第126話 東洋のルシファー
第126話
──妖霊星。
それは天下が乱れる時に現れるとされる凶星だ。
『太平記』によれば、鎌倉幕府最後の執権・北条高時の前に天狗が現れ、「天王寺の妖霊星が見たい」と嘲るように囃したと記されている。これは天王寺辺りから動乱が起き、結果、鎌倉幕府が滅亡することを暗示しており、実際に鎌倉幕府は滅亡した。
なぜ「天狗」だったのか。
その答えは、そもそもの天狗のルーツにある。
「天狗」の言葉が初めて記録上に登場するのは七世紀・中国である。隕石が大気圏に突入する際の衝撃音が犬の吠える声に聞こえたことから「天の狗」。すなわち「天狗」と名付けられた。
これが修験道と結びつく。山で修行する修験者のうち、闇落ちしてしまった者が「天狗」になるとされた。この「天狗」こそが「凶星」である「妖霊星」と同一視される動きが起きた。苦行を行ったにもかかわらず、自らの呪われた宿命を覆せず、「魔」に堕ちた姿も同様、「大天狗」「妖霊星」となったとされる。
この「聖」だった者が「魔」へ堕ちた姿として有名なのが、堕天使であり魔王であるルシファーだ。ルシファーは、「明けの明星」を指すラテン語で、その逸話の類似性からも、天狗・妖霊星は、東洋における=東洋のルシファーとも言える。「大天狗」へと堕ちた崇徳上皇が呼んだものこそ、「妖霊星」であり、「妖霊星」は、崇徳上皇の怨念の化身でもある。
その、世を動乱させるとされる存在=妖霊星が、「大天狗」の姿となって、この地に降り立った。
その「大天狗」から繰り出された大剣。
浅田はなんと、それを受け止めた。
いや、顔面を割る寸前で、何かによってその動きを止めてしまった。
大天狗の顔が怒りでさらに赤く染まる。
そしてこの浅田の能力の異様さに気づいた者がいる。
美優だ。
吹き飛ばされたものの、幸いにも美優も翔太も瑚桃も、かすり傷程度で済んだ。
そして、デルとシャパリュがいる方へ、すでに皆、戻って来ている。
その美優の顔が、真っ青になっていた。
これに瑚桃が気づく。
「う、うみちゃんセンパイ、どうしたの……?」
美優は震えている。
翔太も瑚桃に続いた。
「美優、どうした?」
言葉にならない声を上げ、美優は浅田を指している。
大天狗──伝承上の妖霊星である存在に、人間が敵うわけがない。
だが、なぜか浅田は、その大天狗を前に、まったくの無傷でいる。
大天狗は次々と大剣を繰り出している。
なのに浅田は倒れない。
よくよく見れば、その大剣は浅田からほんの数ミリ先で、止められている。
さらには、その周囲へ近寄ってこようとする妖怪たちも、なぜかそこから弾き飛ばされている。
それは確かに、翔太にとっても異常な光景に思える。
とても自分たちが割り込めそうもない、激しい戦いが繰り広げられてはいる。
「確かに、あの人とあの巨大な天狗とが拮抗しているのはすごいとは思うけど」
と、翔太は言う。
「だけど、美優は何をそんなに怯えているんだ……?」
「えっ!?」
──信じられない、といった表情で翔太を見た。
美優にしては、珍しく声が震えている。
「しょ、翔太くんには、見えないの!?」
「え?」
次は翔太の番だ。
「え……美優には何か、見えているのか……?」
美優は震えながら、コクリと頷いた。
(見えないんだ、あれが……。翔太くんにすら)
美優には見えている。
浅田の本来の姿が。
それはまるでこの世の者ではない化け物のようだった。
美優の目にはこう見えている。
浅田の背後。そこには、闇が浮かんでいる。
いや、闇というには不条理なものだった。
――空間そのものが、抜け落ちている。
それを見る視線そのものが吸い込まれそうになるほどの、混沌そのもののような穴──
問題なのは、そこから這い出しているものだった。
それは、女の手に見える。
だが違う。白すぎる。
血が通っていない白だ。
皮膚の下に、血管の青が一本もない。
しかも、一本ではない。
無数。
千手観音を模したかのように。
──いや、それも違う。
千手観音みたいに整然としていない。
無秩序だ。
無秩序に、正体不明の白い手が浅田の背後から湧いて出ている。
肘が逆に曲がっている。
指の数が合っていない。
その大量の白い手が、大天狗の大剣を受け止めている。
大天狗を攻撃している。
大天狗にまとわりついて、関節を探っている。
折るため──弱い部分を見つけようとしている。
美優の目から見れば、その浅田こそが化け物だった。
(翔太くんにも見えていないとすれば、これも『マグス』の力……?)
