第118話 がしゃどくろ
第118話
牛鬼──
それは、この地域の祭礼に登場する神獣だ。
本来、人を守る側の存在である。
江戸岡交差点に差し掛かった瞬間、高木英人はブレーキを踏み抜いた。
フロントガラスの向こうが、炎で揺れていたからだ。
信号機は点滅し、路面は黒く焦げ、燃える車輪の軌跡が交差点を走っている。
耳に飛び込んできたのは、悲鳴と、笑い声。
──輪入道だ。
高木は自分が乗ってきた車を、交差点手前の路肩に無理やり停めた。
ドアを開けた瞬間、熱気と血の匂いが一気に押し寄せる。
胸の奥が、焼けるように熱を持った。
ほぼ同時に、背後で別のエンジン音が重なった。
高木の車とは違う、低く締まった排気音だ。
南雲麻衣たち、遊撃隊四人の車。
急停車のタイヤが、くだけたアスファルトを噛み、赤いテールランプが揺れた。
彼らは迷いなく降り、武具を手に取る。
現場に来慣れた動きだった。
そして──交差点の中央。
そこに、“それ”はいた。
顔は牛とも鬼ともつかない異様な輪郭。
太いツノが突き出し、そこには紙垂が何枚も結ばれている。
風もないのに、白い紙がぴらぴらと揺れている。
まるで、呼吸しているみたいに。
ぐりぐりと見開かれた目。
耳の下まで裂けた口。
胴体は牛そのものだ。
真っ赤な神衣をまとい、尻尾は剣。
剣先が、妖しく光っている。
祭礼では、神輿の先導を務め、悪魔祓いをしながら街を練り歩く“神の獣”。
──それが、
今は。
ろくろ首や雷獣、山姥、百々目鬼。
無数の妖怪たちを従えるように、交差点に鎮座している。
首が動くたび、妖怪どもが波打つようにざわめいた。
“神”の側であるはずの存在が。
国際魔術会議のエージェントを、喰らっている。
(なぜ──?)
高木は、牛鬼を知っていた。
子どもの頃、お祭りで見た。
赤布、紙垂、巨大なツノ。
笑顔で写真を撮る大人たち。
あれは、“守る”側の顔だった。
なのに今、その赤が、人を噛みちぎっている。
「……なんだ、あの赤いでっかいの」
柄谷が、糸と楔を取り出しながら言った。
「あんな妖怪、見たことねぇ」
「牛鬼だ……」
高木は答えた。
「妖怪じゃない。この辺一帯に伝わる神獣だ。
なのに、なんで……人を殺してる……」
「瘴気が異常に濃いな」
蓮實が、周囲を一瞥する。
「『カスケード』の切れ目が、あちこちに空いてる。
神性が歪められてる可能性が高い」
「うわ……」
南雲麻衣は、思わず半歩下がった。
靴底が血でぬるりと滑る。
それを誤魔化すように前髪を払うが、視線は牛鬼から外れない。
「……すごい数」
交差点は、完全に百鬼夜行だった。
「ここまでの数との戦闘はアタシも初めて見た……」
「おい、高木といったな。その、牛鬼っての、何者なんだ?」
蓮實が高木を振り返った。
「……分からない」
「ああ?」
蓮實が眉間にしわを寄せる。
「いや。祭礼に登場する神獣という伝承しか残ってないんだ。悪魔を滅ぼし、敵を滅する。つまり“神”の側の妖獣。どちらかと言うと、妖怪よりも人間側の存在のはずなんだが」
「ケッ!」
蓮實は道路にツバを吐いた。
「どうのこうの言おうが現実は、こうだ。神の獣か何か知らねえが、あれはぶっ倒すしかねえな」
「高木、弱点とか伝わってねーのか?」
柄谷が聞く。
すでに糸を手にしており、楔をビュンビュンと振り回している。
「知らない……」
「あ?」
蓮實が凄む。だが。
「知らないものは知らないんだよ! あれは本当に謎の神獣なんだ。悪人でもない限り、人を襲ったりもしないし、誰も何故それがこの世に生まれたのか、記録に残ってない!」
「まいったな、蓮實さん。じゃあ、俺たち悪人ってわけですね」
柄谷がニヤっと笑った。
「まあ、確かに、善人とは言い難いが」
蓮實は苦笑いする。
「まー、分かんないもんはしょうがないですね。
とりあえず行きますか」
と、柄谷。
「ここはボーナスポイントですよ。
なにしろ、これまでの化け物退治、数の上では俺の方がリードしてますからね」
「はっ! 雑魚ばかり相手に何言ってやがる」
「でも賭けは賭けですよ。蓮實さん。俺が勝ったらちゃーんとご褒美はもらいますからね」
──賭け?
