第116話 謎の女
第116話
生き地獄だった。
そこだけ、死の釜の底が抜けていた。
すでに事切れている前田は、かっ開いているその目玉を裂かれ、中身をちゅうちゅうと餓鬼どもに吸われている。
残酷なことに、椿にはまだ意識があった。
意識はあるまま、腹を引き裂かれ、内臓を弄ばれ、骨までしゃぶられている。
──やめろ……
高木英人の脚が、魂ごとすくみ上がる。
大口を開けた「恐怖」という感情に、戦意が呑み込まれつつある。
やめろ。やめろ。やめろ。
やめろ。やめろ。やめろ。
やめろ。やめろ。やめろ。
心だけが虚しく叫ぶ。
生きたまま食われる椿に、助かる見込みはもうない。
それでも椿は、目だけで高木に助けを乞うている。
──やめさせて。
そう言っているみたいな瞳だった。
だが、すべてが手遅れだ。
小豆洗いに首を吊り下げられているせいで、首から上だけが、きれいに残っていた。
だが、その下は──
群れる餓鬼の体に覆われて、下がどうなっているのか判別もつかない。
歯を立てられるたびに、ビクンビクンと体を震わせる。
噴き上がる血と白い骨が時おり、見える。
椿が魔術で燃やした餓鬼たちの死骸。
その火が、皮肉にも、椿を下から照らしていた。
赤い光の中で、椿の顔だけが妙に白い。
小豆洗いがこちらを見た。
それから、「ひっひっひ」と笑った。
お前にできることはもうないであろう、そう嘲るように。
確かに。
高木の棍は、見上げ入道に通じなかった。
餓鬼どもも、一人でどうにかできるような数ではなかった。
だが。
──もし、俺が、大熊さんだったら。
諦めない。
なんとしてでも活路を開く。
高木の目に再び生気が宿る。
河原に転がっている武具の棍を拾う。
背後に見上げ入道がいることすら、頭から飛んでいた。
見上げ入道に背を向け、椿を助けようと、土を蹴る。
「うおおおおおおおおお!!」
もう手遅れだと心では分かっていた。
それでも割り切れなかった。
椿を貪り食う餓鬼どもを駆逐せねば。
それに、椿の瞳はこう語っている。
──こんなみっともない姿、さらし続けたくない……と。
だから、棍を振るう。
赤のライン。
破壊力特化の魔術。
見上げ入道には通用しなかった。
だが餓鬼たちは、殴った端から破裂した。
高木の攻撃が、魔術が、普段通りに機能する。
それでも。
何匹、その頭をかち割ろうが。
椿から引き離そうが。
餓鬼たちは、数の暴力で椿へと群がっていく。
まるで夜の闇そのものがその餓鬼どもを産んでいるかのようだ。
限りなく現れる。
際限がない。
次々に現れ、椿の体に取り付く。
よじ上ってくる。
またたく間に高木の顔も体も真っ赤に染まっていった。
餓鬼たちの返り血だ。
それと、椿の肉体のあらゆる場所から噴き出す血の見分けもつかない。
それほどの血飛沫がこの河原を支配した。
だがそこに、いつもの高木の冷静さは、ない。
後先考えず、ただただ本能が「椿を救いたい」と叫んでいる。
もう救えない。
いつ背後から、見上げ入道が襲ってくるか分からない。
そんな簡単なことさえ、分からなくなってしまっていた。
「豆腐いりませんか? 紅葉豆腐ですよ。とっても美味ですよ」
豆腐小僧の声がする。
それすら、どうでもいい。
「があああああああ!!」
高木は吠えた。
全身、血まみれの高木こそが、赤鬼か何かのように見えた。
高木の体を動かしているのは、すでに闘争本能のみ。
ただ、餓鬼だけを、破壊するための鬼──
極限の恐怖が、破壊願望に変わる。
周囲から見れば、まったくの無謀行為。
背後は、がら空き。
攻撃は棍で殴るだけ。
