第9話 魔王ベレス降臨
第9話
神表の足元を、毛並みの色を失った猫たちが音もなく通り過ぎていく。ひと足ごとに、空気が弾ける。
──「ボッ」……
霧の中の『ゴースト』が、まるで“見えない手”に火を灯されるように次々と燃え上がった。
炎柱が幾本も立ち、港の輪郭が歪む。光と熱のはずが、そこには“冷たさ”があった。地獄の篝火は、凍てついた聖堂のように静まり返っている。
「こ、これは……」
神表は奥歯を噛み締める。相手がたとえ魔王級でも、自分は引かない──その自負がある。深く息を吐き、木刀・黒姫を中段に構えた。
特別に鍛えられた神具。ほとんどの魔物を滅ぼし、さらに神表の“聖力”を増幅させる奇跡の武器。
(どこだ……?)
ドクン、ドクン、と心臓が警鐘を打つ。
いる。
確かに──ここに、“王”が降臨している。
黒姫を握る手に、自然と力がこもったその瞬間──。
ポン、と。
神表の肩に、軽く手が置かれた。
「悪魔祓い師か」
「な……!」
条件反射で飛び退く。
だが遅い。いつの間に背後を取られていたのか──神表ですら気配を感知できなかった。
そこに立つのは、黒いスーツを纏った青年。
長い前髪の隙間から覗く切れ長の目。氷のように冷たい光を宿した瞳。
そして、濃霧のざわめきも、海の軋みも、すべてが吸い込まれたように消えた。その静寂は、次の瞬間に訪れる破局の予兆だった。
今、神表は怪しい猫たちに取り囲まれている。十数匹の猫が後脚で立ち、錆びた金属の楽器を構える。
愛らしさのはずの輪郭が、視線の交錯とともに“意味を失っていく”。その瞬間、神表の背筋を焼いたのは悪寒ではなく──“誰かに見られている”という確信だった。
ゾワリ──と、神表から聖力が削がれていく。
視線だけで、魂を浸食される感覚。気を抜けば、根源もろともごっそり奪われる。
(こ、これは魔王どころの騒ぎじゃねえ──とてつもない……いや。そんな言葉じゃ計れねえ。この世の、生命誕生の古代から地球が滅びる未来まで……。“宇宙の記憶の狂気そのもの”の『受肉』、じゃねーのか………)
これまで数多の魔を滅ぼしてきた神表だから、即座に悟る。こいつは“悪魔”だ。だが、格が違う。ただ強いのではない。神表が幾度も死地を潜り抜け、なお「自分こそ最強」と信じてきたその地平を、あざ笑うように遥か違う世界線、さらにそを先を歩むあってはならない、いてはいけない存在──
(俺と同じ土俵にいる奴じゃない……!)
聖力が波打つ。だが、それすら黒スーツの青年の“禍々しさ”にかき消されていく。まるで、世界そのものが“奴”を中心に回転し始めたかのようだった──。
だが意外なことに、その黒スーツの青年は神表へと“静か”に、こう告げた。
「そう力まないでくれるか。今は君に用はない。こいつらは俺が片付けるからそこで黙っててほしい」
驚くほど穏やかな声だった。さらには、この傲慢な神表がコクリと、ごく自然に頷いてしまうこの流れ──それすらも、地球誕生から決められていた宿命だったのではないかとさえ、神表は思った。
濃霧の中でらんらんと輝く猫たちの目。猫たちの演奏は続く。神表の意識を地獄へと突き落とそうかとするかのように。その黒スーツの青年は、『ゴースト』たちの火柱群の前に立った。そして『ヒトガタ』を、見上げる。
青年は言った。
とても静かに。
ひどくゆるやかに。
「今、これ以上の問題を起こされるのは迷惑だ」
同時に、右手を天にかざし。その青年は目を閉じた。直後。
ズシン!!
天空から何か巨大な鉄の塊が、猛スピードで堕ちてきた!
