第11話 コーリュキオンの番人
第11話
デルピュネーと名乗るそのメイド服の少女。
優しい表情とは裏腹に、目にはどこか大人びた影が差していた。
その声もまた、柔らかいのに抑揚がなく、まるで夢の底で響いているようだ。
芽瑠は皿の上のクッキーを掻き込み、両手にいっぱい抱えて、L字型になったソファーの翔太の斜め前に座った。
「美味しいの、美味しいの♪」
芽瑠は、幸せそうな顔でクッキーを貪っている。
翔太はどこまで夢か分からない。今、この瞬間もまた、夢の中ではないかと疑う。
まるで空虚の輪郭をなでるかのようなその数秒……おそらく、もっと短かった。
その間、まるで心が妙に濁っているように感じられる。
そして、ようやく言葉を発せられた。
「デル……と、言ったっけ」
「はい、デルでございます」
「お前は……、一体、何者なんだ……?」
デルと名乗るその少女は微笑んだ。
「デルは、デルでございますよ。翔太さま。わたくしは、あなたの番人です」
「番人……?」
「はい。翔太様の番人になるために、この家まで訪れたのですよ」
その声は甘やかで、どこか“音”ではなく“空気の波”として脳に直接響いた。
ゆるやかな風に銀の髪が揺れるたび、光が七色に割れた。
その髪はまるで夜明け前の霜のようで、どこかこの世界の重力から浮いている。
肌は陶磁のように白く、瞳の奥には深いエメラルドの光が宿っていた。
けれど、その輝きの中心──瞳孔が、爬虫のように縦に細く収縮しているのを見て、翔太の心臓が一瞬止まる。
その時だった。
翔太の視界がにわかに歪み、
デルの姿が“別の何か”へと変わった。
腰とお尻の付け根に巨大なコウモリのような羽。
威嚇するように空気を裂き、稲光のように光を弾く透明なウロコ。
頭部の角は夜の王冠のように輝き、尾の先では地獄の炎が泣いていた。
デルピュネー。──ギリシア神話に登場する怪物である。
苑崎透氏による書籍『幻獣ドラゴン』によれば、混沌より生まれた原初神である大地母神・ガイアが、自身の孫にあたるゼウスの反逆への怒りから生まれた怪物・テュポーン、その怪物がゼウスを倒し、奪った手足の腱を隠した洞窟・コーリュキオンで番人を務めたのが彼女だ。
上半身は人間の女性だが下半身はドラゴン。だがその後、復活したゼウスにより退治され、その生命は絶えた。
……とされている。この話を翔太が知るのはもっと後のことだ。
翔太は思わず目をこすった。見ると再び、メイド服に身を包んだ銀髪の少女の姿がある。
(見間違いか……)
疲れているのだ。夢か現実か判断がつかない。
そこへドアが軋む音がした。
入ってきたのは──黒。
「ベレスさま……」
デルがその青年をそう呼んだ。
翔太の身長は173cmほど。それよりも10cmほど高い。
痩せ型、長い手足、黒いスーツ、黒くやや長い前髪、そしてぞっとするほどの美しい切れ長の目……。
「ベレス……?」
翔太は聞き慣れないこの名を復唱してしまう。
そしてその時、見てしまう。
彼の立つ床の影が、光の向きとは逆に長く伸びていることを……!
光が逃げる。空気がひきつる。
時計の音が止まった気がした。
世界の方が、彼の登場を拒んでいる。
その黒尽くめの青年はデルピュネーの近くまで歩み寄ると「その名はここではそぐわない。まだ彼は混乱の域を出ていない」とデルピュネーを制した。
そして改めて翔太に向き直る。
「成宮蒼だ。出来れば僕のことはそう呼んでほしい」
青年は静かな声で言って握手を求めてきた。
正直、ゾッとした。言葉が脳に直接刻まれるような、物理感覚を超えた“感触”……。
翔太の背骨が冷たく鳴った。
間違いない。
この青年もこの世の者ではない。
その声は氷のように冷たく、耳から脳髄にじわりと染み込むようだった。
世界の輪郭がわずかに歪む。家具の縁が液状に揺らめき、時計の針の音がひときわ大きくなる。
つまり、おそらくは……。
(あ、悪魔……?)