技も何もない。
それでも餓鬼の数は減らない。
無数に湧いてくる。
終わらない殺戮。
体力が尽き果てるまで暴れるだけの、狂った猛獣。
五反田川は、すでに血の川と化していた。
草木の緑は、血の赤に塗り替えられた。
大地が吸収できないほどの血の量で、周囲が血の海になった。
その血の池地獄の中、高木は暴れる。
殺す。
壊す。
ふと。
その背中がすごい力で引っ張られた。
何者かにシャツをつままれたのだ。
見上げ入道だった。
高木の体が浮いていく。
足先が河原から浮き上がり、靴から血がぽたぽたと垂れていく。
「くそおおおおおおおお!!!」
上へと持ち上げられ、下方でどんどん遠ざかっていく椿の姿を見ながら、高木は叫んだ。
高木から垂れ落ちていく餓鬼どもの返り血に、当の餓鬼たちが群がる。
我先にとその血を飲もうと口を開ける。
ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、我先にと同朋の血を飲み下さんとしている。
その浅ましさ──まさしく「餓鬼」の名にふさわしい。
そしてその姿を見て、高木はようやく正気を取り戻した。
──終わりだ。
高木は悟った。
──見上げ入道に捕まったか……
高木の棍から赤の光が抜けていく。
「豆腐いりませんか? 紅葉豆腐ですよ。とっても美味ですよ」
豆腐小僧の声が虚しく響く。
その紅を指したような真っ赤な唇は、なぜか高木を哀れんでいるように見える。
高木は思った。
これが俺がこの世で見る最後の光景……
この後、自分がどんな目に遭わされるか。
想像すらしたくなかった。
田中が、まるで羽虫のように潰されたあの残骸が脳裏に焼き付いている。
豆腐小僧の目は悲しげだ。
だが、それはおそらく、高木の命を惜しんで、ではない。
自分が勧める豆腐を食べてもらう人がいなくなる──
そんな類の寂しさを浮かべているように高木は思った。
覚悟した。
目を閉じた。
もう豆腐小僧は見えない。
餓鬼たちも見えない。
椿の姿も、見えない。
──大熊さんに、こっぴどく叱られるだろうな……
そんなことを思い、苦笑いを浮かべた。
『ハッハッハッハッハ!』
見上げ入道の笑い声が聞こえた。
その時だった。
ふと、「ぴゅう」という音が、その笑いに混じった。
同時に。
高木を吊り上げていた力が急になくなった。
──え……?
支えを失い、高木はまっさかさまに、下へ落ちる。
餓鬼どもの頭上へ。
一斉に高木に取り付いてくる餓鬼ども。
その頭の隙間から、見上げ入道の巨体が見えた。
──え……!?
高木は同じ驚きを心の中で上げる。
そこには想像以上に巨大化した見上げ入道。
その肉体を。
縦に切り裂く光があった。
その数、十本以上──!
「……え?」
今度は喉から声が出た。
信じられないものを見たからだ。
見上げ入道の体を斬り裂いた鋭い光。
その光が通った道通りに。
見上げ入道の巨大な肉体が、細い帯みたいに裂けて、崩れ落ちていったのだ。
斬られた順に、重い肉がずり落ちる。
断面が赤い。
ズルズル、ぬめぬめと肉片となって崩れていく。
その後、きれいにスライスされた見上げ入道の肉体は五反田川に倒れ込んでいった。
派手な地響きがした。
ザバンとと川から血しぶきが上がった。
何があったのか。理解できなかった。
気づけば、ついさっきまで自分に群がっていた餓鬼の姿も、ない。
一体、俺は何を見ているんだ?
混乱が極限にまで達した。
その高木の視界に、いくつもの尖った鉄の塊のようなものが入る。
ガバッと高木は起き上がった。
──これは……!?