夜空を裂いて落下してきたのは──禍々しい電気椅子だった。鉄と血のにおいを撒き散らしながら、椅子ごと大地に突き刺さる。
そこに座している者がある。
ものものしく拘束された肌着姿の髪の長い白人女性。そこに座る女は、髪が顔に張り付き、銀の拘束具で目を覆われていた。その口元からは、声とも電流ともつかぬ“泡立つ呟き”が漏れ出していた。
(何か、召喚したのか……?」
朦朧とした意識の中で神表は必死に恐怖に抗おうとする。鼻を突く匂い──いや、違う。嗅覚ではない。“脳の奥”で何かが腐っていく。それは腐臭ではなく、“死そのもの”の記憶だった。
死者だ、と神表は悟った。
──今、この『恐怖そのものの狂気』は、どこからか、死者を召喚した。
「わかるのか」
背中越しに青年が神表に話しかけた。
「なるほど。思った以上にいい素質を持っている。君の力であれば、この『ヒトガタ』など一撃で倒せただろう。そして君の思っている通りだ。僕が召喚したのは、確かに死者なのだから」
(心を……読まれた……!?)
ゾッとした。天才の名を欲しいままに悪魔祓いをしてきて数年。こんなこと初めてだった。
「彼女の名はマーサ・プレイスという。19世紀、世界で初めて電気椅子で死刑を遂行されたアメリカの女性だ」
死刑囚──!
「その魂を僕は手に入れた。可愛いだろ? 僕の大切な使い魔だ」
そのマーサ・プレイスが、青年の名を呼ぶ。
「ベレス……サマ……」
彼女の呻きが空気を歪め、死臭が神表の骨の髄まで侵食してくる。
「ベレス……サマ……」
(ベレスって、まさか!?)
◆ ◆ ◆
聞いたことがある。魔導書に登場する名前だから、神表が知っていても当然だ。
その者は、ベレトとも、ヴュレトとも呼ばれる。ソロモン王が従える72の魔王の1柱。さらにはその頭領とも言われる悪魔。『ゲーティア』、そう呼ばれる魔導書に、その名の悪魔が燦然と記されている。
神表はこれまで多くの悪魔憑きを見てきた。そして祓ってきた。悪魔が人に取り憑くというようなことはあっても、その姿が具現化されることは滅多にない。
(これが……『濃霧現象』ってヤツの“闇側の奇跡”ってやつか……)
通常ならば、魔法陣を描き、それなりの呪文と供物を使い、魔王を呼び出す。
魂と引き換えに契約し、契約者は何でも好きな願いを叶えることが出来る。
だがここに魔王を呼び出す魔法陣が開かれた気配はなかった。さらに言えば、自身が無力化されるという経験を神表はしたことがない。実際、神表は強い。特に相手が悪魔である場合、その相性もあり、障害無敵を誇っている。記録は更新中。だが今、それが床に叩きつけられた砂時計のように粉々に割れ、自信が砂のように霧散しそうになっている。
ベレス。強大な魔王。だが、そんなもんじゃない。こいつは特別だ。人類の歴史にあってはならぬほどの“狂気”の具現化だ。そんなものが受肉して動き回る。もしかしたらこれが『濃霧現象』の本来の怖さなのか……?
だが。
──いや、と神表は思い直した。
これは。
もしかして。
何かの始まりに過ぎないのではないか……?
その時だった。
『ベ…ベレス……さま……?』
口がきけないと思っていた『ヒトガタ』が、そう低い怯えた声を出した。
こちらも信じられないといった口調だった。
ベレスと呼ばれた青年は、指を口元に当て、考えるような仕草を見せた。
「ほう。僕の名を知っているのか?」
その声はどこまでも冷たい。
「ということは、やはり、その姿は借り物か。悪魔の下僕の化身だね」
ベレスは神表に目を戻した。
「若き悪魔祓い師よ、雑魚ばかり見てきたんじゃ、その職務、退屈だろう。いい機会だ。ちょっと面白いものを見せてあげよう。後学にしてほしい」
「なに……を!」
逆らおうとするが、神表を取り囲む猫の瞳がいよいよ強く輝く。
まぶしい。
動けない。
悪魔に対して圧倒的な力を誇るはずの俺が、何も出来ない……!
