第133話 黄泉神(よもつかみ)
第133話
その、あまりの想定外の事態に、さすがの魔王レラージェもしばらくの間、これらを眺めてることしかできなかった。
雲の中を悠々と泳ぐ白鯨。その白鯨が跳ね上がっては雲に沈み消えていく。魔界でも見られない異質な世界。そこを満天の星空がドームのように覆って蓋をし、異様に大きな月が、らんらんと雲の腹のうねりに影を落としていた。
レラージェの心を読んだかのように魔王ベレス=成宮蒼は言う。
「我々の故郷である魔界とも人間界ともまるで異なる奇妙な光景。これは神話の世界だろう。それも日本神話のな」
「日本の、神話……?」
「ああ。鯨という哺乳類への、この日の本の民の信仰に近いものが具現化された世界だと言ってもいい」
現れては沈んでいく白鯨の群れ。夜空に響き渡る、甲高い物悲しそうな鳴き声。
「鯨への信仰……。ギリシア神話におけるケートスのようなものか。ポセイドンによって作り出され、エチオピア王国を崩壊させたというあのケートス。堕天使を運ぶ乗り物ともされる冥府の案内役」
「違うな。ここ、日の本ではそもそも鯨は、ヤマタノオロチという八つ首の怪物を倒した神・スサノオノミコトの妻・クシナダヒメの化身と言われている。つまり神聖を帯びた存在なのだ」
「鯨に神格を与えたというのか」
「それだけではない」
魔王ベレスは魔王レラージェへと向き直る。
「この日本各地には多くの鯨に対する逸話がある。だが鯨が“神”の属性を持つと言えど、その多くは鯨という存在が“タタリ神”だということだ。それら逸話には共通点があり、鯨はその身を人間の女の姿に化身させ、人の夢枕に立つと言う。その女は大体、こう懇願する。“出産の為に沖へ行くのでその時だけは鯨の捕獲はやめて欲しい”とな。だが人々はそれでも鯨を獲った。その願いを聞かなかった、結果、鯨はタタリ神となって人を祟り、世に疫病を撒き散らした」
「神が祟る。確かに、日本の民間信仰の一つだな」
「そしてここからが重要なのだが」
ベレスは前置きをする。
「僕の使い魔であるセイレーンは先程まで、ここに現れる鯨を狩って回っていた。この雲は下から上へと突き抜けられるが、上から下へは向かえない。いつまで経っても雲が切れないという何かの結界が張られたような状態になっている。それを僕は、この鯨の祟りや呪いではないかと考えた。だからセイレーンへと命じた。ここの鯨をすべて狩れと。祟りや呪いを断てと」
長い美しい神の先が羽毛となっているセイレーンは身動きもせず、じっとその背を向けたままだ。
「その結果、どうなったと思う? 大きな過ちだったよ。セイレーン。見せてやれ。君の姿を。この天空の白鯨、タタリ神を狩って回ったその報いを」
セイレーンはその声にビクリと身震いした。嫌がっているのが見て取れる。だがベレスの命令は絶対だ。彼女は少しずつ、レラージェの方へと振り返っていく。そして。
「なんだ、これは!」
レラージェは驚がくの声を上げた。
セイレーンの特徴として美しいブルーの瞳がある。だが、その宝石のような輝きはその顔にはなかった。目があった部分はくり抜かれたように穴が空いており、そこに蛆がたまり、涙のように蛆がこぼれ出ている。
それだけではない。頬はこけ、唇はひび割れ、まるで穴のようになったその口の中も大量の蛆が溢れる。