それは鋭い軌道で、椿を喰らう無数の餓鬼どもの頭を正確に貫いていった。
次々と、数珠つなぎに貫かれていく餓鬼ども。
そして最後に、椿の頭を抑えている小豆洗いの首に巻き付いた。
次の瞬間、小豆洗いと餓鬼どもが、まるで何かに吊り上げられたかのように宙を舞う。
よく見ると、それは一本の“糸”。
その先に楔のようなものがついている。
その糸が小豆洗いの首に巻き付き、その喉笛を締め上げていた。
次に見たのは、それら数珠つなぎのようになった妖怪たちが、河原に叩きつけられる光景だった。
大地に衝突した瞬間に、そのすべてがグシャリと潰れる。
そこから噴き出した血が高木の目に直撃する。
「うわっ──!」
必死に袖で目の周りの血を拭い、周囲を見回す。
椿の無惨な肉体が河原の壁をずり落ちているのが目に入った。
その肉体にはすでに、およそ肉と呼べるものは残っていない。
首から上だけが、無事だ。
そして、倒れたその腹からドロリと肉体が流れ落ちた。
食べ残されていた内臓。
その高木の足元に何かが当たった。
下を見る。
それは、小豆洗いの頭。
糸によって切り裂かれた小豆洗いの残骸が転がってきたのだ。
(こ、これって……)
「フフフフフ」
そんな高木の背後から笑い声がした。
「遅れてごめんネ~。まさかこんなに君たちが弱いって思わなくって」
高木は振り向く。
そこにいたのは女。
胸にボリュームがある20代前半ぐらいの女性。
ショートカットに、ボディラインを強調するような体にピッタリした服。
二十九歳の高木より五歳は若いだろうか。
無邪気に笑うその笑顔が、この地獄とはアンマッチだった。
「誰だ!!」
高木のその声の大きさに、思わずその女性は耳をふさいだ。
「なにー。そんな大きな声、出さなくても聞こえてるよー」
女は、こちらの惨状を見ても顔色ひとつ変えない。
高木はもう一度、辺りを見回す。
スライスされた見上げ入道。
小豆洗いの頭。
ぺしゃんこになった餓鬼ども。
「こ、これは、お前がやったのか」
「違うよー」
女はにっこり笑う。
──そして不意に。
その背後から三人の男が飛び出してきた。
驚いている高木の横を通り過ぎていき。
残った餓鬼どもを一瞬で蹴散らしていく。
あれだけいた餓鬼どもが。
夜の闇のどこまでも先まで連なっていたかに思えた餓鬼どもが。
あっという間に血の海に沈んでいく。
まるで神業。まるで人間の力とは思えない。
それを見ながら、目の前の女性は言った。
「やったのは、あいつら」
そう言って指を指しながら、呑気に説明を始める。
「あのやたら体がでっかい糸つかいのアイツは柄谷。下の名前は私も知らない。魔術で編んだ糸の先に仕込んだ楔で、大量の敵を倒すやつ」
「柄谷……」
「あと、その後ろにいるヤツね。あのちょっと老けた親父みたいなのが蓮實。物理攻撃だったら最強クラスかな。とにかく何でも切り裂いたりするのが得意。どうなってるのかは私にも分からない。とにかく、研ぎ澄まされた包丁みたいに、なんでもキレイにさばいていく。大根のかつら剥きだって出来るんじゃないかしら」
笑えない冗談だ。
だが。
「じゃあ、見上げ入道をやったのは」
「そうそう。あれやったのは蓮實よ。すごかったでしょ。それと、その横にいる、いかにもチャラそうなアイツね。あいつはちょっと危ないヤツよ。ここにいる男三人、全員、頭いっちゃってるけど、ヤツは特別。名前は浅田。アイツは武具も攻撃能力もよくわからない」
「……は?」
「なのに、気づいたら、敵が倒れてる。どうやって倒したのかよくわからない。もうヘラヘラしてるだけ。要はめっちゃ謎でめっちゃ強いってことね。八雲班長のお気に入りでもあるかな」
ここで高木は気づいた。
こいつら。
──八雲班だ!
「まあ、浅田が本気で闘ってる場面を見ることは滅多にないけど。なんせ、周りが強すぎるからねー。出番なくなるのよ。……で、このアタシだけどぉ」
彼女は敬礼の仕草をした。
そして満面の笑顔で自己紹介する。
「アタシは、八雲班・遊撃隊・第一係の南雲麻衣。ただ今、現場到着しましたー! よろしくネ!」