「マーサ、やれ」
ベレスが命令した。同時に、召喚された電気椅子に強力な電流が流れた。電流が流れた瞬間、空気が破裂した。女の喉から溢れた声は、叫びではなく“電気そのもの”だった。その痛みでマーサが絶叫する!
アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!
目玉が飛び出しそうになり、銀色の目隠しから大量の真っ赤な血液が涙のように流れて──それが彼女の頬を伝う間もなく、空中で蒸発する。
アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!
その叫び声が空を裂いた。
天空から、いくつもの名のない稲妻が降り注ぐ。
ズン!ズン!ズン!
ズン!ズン!ズン!
ズン!ズン!ズン!
ズン!ズン!ズン!
ズン!ズン!ズン!
ズン!ズン!ズン!
ズン!ズン!ズン!
衝撃。視界が“焼け”、色が剥がれる。白飛びし、世界が消えた。
(やっべ……!)
これに神表は咄嗟に聖盾術式を三重展開──。通常の大悪魔級ならこれで雷撃は止まる。止まるはずだった。一枚目が音もなく消え、二枚目が割れ、だが、三枚目はそもそも“発動すらしなかった”。
(な、なんで……!?)
稲妻は一本ごとに別々の意思を持ち、大蛇のようにのたうって『ゴースト』を穿つ。『ゴースト』を貫き、『ヒトガタ』の骨を砕き、海を白く沸騰させる。
その雷槌の大蛇は数える前に百を越え、数の概念が追いつかない。それも一瞬で。霧の内部を好き勝手に這い、電流が夜の闇を昼の太陽へと捏造していく。アスファルトは皮膚のように裂け、鉄骨は血のように赤熱し、ガラスは合図もなく砕け散った。
だがそれも束の間の地獄絵図だった。
ベレスが片手を上げただけで。
空間が停止したのだ。
空気の粒子は命令を失い、霧は宙で凍る。“動く”という概念が一秒だけ、この世から削られる。それだけで周囲の電磁が乱れ、天体の磁場も軋んだ。
つまり。
──音が死んだ。
残ったのは耳鳴りだけ──港の輪郭をなぞる偽物の音。当然、『ヒトガタ』も音もなく、冷たく燃える。苦悶の声を上げる。
『ベ、ベレスサ、マ……こんなことをして、なんのおつもりか!』
「迷惑だ」
『あなた程のお方が、何故……。あの御方は、あの御方は、あなたに逆らうつもりもないのに、このような理不尽極まりなき……』
ベレスは不敵に笑った。
「ではハッキリと言う。邪魔だ。君の主に言っておいてくれ。──”死ね”。……今なら穏やかに終わらせてやる」
『……………』
「ならば、静かに済む」
『ヒトガタ』は口を開く。音が出ない。反論を探した瞬間、世界から“反論”が削除された。そして青白い炎に焼かれ──燃え滓より先に“存在の輪郭”が崩れ、ボロボロと海に沈んでいく。
神表は思う。殺しておいて、「伝えろ」というなんて理不尽極まりない。言ってることがめちゃくちゃだ。コイツ何を考えてやがる、と──
その時には、状況を一転させた、あのマーサの電流も止まっていた。
マーサと電気椅子からしゅうしゅうと白い湯気だけが人間の形を真似して立ち上る。
血まみれのマーサ。
可哀想なブラッディー・マーサ。
強い電流で服もボロボロに崩れ、体中ひどい火傷を負っている。
ぽた……ぽた……。
マーサの眼から流れ落ちる血が彼女の膝を真っ赤に染めていた。だが、路面に落ちるものは消えた。血が重力を拒んでいる。