ユダヤ教以前、ペルシアの神官は、聖書で『マグス』と呼ばれる。
一神教であるにもかかわらず、『マグス』は排斥されなかった。
寧ろ、ユダヤ教、キリスト教においても、一種の“神秘”として後世に伝えられた。
──その力が、美優に見せている。
まるで心霊現象のような、浅田の、おぞましい姿を。
美優が、悪魔や怪物といった類のものを恐れることはない。
──でもなぜか、心霊現象だけは、どうしても苦手だ。幽霊が怖い。
あれは幽霊ではない。
だが、美優にはそうとしか見えない。
ゆえに怯えている。
浅田の戦闘モードに入った、あの千手観音のようなあの白い手の群れに──
パッと見、浅田は手をポケットに入れ、突っ立っているだけに見える。
だがその実、背後の闇から生えているおびただしい数の白い女の腕が、大天狗の攻撃を弾き、大天狗にダメージを与え、近寄ってくる妖怪たちをも薙ぎ払っている。
やがて、大天狗の顔色も変わり始めた。
どう大剣を振るっても、この男の寸前で止まり、決して当たらないからだ。
この大天狗をしても、その白い女の手は見えていない。
ゆえに、なぜ攻撃が当たらないのか。なぜ自分がダメージを受けているのか。分からないのだ。
浅田が最強と呼ばれる所以だった。
しかも、八雲班の班長である八雲在斗が最も可愛がっている部下でもある。
だが美優には、あの浅田こそが、化け物であり、恐ろしい悪霊のように見えていた。
その震える美優の肩に、そっと前脚を乗せながらシャパリュが言った。
「美優、君にも見えるのかい? あの闇から生えてくる、おぞましい白い手が」
美優は震えながら頷く。
「白い手?」
翔太が反応する。
「それは何の……?」
「翔太には見えない?」
「俺には……その、白い手ってやつは、見えない……」
「なるほど。あれが見えているのがこの場で美優と僕だけか、だとすると、ある仮説が成り立つ」
シャパリュは声を低くする。
「あれは、呪いの一種じゃないかな……。しかも『聖』だった力が、『闇』へ堕ちたタイプの。だから、美優には見える。美優が持つ『マグス』の力は、その『聖』の部分を捉えるからだ」
「つまり、神の力が宿る目なら……?」
「いや。正確には、神ではなく、神の力だ。これを、僕たちは『第一の理』と言う」
「『第一の理』……」
「そう。『第一の理』とは、神の力。『第二の理』とは、幽世の力」
「じゃあ『第三の理』ってのは……」
「それ以外の力だよ。だが今は、神の力である『第一の理』に焦点を絞って考えていた方がいい」
シャパリュの表情からは珍しく笑顔が消えていた。
「僕の場合は『呪い』の方で見えている。だからあれが、『第一の理』というのは、あくまでも予測。美優が見えている、その事実に基づいた、ね」
「ということは、デルにも見えてない……?」
これに、デルが槍をぎゅっと強く握りしめて答える。
その表情は険しい。
「はい。わたくしには見えておりません。わたくしは、あくまで『第二の理』の力を持つ存在。ゆえに、見えておりません。それに、シャパリュさまの仮説が正解であった場合……あの人間が、なぜ『第一の理』の力を使えるのか──それも、まるで予想がつきません」
「だから、あの大天狗にも、あの人間が出している白い手の群れは見えてないということになる」
シャパリュのいつもの軽口が、今は見る影もない。
「しかし、おっかない技を使うヤツだ。あれは初見ではとても対応できる代物ではないよ。僕のように、見えてしまえばどうってことないけど……あんな人間が、この世に存在している。しかも、国際魔術会議に所属している。やはり、得体の知れない組織だよ……」
そこで、シャパリュが「あ……!」と驚きの声を漏らした。
皆が、シャパリュに注目する。
「前言撤回! この場で、あれが見えるのは僕と美優だけじゃない!」
「……え?」
「もう少し、この場を離れて! 様子がおかしい!」
翔太は、後ずさりながらシャパリュの視線の先を見る。
そこにあったのは──
葉山ひまり。
体長二十メートルにも及ぶ巨大な牛鬼の背の上。
その上に立つ巫女姿の葉山ひまりが、こちらの方を見ている。
いや、あの方角は。
「──あのエージェント?」
ひまりが、浅田を凝視していたのだ。
その目から感じられる怒り、憎しみ、憎悪。
あの大人しい、どちらかと言えば弱気なひまりの顔がいまや、鬼神のような表情になっていた。
これに呼応するように。
大天狗=妖霊星と浅田の力の均衡が崩れ始めた。
気づけば、大天狗の輪郭が“膨れて”いた。
筋肉が張るのではない。骨格ごと、外へ押し出されていく。
皮膚の下で、何かが移動している。
臓が――位置を変えているみたいに。
筋骨隆々だったその姿が、少しずつ球状に近づいている。
浅田はその見えない何百本の腕で、大天狗に拳を叩き込み、肉体をひねり、締め上げていた。
だが大天狗は、
『ウオオオオオオオ!』
と、体中の気を発し、浅田の見えない手を一度、まとめて弾き飛ばす。
浅田の背後の穴が一瞬、たわむほどの威力で。
そしてその瞬間。
大天狗は、その肉体を丸めた。
大剣が、落ちた。
叩きつけられた衝撃で、路面が割れる。
「あ、あれは?」
「ダメだ! 翔太、一度下がれ!」
大天狗はそのまま体を丸める。
うずくまった。
手足が、内側へ引きずり込まれる。
肘も膝も、折りたたまれるというより――収納されていく。
関節の角度が、あり得ない。
骨の鳴る音が、雨みたいに降る。
そして、かつて筋骨隆々だったあの大天狗は、
ほぼ完全な球の形になった。
直径十メートルほど。
皮膚の継ぎ目が消え、顔も羽も――どこにもない。
──妖霊星。
それが。
グラグラと揺れたかと思うと。
消えた。
一瞬のうちに。
そこにいる全員の目の前から。
違う。
消えたのではない。
いなくなったのだ。
正確には、動いた。
目が追えないスピードで。
置き去りにされたのは、こっちの視界だ。
星が。
流星に。
妖霊星に──!
