第12話 悪魔の数字666
第12話
「僕は、君の“秘密”を知っている──」
「ひ、秘密……?」
穏やかな話し方とは裏腹に、その目は翔太が想像する悪魔そのもののようだった。
人間の命なんて、本当はなんとも思ってないような──
ぞっとした。理屈じゃない。見下ろされているというより、“分類されている”と感じた。
胸の奥が、きゅっと縮む。
見られてはならない場所を、すでに覗かれていたような――薄氷の恐怖が翔太に降りかかる。
「では今から、君自身にもそれを知ってもらうためにちょっとした荒療治を始める、いいかい?」
翔太の返事を待たず、パチン、と、成宮蒼は指を鳴らした。
瞬間、リビングの時間が凍りついた。翔太、蒼、デルピュネーを除いて――
クッキーを頬張る芽瑠の口。
こぼれ落ちて宙に浮いた粉の粒。
安らかに寝息を立てる美優の胸の上下。
すべてが止まっている。
「……っ」
戸惑う翔太。だが、自分の体だけは動いた。
「これは……」
パリパリパリ……。壁が剝がれ落ちる異音。
壁が軋み、皮膚のように“めくれた”。
白い壁紙の下から現れたのは、蒼黒い肉片――まるでこの家そのものが生きていたかのように。
ぬるぬると蠢き、粘液を滴らせ、見る見るうちにこの部屋を侵食していく。
テーブルも、テレビも、床も、椅子も……すべてだ。
「な、何だこれ……!?」
目の前のリビングが、現実からねじ切られて、悪夢に差し替わっていく。
そしてよく見ると、その肉片たちは人間の上半身のようだった。
首だけ、腕だけ、胸だけ。
救いを求めるように宙に突き出された手。
顔のような塊からは呻きが漏れ、唇がひくひくと動く。
『アアアアアアアアアアア……』
呻き声が部屋中にこだまする。
吐き気が込み上げ、翔太の背筋を冷たい汗が流れ落ちた。
「こ、これって……」
「結界だよ、翔太くん」
蒼の声が響いた瞬間、蒼黒い肉片の呻きが一斉に黙った。
「僕の固有結界だ。これで下準備は済んだ。難しく考えなくていい。結論だけ言う。この結界はね、神魔の領域を超えて君の中にある本当の魂を強化するお守りのようなものだ。君に寄生した者の力を抑えながら遠慮なく、僕も行動ができる」
(な、何を言っているんだ……?)
「デル。気をつけたまえ。例え僕の結界内といえど、過度な衝動は、ヤツを目覚めさせる愉悦につながりかねない。慎重に。彼の魂の在り処を見ろ。一瞬即座、ピンポイントを狙え」
「かしこまりました、蒼様」
デルピュネーの声が静かに響いた、その直後だった――
「はあああああああああああ!」
不意を突かれた。
助けてくれたはずの少女。
さっきまで信じて寄りかかった背もたれが、急に刃に変わったような――
そんな、どうしようもない裏切りの冷たさと残酷さ。
(やめろおおおおおおおお――!)
胸の底が、エレベーターの床ごと落ちたみたいに沈む。
信じて寄りかかった背もたれが、刃になって突き刺さったような裏切りの冷たさ。
頭では理解が遅れ、心だけが先に砕ける。
そう。よりにもよって、だ。
翔太の頭上に、デルの槍が振り下ろされた。
目で追う。いや追いきれないスピード。
頭蓋直撃。
分かる。
砕けた。
脳が潰れる。
視界が赤黒く爆ぜ、世界が裏返った。
衝撃は脳を突き抜け、なお動く舌の根元まで引き裂いた。
痛みは遅い。だが。
追いつくより先に、翔太は体ごと“真っ二つ”にされてしまっていた。
(…………!?)
理解が及ばぬ状況。
腰から縦に割れた断面から、大量の血がどろりと流れ落ちる。
意識があるのが不思議だった。
リビング全体には、赤黒い雨がシャワーのように降り注いだ。
これを浴びた蒼い肉片たちが歓喜の声をあげ、血を吸い、蠢き、貪る。
そして。
翔太を殺し終わると、デルは無表情のまま槍を引き抜いた。
そして石突をトンと床に突く。
その槍の柄にも蒼の肉片たちの手が群がる。
この時のデルピュウネーの目──
爬虫類のような瞳孔は何も語らない。
怒りも、悲しみも、迷いもなかった。
(デル……まさかお前は敵だったのか……?)
裏切られた理不尽さに、頭が真っ白になった。
床の肉片は歓喜に震え、内臓が零れ落ち、頭は割れ、視界が揺らぐ。
痛みではなく、吐き気、不快感、圧倒的な苦しみが翔太を襲う。
それでも、生きている。
もしかしてこれは夢の続きなのか? また悪夢の中にいるのか?
絶望。
だがそれはなぜか奇妙な安堵と同居している。
そしてついに肉体が左右に分かたれる始める。ゆっくり、ゆっくりと。
その時だった――。
バサッ!