海に目をやれば、水面からもいくつもの青い炎が立ち上がっていた。この地に向かおうとした海中の『ゴースト』もすべてを焼き尽くしたのだろう。だが、魔王ベレスにとってこれは、“ついで”だ。
つまり。
結論は一行で十分。
終わった──
なぜなら。
彼=魔王ベレスがそう決めたから。
神表が苦戦した状況を、魔王ベレスは瞬時に塗り潰した。
──だが。神表は、決して口だけの男ではない。
かつてヴァチカン本山で封印を破った“罪の双頭”を単独で討伐した。十五歳で七体の大悪魔を斃した男。その七体の大悪魔の大悪魔の中には、あのファウストを惑わせた『メフェストフェレス』や、多くの人間を堕落させ、ソロモン72柱の中心的存在といわれていた『ベリアル』の名もあった。『ベリアル』とは、この魔王ベレスに比肩すると伝承される魔王である。
神表の“神撃”の一閃は、かつて空を裂いて堕天使を無に還した。十六にして『黒姫』の正体名を覚醒させた。だが今、その光は──自分ごと押し潰されている。それでも届かない。本当に魔王ベレスはあの、『魔王ベリアル』と同等なのか。伝承が間違っているのではないか。それとも、ベレスというその名は、名を借りただけの別次元の存在なのか……。分からない。だが、とにかく『格』が違い過ぎる──!
「恐怖とは、知識の副産物だ。賢いほど苦しむ。愚かだろう?」
ベレスは、焼け残った灰の中から一枚の瞼の破片を拾い上げ、それを光にかざし、まるで標本を観察する子どものように微笑んだ。その声の温度が、周囲の空気を凍らせる。神表は納得が行かなかった。恐怖。それは生物が生きるための最大の本能の一つではないのか。そこに知恵や知識。つまり智とは別のものではないか、と。
「君は頭が良すぎる。そして強すぎる。だからこそ覚えておけ。この世には智では分かり得ぬ領域があるということを……」
ちぇっ。言ってくれるぜ。
だが、今夜の惨劇を幕引きするように。確かに、『濃霧』は晴れつつある。この手柄は神表のものではない。すべてはベレス。もしくは、そう名乗る『アイツ』の手によるもの。
可愛そうな女性死刑囚の姿も、電気椅子もまた、消え失せていく。白い湯気の中で、マーサはまだ苦しんでいる。焼けただれた唇が、動きを忘れたまま“苦悶”の形を保っている。ただ、彼女の影だけは、逆光の中でまだ“椅子に座っていた”。
こうして、この世に説明のない安寧の幕が無事に、だが神表からすれば『雑』に降ろされた。消防車とパトカーのサイレンが今さら鳴り響く。
(遅いって。ようやくのご到着かよ……)
神表は目を閉じた。
負けた──そう思ったからだ。
これまで多くの任務についてきた。だが、初めてそう感じた。
確かに彼はまだ十六歳と若い。だがここまでの屈辱はない。神表の経歴を踏みにじるよう現れた猫の群れ、雷を操る死刑囚の亡霊、そして魔王を名乗る何らかの化身──
(普通の魔王なら勝ってた──)
すでにそこには、魔王ベレスの姿もない。
(今日の俺が弱いんじゃない。あいつが、別格──神、神の領域を遥かに超えているんだ)
この世を超越した存在の者独特の“残り香”だけがそこに残されていた。
神表は思う。彼が学んできたすべてを裏切り、“光”と“闇”がグラデーションとなって混乱と迷いを植え付けていく。風が吹く。焦げた港の空気が彼の頬を撫でる。その冷たさに、神表は理解した。
──おそらく、この世界はもう、人間の手には戻らない。
魔王ベレスイメージ