死体だ。まるで腐乱死体だ。今のセイレーンの表情は完全に死人のものであり、手足の肉も削ぎ落ちたように細く、じくじくと体液のような腐った汁が滲み出しており、そこからも蛆がポロポロとこぼれ落ちる。
「これは……」
「驚いただろう。そう。これが“祟り”というヤツだ。疫病の祟りにセイレーンは受けた。生きているのは彼女が特別だからだ。僕の魔力供給が途絶えていないからだ」
「“祟り”と“呪い《カース》”とはまた違うのか」
「違うな。君の弓の権能である敵をドロドロに腐らせてしまう『滅びの雨音』。その“呪い《カース》”の権能とも似て異なる。僕もセイレーンへとさまざまな魔術を試してみたのが、この“祟り”というヤツには治癒がまるで効かない。どうやら大元である“祟り”の根源を叩かなければ、“祟り”は消せないらしい。厄介な代物だ」
「私の権能でもか」
「わからない。やってみるかい?」
レラージェは糸目の上に厳しいシワを作り、首を横に振った。
「“祟り”、それは伝染するのではないか。下手に我が権能をそこへ用いれば、セイレーンにかけれれた“祟り”が私へも降り掛かってくる」
「その可能性もあるな」
「なるほど。だから先程から、その“祟り”とやらの根源が姿を表すのを待っていたというわけか。“祟り”と“結界”、それを元から断つ」
「その通りだレラージェ。そしてその根源は、そろそろ姿を表そうとしている、見ろ。この勢いを増していく瘴気を」
ここでレラージェに疑問が浮かぶ。
「根源……それは、崇徳上皇ではないのか。おそらくこの雲も“祟り”そのもの。“祟り”の根源、つまり崇徳を滅ぼすということで合っているのか」
「いや。状況はそうシンプルではない。まず君は一つ、大きな勘違いをしている」
「勘違いだと?」
「気づかなかったのか。この雲を抜けてくる時。感じなかったのか、その違和感を」
「違和感……」
レラージェは記憶を辿り始める。まず最もレラージェが不思議に思ったのは、この空いっぱいに広がっていると思われた崇徳上皇の姿がなかったことだ。雲の中に入れば確実に崇徳の体の一部に当たり、そこで戦いが起こると思っていた。
だが、どれだけ先へ進んでも、崇徳の肉体に出会うことはなかった。結果、この雲の上にまで突き抜けてしまったわけだ。
それ以外で、何があるというのか。
考える。
レラージェは考える。
そう言えば……。
この雲を突き上げていく時に、レラージェには奇妙な高揚感があった。それは魔界に棲む者独特の感覚であり、人で言えば、真夏の海水浴に近いか。やたらとこの雲が体に馴染みが良いとレラージェは感じていた。
だがそれは、崇徳上皇とかいう日本最大の怨霊が放つ瘴気に、身を当てられているからだと思っていた。ただの雲ではない。いわゆる気象現象で起こる雲ではない。崇徳上皇の瘴気によって出来上がった雲。だから何らかの相性の良さがあったのかもしれない。だが。
「……!」
ここでレラージェは気づいた。
「まさか」
ベレスはレラージェが確実にその答えに辿り着いたことを確信した。
「そのまさか、だよ。レラージェ」
「では、この雲の正体は……」
「そう、君の想像通り。この雲は、雲にあらず。崇徳上皇の瘴気にもあらず。それが何を意味しているかというと」
レラージェはゴクリと喉を鳴らした。
「この雲そのものが“祟り”。別の言葉で言い換えよう。これは雲ではない。いわば『濃霧』。つまりこれは雲ではなく、『カスケード』そのものなのだ」
雲ではなく濃霧! 雲ではなく『カスケード』!