背骨の奥で何かが“膨張”した。
瞬きのあいだに、それは背中を突き破り――黒に近い灰の羽が咲いた。
羽ばたきのたび、世界が一瞬だけ音を失う。
死の向こうで、生が息を吹き返した。
そこから信じられない光景を、“死んだはずの翔太”は目にする。
血が壁や床から逆流して体に入ってきているのだ。
細かな肉片も同様だった。
そして肉体の裂け目に痛いほどの熱が走り、肉が焼けつくような匂いを漂わせながら。
閉じていく。
割れた肉体が。頭蓋が。
骨が軋み、内臓が自分の位置を思い出すみたいに戻っていっている。
死は拒絶された。
翔太の背中から生えた羽根が、空を滑るように大きく広がり、翔太の体を背後からハグするかのように包み込んだ。
(あたたかい……)
次に翔太の周囲に、まばゆい金の光がにじんだ。
それは、この部屋には似つかわしくない“太陽の輝き”だった。
さらに周囲には、エジプトの古代文字・ヒエログリフが無数に浮かび上がった。
それらが帯を形成し、翔太の周りをくるくると巡り始めた。
デルの瞳も、蒼の冷たい視線も――何事もなかったかのように静かだ。
そして――。
「「「パリンッ!」」」
光が弾けたのが合図だったかのように、あの羽根も消え去っていく。
突然、体が自由になり、翔太は崩れ落ちて膝をつき、肩で息をした。
──生き残った。
だが。想像を絶する痛みがある。
呻く翔太。そこへ蒼が近づく。
膝を折って目線を合わせてきた。
その瞬間、翔太の体温が一段、下がった気がした。
理由も理屈もない。
獣が天敵を見るような原始的な恐怖。
目が合っただけで心臓が“捕食された”ように錯覚する。
「痛むか?」
そりゃあ痛い。痛いに決まっている。
だが声が出ない。
死を体験した直後の衝撃。動揺。激痛。
これらが翔太の言葉を封じている。
「痛むか?」
もう一度問われ、翔太は震える声ながらに力いっぱい、吐き捨てた。
「この、……野郎……!」
だが蒼は落ち着いたものだ。
その言葉を敵意ではなく「痛みがない」と受け取ったようだった。
「そうか。やはり君にとって、単なる“死”は無意味なのだな」
そう言ってから蒼は冷静に翔太の右手を掴む。
その甲には、アザのような「666」の刻印が。
次に左手には――例のヒエログリフが光っていた。
「右に“獣の刻印”……左に“太陽の聖印”。ふむ。やはり、君の中ではその二つが同居している。“二重権能”。これが君が自分の秘密を知るきっかけとなる」
「きっかけ……?」
「だが、これほどまでに早く”獣”がラーを侵蝕していたとは予想外だった」
意味が分からない。
何をされたのか、なぜこんな目に遭うのか、遭わせるのか、皆目検討がつかない。
ゆえに怒りが湧き出す。
自然な反応。
痛みが強いだけに翔太の脳内は興奮物質で爆発寸前だった。
(何を言ってやがる……!)
翔太は拳に力を込めてみる。
動く。
握れる。
ならば。
殴らなければならない。
この拳で。
だが脳とは違い、本能は怯えていた。
蒼の気配に触れているだけで皮膚が粟立ってしまっている。
この男は“人間の距離”でいてはいけない。近すぎる。怖い――。
その両方が脳内で狂気を形成していく。
そんな翔太の混乱の真っ只中。
蒼は突然、翔太の頬に、じわりっと舌を這わせた。
「な……!」
驚きの連続だった。
想定外からの接触。
至近距離にあるのに、焦点が合わない。
まるで“人の顔をした何か”を見ているよう。
それなのに冷たい唾液の温度だけがはっきり分かる。
その冷たい唾液が線を描きながら蒼の舌が離れ、なめられた軌跡がじわじわと光を帯び始める。
やがて肌の下から“異形の魔法陣”が浮かび上がった。
魔法陣のようなもの──
ソロモン72の魔王の一柱――ブエルの印章だ。
ブエル。コラン・ド・プランシーによる書籍『地獄の辞典』に書かれてある魔王だ。「星か車輪のような五本の脚を持ち、自ら転がりつつ前進する」と紹介され、挿絵ではライオンの頭の周りに5本の蹄がついたヤギの後ろ脚が円状についた異形の姿で描かれている。
第二階級の魔神で地獄の議長。「病人の回復を得意とする」とも記されてある。
そのブエルの権能を蒼は我が物のように使用した。
「ブエル……」
蒼からその名が呼ばれた瞬間、翔太の体の奥底で病を癒やすような安堵が芽生えた。
ただの安堵ではない。
抗いがたい支配の快楽。
翔太の脳から熱が抜ける。
喉を締めつけていた鉛の手がほどけ、代わりに甘い痺れが脳に広がる……そんな感覚。
(ああ……気持ち……いい……)
このまま眠りたい。
眠ってしまいたい。
眠りたいが……。
拳を握る。
初志貫徹。
暴力は好きではない。
むしろ嫌いだ。
だがその“暴力性”が、“暴力性”を持って翔太の体を強引に動かす。
翔太はヨロヨロと立ち上がった。
蒼を睨みつけた。
まだ腰を下ろしたままの蒼は何食わぬ顔で翔太を見上げている。
この距離ならばかわされることはない。
翔太だって、小学生の頃の翔太じゃない。
もう、いじめられていたのは過去の話だ。
転校先でも鍛錬を積んできた。
もう、“強さ”には、かなりの自信がある。
666?
太陽神ラー?
二重権能
そんなの知らない。
知りたくもない。
吐き出す場所を探していた怒りが、ようやく形を得た。
「殴る」しか知らない、“子ども”が、高一になった翔太に蘇る。
今、これだけは、ぶつけなきゃならない。
“怒り”を──
拳を──!
「うおおおっ!」
空気が裂け、破擦音が鳴り。
全てを込めた拳が――確かに届いた。
いや。
だが、それはさらなる“不可思議”の幕開けだった。
そして翔太は知ることになる。
彼が魔王ベレスの術中で、ただただ、あがいているに過ぎないことを。
この悪魔が言う「君の秘密」とやらの真相を──