高木は、思わず二人の背中を見た。
数の上では俺の方がリードしている。
ご褒美。
賭け。
言葉が、遅れて噛み合う。
──倒した数で、張ってやがる……?
この状況で。
この地獄みたいな交差点で。
仲間が喰われ、街が燃え、神獣が人を殺している、その真っ只中で。
こいつらは──数を数えている。
「……賭けをしてやがる……」
声に出して、ようやく実感した。
こいつらは、頼もしい味方なんかじゃない。
少なくとも──高木の知っている“人間”ではなかった。
強い。
だが、それ以上に、どこか壊れている。
「騙るな、小僧!」
そう叫んで、蓮實が飛び出す。
「あ、ずるいですよ!」
遅れてすぐ、柄谷も着いていく。
「ひゃっほー!」
柄谷の奇声が上がる。
妖怪どもの群れの中へ、躊躇なく飛び込んでいく。
その背中に、恐怖はなかった。
次々と妖怪をその糸で裂き、楔で討ち滅ぼしていく。
八雲班のエージェントたちの中から声が上がった。
「遊撃隊が来た!」
「遅い! 何やってたんだ!」
「よし。これで、もう少しまともな戦いができる!」
一気に彼らの士気が高まったかに見えた。
それほど、頼りにされている存在なのだ。
「あーあ。まーた、喜んで飛び込んで行っちゃって」
麻衣が呆れたように言う。
そして高木へと視線を向けた。
「あれ? 高木クンは行かないの?」
高木は、そこに残っている浅田を見ていた。
浅田は、ただ空を見つめている。
戦場に背を向けたまま。
高木も、その視線を追った。
まるで波打っているかのような分厚い雲。
ところどころに稲光が走り、その閃光と轟音が、高木の目と鼓膜を打ってくる。
そして。
稲光に照らされ、はっきりと見える。
ひらめく錦の衣の裾。
「なんだ、あれは……」
浅田は何も言わない。
黙って、じっと、その光景に鋭い眼光を向けたままでいる。
「──雲の中に、何かいるのか……?」
高木は、その存在に本能的な恐怖を覚えた。
とんでもなく強い瘴気が、空から降り注いでいる。
それでも浅田は喋らない。
異様なオーラをまとったまま、空を睨み据えている。
「なになにー。どうしたの?」
麻衣が高木の側に近寄り、同じように空を見上げた。
雲は稲光をほとばしらせ、
錦の裾は、ひらめいては隠れ、
隠れては、またひらめいた。
◆ ◆ ◆
「がしゃどくろだ! がしゃどくろが出たぞー!!」
その叫びは警告ではなかった。
恐怖に押し潰され、喉の奥からこぼれ落ちた悲鳴だった。
江戸岡交差点の北。
星見山を貫く星見トンネルを抜けた先、緩やかな下り坂。
夜の静けさを、異音が踏み潰す。
ガチ。
ガチ。
ガチガチガチガチ……
舗装された道路の端。
林の闇を割るように、巨大な影が這い出してくる。
小さな丘ほどの大きさ。
人間の骨格をそのまま引き延ばしたような姿。
頭、胴、四肢――形そのものは人だ。
だが関節の位置や比率がどこか歪み、巨大すぎる骨が不自然な角度で噛み合っている。
生き物として成立していない、狂った人体模型。
がしゃどくろ。
戦死者。
野垂れ死にした旅人。
飢え、病、見捨てられ、弔われなかった死者たち。
その骸と怨念が積み重なり、妖怪へと変じた存在だ。
巨大な頭蓋骨が持ち上がるたび、ズシンと地面が軋み、
アスファルトに細かな亀裂が走る。
骨と骨が擦れ合う音が、耳の奥を直接引っ掻いてくる。
「でかい……!」
「冗談だろ……こんなの、どう相手すりゃいいんだ!」
がしゃどくろの眼孔は空洞だ。
だが、確かにこちらを見ている。
