第99話 触れてはならぬ領域
第99話
(葉山さん、あれから結局、翔太くんとは一言も喋らなかったなあ……)
瑚桃による“お騒がせ昼休み”が終わり、五限目。
三年A組は体育だった。
男子は走り高跳び。女子は100メートル走だったが、あいにくの豪雨だ。
急遽、男女ともに体育館でバレーの授業が行われることになった。
雨の匂いを含んだ空気の中、男子のいない教室で美優は静かに体操着へ袖を通した。
湿った布が肌に冷たく、首筋をすべる。
その感触に、息がひとつこぼれる。
「あれ。うみ。また少し胸、大きくなった?」
美優はぴくりと肩を震わせた。
りこだ。
美優は条件反射のように、慌てて制服を胸に押し当てた。
「ど、ど、どこ見てんのよ、りこ!」
「いやあ。今朝は朝からうみの顔色があまり良くなかったから、ちょっと冗談でも、って思って」
たははは、と笑うりこ。
でも鋭い、と美優は思った。
胸のことでは、ない。
胸の「奥」にくすぶるモヤモヤについて、りこが気づいている点だ。
今も、考え込んでしまう。
石にされてしまった、大熊のおじさんのことを──
◆ ◆ ◆
石像になった大熊の肉体は、デルピュネーによって、名坂にある美優の父の書庫へと運ばれた。
そこは普段、住民も入りこまない藪の中に、ひっそりとある。
人目につかない場所だ。
いわば美優の父だけの隠れ家。
鍵もかけてあるので、誰かが入り込むこともない。
「でも間違って誰かが石像を粉々にしちゃったら──さすがに死んじゃうから気をつけてね」
シャパリュは朗らかな声で平然と恐ろしいことを言う。
美優は自然と、悪い結果ばかりを考えてしまう……
◆ ◆ ◆
これが、つい昨晩だ。
いくら美優が強がりだとしても、すべてを隠し通すことはできない。
そんな美優の心をほぐそうとしているのだろう。
りこは、一生懸命に、話を逸らそうとしてくる。
「いいな。うみは。私なんて、まだこんなぺったんこ。……大きくなるのかなあ」
事情を知らない、りこなりの、せめてもの気遣いなのだろう。
その優しさを無駄にするほど、美優も野暮ではない。
美優は、体操着の裾を正しながら言う。
りこの話に乗る。
「成長期なんだからまだまだ、これからじゃない? それにそこまで小さいと私は思わないけど」
「そうかなぁ……でも、決めた! 私、来年の書き初めの題材決めた!」
「書き初め? 今から? まだ秋よ。どうしてこんなに早く……」
「『豊乳』」
「え?」
「『ほ・お・にゅ・う』!」
下着の上に手を置きながら真剣な表情の、りこ。
これに思わず、プッ、と美優は噴き出してしまった。
「あ。笑った! 笑ったなあ! これでも真剣に悩んでるのに!」
怒り口調なのに、美優が笑ったことで、どこかうれしそうなりこ。
「いや、ごめんごめん」
笑い涙を指でぬぐいながら、美優は言った。
「りこは本当に、面白いわね。その書き初め、できたら見せてね」
りこの顔がぱあっと明るくなった!
「うん、分かった。書いてLINESで送る! 『豊乳』!」
──ありがと。りこ。
美優は長い髪を体操着の中から引っ張り出し、後ろでポニーテールにまとめながら、心から感謝する。
だから、りこが好きなのだ。
だから、親友でいられるのだ。
(りこ。大好きだよ)
美優は心の中で告白しながら「さあ、早く行く!」とりこのお尻をパン!
「きゃうっ」
頓狂な声をあげながらも、りこは美優の背中についていく。
「待ってよ、うみー! 私だって、胸、揺らしたい~!」
◆ ◆ ◆
一方で、一年C組。葉山ひまりのクラス。
雷雨は五限になってもやまない。
ひまりは、数学の授業を受けながら、窓を叩きつける雨粒を眺めていた。
雲間を走る稲光。
それは暗雲の中を泳ぐ龍みたいで、胸の奥がざわついた。
(あれは、何だったんだろう……)
昼休みの出来事を思い出す。
(でも、きっと、わたしの勘が正しければ……)
瑚桃にまとわりついていたスライム状の化け物。
それを一瞬、視線を遣っただけで除霊してしまった、北藤翔太のあの力……
(北藤くんも、実は、わたし側の人間……?)