大天狗がついに、“本来の姿”に戻った。
「皆様、伏せてください!!」
危険を察知したデルピュネーが翔太や美優、瑚桃らの上から覆い被さった。
デルの声が、珍しく荒れていた。
そのデルの背を、轟音と灼熱が襲った。
それが通り過ぎる。
「うっ……!」
そのあまりの熱さに、デルピュネーをしても苦悶の表情を浮かべる。
衝撃波が胸を押し潰し、肺の空気が抜けた。
それは、デルの背の上を通過し、その後、半秒としないうちに戻ってきた。
そして気づけば、この交差点周辺を、規則性なく、飛び始めた。
直線で来ない。
角度が狂っている。
一撃。空へ。
二撃。路面へ。
三撃。横へ。
直線で来ない。
角度が――人の反射を嘲笑う角度だ。
曲がるたびに、空気が裂けた。
その裂け目で、大気も溶解するほどの高熱を放ちながら。
「ああん……?」
浅田がその光景をぼんやりと眺める。
翔太らも立ち上がって、その軌跡を見る。
逃げ道を塞ぐみたいに、先回りして来る。
追っているんじゃない。追い込んでいる。
浅田をしても、手が出せない。
その姿は、まさしく流星。
空から交差点へ。急転直下したかと思うと、周囲の建物を破壊しながら、またどこかへ。
空間に、熱の線が引かれた。
妖怪たちがいようがお構いなし。
すべてを滅ぼしながら、
次の瞬間には、また空を猛スピードで行き交い、再び交差点へ。
道路に沿って走ったかと思えば、次の瞬間にはまた空へ。
やがてその熱で、交差点周囲の建築物は燃え始める。
路上で戦っていた妖怪たちや、エージェントもその多くが炎に呑み込まれた。
人の髪や肉が焦げる嫌な匂いが立ち込める。
誰かの悲鳴が──途中で途切れた。
この光景に、シャパリュも呆然とする。
「これも崇徳上皇の力なのか……」
それはどこか崇拝にも近い声色を帯びていた。
浅田の何百本もの見えない手。
だが、ここまで高速で動き回られれば、文字通り“手が出せない”。
この街を飛び交う流星に、
妖霊星に、
追突されたらそれで一巻の終わりだ。
浅田は防御へと移行した。
その見えない手を、まるで自分の体を包み込むようにして自分をその球体の中に入れる。
だが、その浅田の見えない手で作った球体の盾も、妖霊星の破壊力で削り取られる。
見えない白い手が削られ、一瞬で飛び、次々と消えていく。
空気が白く曇り、湯気みたいなものが噴いた。
浅田はさらに手の数を増やす。
(あれは、無限に出せるのか──?)
驚いているシャパリュの目の前で、浅田は何重にも白い手を重ね、球状の盾となる。
先に焼けたのは、看板だった。
次に電線。
この一角は基本は商店が多い。
民家は少ないが、ゼロではない。
ただでさえ、妖怪どもが集まっていた交差点。
だが、この妖霊星によって、さらに多くの被害が出ていることは明白だった。
浅田も防御しかできていない。
だが、冷静だった。
ならば。
(元を断てばいいのかなあ……)
そう思い、葉山ひまりの方を見る。
ところが、その浅田に初めてほんの少しの焦りが見えた。
なぜなら。
消えていた。
牛鬼も、葉山ひまりも。
いつの間にか。
その場から。
忽然と。
この浅田のわずかな焦りを見逃す妖霊星ではなかった。
ズシン!!!
真正面から。
見えない白い手で幾重にも覆ったその強固な球状の盾をモロに。
妖霊星が捉えた。
途端に、まるで地震が起こったかのように大地が震える。
「う……あっ!」
後は見るまでもなかった。
いや、見えなかったと言ってもいい。
白い手の球が、潰れるみたいに歪み――次の瞬間、空にいた。
浅田と、その球形の盾は、
ゴム毬みたいに跳ね上がり、天高く放り投げられていた。