見られている、という感覚だけが、皮膚の内側を撫でた。
エージェントたちの背筋を、冷たいものがなぞった。
「いいから攻撃しろ! ……念弾!!」
叫びに押されるように、複数の念弾が放たれる。
見えない圧が、空気を歪ませながら飛ぶ。
しかし。
念弾は、巨大な骸骨の肋骨の隙間をすり抜け、
脊椎の間を抜け、
肩関節の空間を通り抜けて、虚空へと消えた。
的は、でかい。
だが、当たらない。
いや――当たっているものも、ある。
骨に直撃した念弾は、鈍い音を立てて弾かれ、
表面を削るだけで威力を殺される。
硬すぎる。
怨念で焼き固められた石の塊を撃っているようだった。
「くそっ……!」
一人のエージェントが歯を食いしばり、狙いを定め直す。
今度は、がしゃどくろの頭部。
念弾が直撃した。
バンッ!
鈍い破裂音。
頭蓋骨の側面に、小さな穴が穿たれる。
当たった。
確かに、当たった。
──だが、それだけだった。
穴の周囲に走る亀裂は、すぐに止まり、
骨は何事もなかったかのように形を保つ。
次の瞬間。
がしゃどくろの首が、ぎこちなく、だが確実にこちらへ向いた。
「……え?」
空気が張りつめる。
一瞬だった。
骸骨の腕が、信じられない速度で伸びた。
筋肉のない、骨だけの構造とは思えぬ加速。
空気を叩き割る音が鋭く耳に届く。
がしっ。
念弾を撃ったエージェントの胴体が、骨の指に絡め取られた。
「や、やめろ! 助けてくれ!!」
だが、その抵抗は意味をなさない。
そのまま、巨大な口元へ引き寄せられる。
異様なほど整った歯列。
白く、無機質で、揃いすぎた歯が、迫ってくる。
「やめてくれえええええええええええ!!」
しかし、その時だった。
その絶叫を、断ち切るように。
シュッ。
乾いた音が走った。
次の瞬間、班員を鷲掴みにしていたがしゃどくろの腕が、不自然な角度で引き戻された。
当然、獲物を失った歯が空を噛み、ガチンと激しく鳴り合う。
「……な?」
誰もが、何が起こったのか理解できなかった。
だが、次の瞬間には分かる。
骸骨の手の甲。
骨と骨の継ぎ目。
そこに、楔が打ち込まれている。
寸分の狂いもなく──
「か、柄谷さん……!」
柄谷だった。
柄谷が到着したのだ。
糸を握り、楔を撃ち込み、そのまま引く。
ただ、それだけ。
それだけで、がしゃどくろの攻撃は止まっている。
「おーおー。でけえな。……いいねー」
柄谷は、楽しそうに笑っていた。
戦場を前にした高揚を、隠そうともしない。
「離れろ。次、噛まれたら死ぬぞ?」
助言は軽い。
だが、その声には一切の焦りがない。
そして。
柄谷は、糸を引く。
ミシ、と嫌な音がして、骨が抜けた。
砕けたのではない。
壊れたのでもない。
存在を拒絶されたかのように、骨がスポンと外れる。
掴まれていたエージェントの体が、急に自由になった。
「う、わっ──!」
どさり。
道路に投げ出され、転がる。
アスファルトに顔を打ち、血を吐きながらも、確かに生きている。
「生きてるぞ!」
「回収しろ!」
その背後で。
柄谷の手元から、複数の楔付きの糸が放たれた。
肋骨。
肩甲骨。
鎖骨。
脊柱。
仙骨。
坐骨。
大腿骨。
踵骨。
人体を構成する要所すべてに、正確無比に打ち込まれていく。
「いやあ……これ、解体すんの楽しいな」
柄谷は笑う。
「剥き出しだもんなー。いいねえ、バラす順番が分かりやすくて」
完全に、遊んでいる。
「よいしょっと」
軽い一言。
それだけで。
がしゃどくろの巨体が、均衡を失った。
ガシャンッ!!