もちろん、翔太に確信があったわけではない。だが間違いなくそうだと、”本能”が訴えかけてくる。
芽瑠はまだ美味しそうにクッキーをかじっている。その姿で気持ちを落ち着け、翔太も自らの名を名乗った。落ち着け。慌てたら、子供の頃の二の舞いだ……。
「北藤…翔太、北藤翔太といいます」
「うん。そうだね。君のことはよく知っているよ、翔太くん」
蒼はこともなげに言った。
「え?」
その疑問を、蒼はスルーする。
次の瞬間、成宮蒼の輪郭が、目の焦点を合わせるたび微妙にズレて見えた。
思わず翔太は目をこすった。
ダメだ。なんだ、このあたたかさと冷たさが同居するような違和感は……!
その時、この青年は意外な言葉を放った。
「おや。君のガールフレンドはまだ目が覚めてないようだね」
「え……?」
「気づいてなかったのかい? よほど怖い想いをしていたんだな」
そこで、翔太はようやくもう一つの“存在“に気づいた。
座っている翔太の腰のあたり。何かが腰にふわりと当たっている。あたたかくて、弾力があって、ほんのり甘いシャンプーの香りがする。
(……な、なにこれ……)
「ん……ううん」
うめき声のような艷やかな声。
見下ろすと、美優が彼のすぐ横で寄り添うようにして眠っていた。
「うわわわわっ!」
ばね仕掛けのように跳ね上がる翔太。
つまり、翔太の腰に当たっていたのは、
美優のやわらかな胸のふくらみで……
この感触が何を意味するのか気づくのに数秒もいらなかった。
完全に翔太はパニック状態だ。
(な、な、なんだ。なんで美優もここに……!)
美優は静かに寝息を立てている。
その胸元が、そっと自分に触れていたのだと理解した瞬間、心臓が耳の奥で「ドクン」──「ドクン」と二度鳴り、全身に熱が逆流した。
(なんで、美優もここに! いや、なんで俺の家に! というか、大きかった……。D……いや、E……⁉ いや、そんなこと考えてる場合じゃないだろ俺!)
こんな異様な空気の中にいるのに、顔を真赤にして慌てる翔太。
その隣でデルがティーカップを傾け、無表情に一言こうつぶやいた。
「……人間とは、かくも単純な構造をしていらっしゃるとは……。このデルピュネー、勉強になります」
これに成宮蒼=ベレスが、コホンと咳払いをして句読点を打つ。
「恥じらうあまりに情欲をかきたてられるのは思春期的に非常に正常なことだが……」
翔太は赤面した顔を恥じるように蒼を見た。
「話をしよう。とても大切な話だ」
「大切な……話……?」
翔太の瞳を悪魔の冷たい切れ長の目が捉えた。
「それより、今の状況を俺は知りたいんですけど」
蒼はそれにも答えない。
「一体、何が起こっているんですか。あなたは何者なんですか? なんで、俺の家に、あなたが……、いや、美優までいるんですか?」
「……君が何を感じているか、いちいち説明するつもりはない。だが、一つだけ言える。君はもう戻れない」
……沈黙。
蒼の瞳が、何かを計算するように揺れた。
息をすることさえ、許されない空気だった。
「今から僕が話すのはね、今の君の状況、それにかかわる、大切な、大切な話だ」
悪魔と会話しているかもしれないという現実離れした状況。
翔太は冷気に襲われる。
寒い……。
実際、凍えるほどだ。
「ハッキリと言おう」
その瞬間、芽瑠のクッキーをかじる音さえ消えた気がした。
そして、成宮蒼と名乗る、この”異様”は、こう言い放つ。
淡々と。だが、語気を強くして。
その言葉が放たれる寸前、部屋の空気が硝子のように硬くなり、翔太は肺の奥で息が凍る音を聞いた気がした。
「僕は……、君の“秘密”を知っている──」




