 平安時代の人の話じゃないか!」

「でも君はもう見たはずだよ。その、君が言う“令和の時代”ってやつで」

「な、何を……」

「まずは『濃霧』」


 シャパリュはそこで毛づくろいをして話に句読点を打った。そしてすぐ続ける。


「あと“情緒体アストラル”たちも見たはずだ。まあ、君たちはそれぞれを『カスケード』とか『ゴースト』って呼んでるみたいだけど」

「アストラル……? 何だそれ……」

「情緒体と書いてアストラル、この世のものじゃない存在。君たちが言う『ゴースト』や『ヒトガタ』だよ。どうしてそんなものが、水城市にだけ現れるのか考えたことぐらいあるだろ? 一体どうして、って」

「そ、そりゃあ、まあ……」


 翔太は言い淀む。

 それに関しては、国連が国際魔術会議ユニマコンとともに独占で研究をしているとも聞く。

 だが翔太には分からない。公表されているわけでもないからだ。


 確かに16年前。翔太が生まれた年。

 ここ近年で稀に見る規模の『濃霧現象カスケード』が起きたことは聞かされている。

 その時、多くの尊き人命が奪われた。この街は一時、壊滅的な被害を受けた。

 過疎化の原因もそこにある。

 それからだからだ。この町から人々が離れるようになったのは……。


 でも。

 確かに、それがどうして、この水城にだけ、何度も何度も。

 さらには令和の今ですらも起こるのか──?


「今言えることはね。この地が古代から選ばれた場所の一つだったってことだよ」


 翔太は生唾を飲み込むことしかできない。


「すべてを話すには時間が足りない。まあ、シンプルに言えば、……穴さ」


 シャパリュの声が洞窟に響いた。


「穴?」

「ああ、そう。その“穴”」


 シャパリュは相変わらずひょうひょうとしている。


「実はこの水城市の沖のある地点には、この世と幽世かくりよをつなぐ穴が開いてる。『濃霧』も、『情緒体アストラル』も、そこから漏れる。もちろん、僕らも、ね。まあ僕らに関しては自ら来たわけだけど。他のやつらは大体、何者かに呼び出されて現れることがいいね。つまり、ここは二つの世界が最も近い場所。分かりやすくというと、その”穴”ってやつは、世界の“縫い目”みたいなものさ」


 聞くことすべてが不可解だ。

 ひどく壮大な話が、いとも簡単でシンプルな話だとして聞かされ続けている。

 

「時間がないから要点だけ伝えるけど、つまり、この街は、幽世かくりよに最も近い土地とされているんだよ。突如現れ、突如消えた謎の古代人──古代シュメール人って知ってるかい? 彼らが旅の果てにここを見つけたのも偶然じゃあない」


 だが、黙って聞いていることしかできない。

 情報の渦に巻き込まれ、溺れてしまっても。


「そして君は、君はもう、“聞き手”じゃいられない。だって、君は、この物語の中心で、生まれたんだからね」


 シャパリュの金の瞳が細まり、薄闇の中で笑った。


「さあ、そのままを──そのまま、受け入れるんだ。じゃないと、君は自らが持つ宿命ってやつに、自ら押しつぶされてしまう。そんな可能性だってある。だから受け入れろ……受け入れるしかないんだよ……」



挿絵(By みてみん)

水城湾の沖合。ここに時空の裂け目があり、そこから『濃霧』が訪れる。

【撮影】愛媛県八幡浜市真網代。透明度のある美しいブルーの海にリアス式海岸の岬や小さな島々が見える。

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