道路が揺れ、アスファルトが砕ける。
巨体が地面に叩き伏せられ、土煙が舞い上がる。
頭蓋骨が激しく震え、
骨と骨が噛み合い、
凄まじい音を立てる。
ガチガチガチガチガチガチ。
ガチガチガチガチガチガチ。
怨念か、怒りか。
骨だけの体が、必死に形を保とうとする。
「うるせーな……まだ動く気かよ」
柄谷は、愉快そうに舌打ちした。
糸を引き、絡め、縛る。
そしてあの、がしゃどくろが。
関節が外れ、
骨が引き抜かれ、
次々と分解されていく。
やがて。
肋骨も。
腕も。
背骨も。
脚も。
指も。
次々とバラバラにされ、
束ねられた巨大な薪のように道路へ転がっていった。
それでも、頭蓋骨だけはまだ震え続けている。
空洞なはずの眼窩から、強い恨みの念がこもった視線を柄谷へと向けている。
「じゃ、仕上げだ」
だが柄谷は恐れない。
そう言い、ふっ、と、楔を放った。
当たったのは眉間。
乾いた衝撃音。
頭蓋骨が砕け、
楔はそのまま勢いが死なずに、背骨の内側まで貫いていく。
がしゃどくろは、顎が外れんばかりに口を開いた。
声にならない怨嗟が、空気を震わせる。
そのあまりにも恐ろしい声に、班員全員が耳を押さえた。
だが柄谷は平気だ。
「これで、しまい」
そう言うと、柄谷はがしゃどくろに背を向けた。
そして。
糸を引く。
まるで背負投げだ。
縛り上げられた骨の束の奥から、ずるりと、何かが引き抜かれていく。
背骨だった。
一本の柱のように連なった椎骨が、糸に引かれ、抵抗するようにきしみながら抜け出てくる。
その先端には、がしゃどくろの巨大な頭蓋骨。
歯を剥き出しにしたまま。
空洞の眼窩を闇に向けたまま。
引き抜かれたそれは、夜空へと放り出される。
背骨が鞭のようにしなり、頭蓋骨が振り子のように揺れる。
月明かりを受けて白い骨が鈍く光り、揺れるたびに、空気を裂く低い唸りが生まれた。
次の瞬間。
柄谷の手が、糸を強く引き落とす。
「ほいっ、と」
つられて頭蓋骨が、とてつもない勢いで、地面へと叩きつけられた。
ガシャァァァアンッ!!!
鈍重な衝撃音が、腹の底に直接響く。
アスファルトが悲鳴を上げ、放射状に亀裂が走った。
続けざまに、骨が砕ける音。
歯が跳ねた。
欠片が飛び散った。
白い骨屑が路面に雨のように降り注いだ。
やがて、
──すべてが止まる。
そこに残ったのは、砕け散った骨の山と、
夜の冷たい空気だけだった。
がしゃどくろは、完全に沈黙した──
「がしゃどくろ」
歌川国芳の浮世絵。実際にはがしゃどくろではないが、この姿ががしゃどくろとして世間では定着している。