「で、では、あの白鯨たちも」
「そう。『カスケード』によって呼び寄せられた日本の伝承の魔獣。タタリ神。君が感じた雲との馴染みの良さ、つまりこの崇徳上皇の瘴気が『カスケード』と同じ現象であるからこそ、君自身の高揚感にもつながった」
「空でも『カスケード』は起こるというのか」
なるほど。レラージェの超強力魔術『滅びの雨音』が通用しなかったのもこれで納得が行く。レラージェの放った矢は、雲の中をすり抜けて行ったのではなく、濃霧=『カスケード』に取り込まれた。『カスケード』がレラージェの魔力を別次元へと転移させてしまったのだ。
「僕もそのことに気がつくまで、とてもじゃないが信じられなかったよ。まさか『カスケード』が大地や海上だけではなく、空でも起こるなんてね。そしてここからがさらに厄介なのだが」
「なんだ。もったいぶらずに教えろ」
「慌てるな。もうすぐ君の目の前にも現れるさ。崇徳上皇が自ら起こした空の『カスケード』。それは、崇徳上皇の遠い先祖を呼び出そうとして起こされたものだ。ヒントをやろう。先祖……日本の天皇と呼ばれる存在はすべて、日本の神々《リリン》の末裔だ。つまり」
「日本の“神”が、これからここに現れる」
「それもただの“神”ではない」
「何故だ」
「このセイレーンの惨状を見てみろ。こう見えてセイレーンは僕が自身の片腕として選んだ精鋭中の精鋭だ。そのセイレーンを、こうも簡単に疫病の“祟り”で戦闘不能へと追い込んだ。それはあの白鯨の飼い主が、とてつもない力を秘めている証と言える。崇徳上皇は怨霊。怨霊にセイレーンほどの魔獣を戦闘不能にする力はない。“神”クラスだからこそ、できた、いわば“神の御業”だ。さらには、この『カスケード』内では、何度もイカヅチが確認されている。僕もそれは崇徳上皇の力かと思っていたのだが、どうやら崇徳上皇はこの『カスケード』を引き起こしただけ。そのイカヅチは、白鯨の飼い主であり、崇徳上皇が呼び醒ました存在の力によるもの」
「イカヅチを起こす神」
「そう。そう考えると思い当たる日本神話の神は自ずと知れてくる」
「待て。ベレス。つまり我々は、怨霊ではなく“神”と戦わなければならないのか」
レラージェは身震いした。それはそうだ。例え魔王と呼ばれようが、地獄の大侯爵と呼ばれようが、相手が“神”の名を冠するならば話は違ってくる。“神”を悪魔で言えば大悪魔に匹敵する。悪魔のほとんどは、過去に別地域で“神”と呼ばれていたものか、ルシファーとともに地獄へと落とされた天使。つまり“神”と比肩する悪魔など、そうそう存在しない。だがベレスはさらに不可思議なことを言った。
「いや。ある意味では怨霊とも言える」
「何を言っているんだ。まったく理解ができない」
「それが東洋の、またこの日の本の神話の特性だよ。おそらくこの後、姿を見せるのは怨霊。崇徳上皇が日本最大の怨霊というならば、その“神”は、日本“最凶”の怨霊」
「神が怨霊? しかも“最凶”だと?」
「さあ、ショーの始まりだ。魔王レラージェよ。地獄の大侯爵よ。ソロモン72柱総領、僕と共に踊ってくれるかい?」
その言葉が終わらぬうちに、下方に広がる雲海、いや『カスケード』の濃霧が大きく盛り上がった。姿を見せないでもわかる白鯨だ。再び白鯨が、この濃霧の腹に姿を表してきたのだ。
そしてその白鯨の背には人影があった。
(こいつか)
とレラージェは身構えた。
“神”でありながら“怨霊”。日本の神々はそのほとんどがタタリ神だとも言われている。一神教であるキリスト教から見れば、祟りを人へと引き起こす日本の神々はどちらかと言えば“悪魔”に定義が近い。それは“神”なのか、“悪魔”なのか。
白鯨の背にある人影は、どうやら女性のようだった。
つまりこれが“神”というならば女神。
日本神話をも熟知している魔王ベレスにとって、思い当たる存在は、だたの1柱しかなかった。そしてそれは的中していた。
「レラージェよ。今から我々が迎え撃つ“神”は、国作り神話の1柱。共に日本という国を産み、そして夫であるイザナギノミコトにより裏切られ、現代日本をも未だに恨み続ける日本の最高神。その“闇落ち”した者」
白鯨の背の女性は真っ白で艶やかな“死に衣装”を身にまとっている。そして長い髪をたくわえたその頭を徐々にもたげ、ベレスとレラージェを見上げた。
その目は漆黒というには黒すぎ、地獄の大穴と言うには神々しかった。
「歓迎しよう。日本の神々の大いなる母であり女神よ。人間に寿命という呪いをかけ、未だ日の本の人間を祟り続けるものよ。その名も大神・イザナミノミコト。参れよ!」
イザナミノミコトイメージ