そう考えても仕方ない。
翔太の周囲からして、そうだ。
銀髪ロングヘアのメイド服の少女。
ひまりを、ゴスロリ少女から救ってくれた成宮蒼と名乗る青年。
あの二人は、間違いなく、
──人間では、ない。
なぜ、人ではない者が、北藤翔太とあれほど懇意にしているのか。
あんなに自然体でいられるのか。
ひまりのように、普通の人には見えない怪異を視る力は持っていないようだが、
それとは違うタイプの力を持っているのだとしたら──
(だとしたら。もしかして、私が強く念を送ったら、何らかの反応を見せてくれるのかな)
見えないものを視る力。
実は、ひまりが視られるのは、怪異だけじゃない。
人の目で視えないもの──例えば、人の心の動き。魂の輪郭。
力を集中すれば、これらも、ひまりは視ることができる。
いや。実は、ひまりの力はもっと、強い。
──触ることが、できる。
ただし、相手の中に踏み込みすぎると、こちらも傷つく。
(よし。決めた)
ひまりは決心した。
これまで、人の心を無理に覗いて、嫌な想いばかりしてきた。
霊の心が、記憶が視えて、怖い想いばかりしてきた。
だから、なるべく封印してきたのだが、あの力を目の当たりにして、ひまりは気になって仕方がない。
見ただけで、怪異を破壊する力──
それは、ひまりには、ない力。
その、秘密を知りたい。
タイプは違えど、北藤くんが、わたしのような霊能力とも言える力を持っている可能性は十分にある。
ひまりは一人ぼっちだった。
こんな力を持って生まれてしまったばかりに。
──でも、もし北藤くんが、わたしと同じだったら……!
ただの好奇心だけではなかった。
寂しさを、孤独の辛さを、なんとか埋めたい、そんな切羽詰まった想いからだった。
ひまりは、数学教師の目を盗んで目を閉じる。
それから、翔太の姿を思い浮かべた。
確か五限は体育の授業だと言っていた。
今は雨。だとしたら、今、彼がいるのは体育館のはずだ。
そこへと意識を集中する。
翔太の姿を、意識のスクリーンに映し出してみる。
(北藤くん、あなたは一体何者なの? わたしと同じような、孤独を抱えているの?)
でもリスクもあった。ひまりの念によって、また弱い怪異がこの教室に集まってくるかもしれない。
でもそれよりも、
(理解者が欲しい!)
ひまりの心は、その気持ちに強く突き動かされていた。
久しぶりだが、やってみる。
力を込める。念が発動する。
その念を、教室の外へと、飛ばしてみる。
最初はソッと針に糸を通すように。
教室から廊下へ、階段へ、渡り廊下へ。
意識の先に体育館の扉が浮かんだ。
この扉の向こうに、北藤くんが、いる。
当然、その間、副反応として多くの生徒たちの“意識”も感じ取れてしまう。
それにはなるべく耳を閉じる。
ひどく精神を使う作業。
当たり前のように、ものすごく疲れる。
だが、それより。
(北藤くん。何か……応えてくれる、かな)
その想いが、勝った。
北藤翔太。
ひまりの初恋の相手。
小学生時代のクラスメイト。
いじめられていた理由が、自分のような力を持っていたことによることだったとしたら──
(わたしの孤独を分かってくれる、唯一の運命の人なのかもしれない……)
人と違う能力を持つ。
ゆえに、人とのコミュニケーションが、うまく取れなかった。
そう考えれば、つじつまが合う。
だからこそ、小学生のひまりは、北藤翔太に惹かれた――そう思いたかった。
すべては憶測。
独りよがりな妄想。
自分に言い聞かせるようにその理屈を積み上げる。
でも、それにすがらざるを得ないほど、ひまりもずっと傷ついてきた。
怪異が視える体質に苦しめられてきた。
でも、北藤くんなら、もしかして。
──ほんとうの意味で、理解してくれるかも。
(お願い……! 応えて!)
ひまりの念は、体育館の中を彷徨う。
翔太を探す。
それだけでも、ものすごく疲れてしまう。
だが、諦められない。
そしてようやく。
──感じた!
北藤くんのにおい!
北藤くんの魂の在り処の温度!
ひまりは高揚する。
だが、問題は、ここからだ。
どうすれば、応えてもらえるだろう。
──どこか、ノックできそうなところがあればいいんだけれど……
まずは翔太の魂を探ろうと、念を這わしてみる。
(気づいて……気づいて……)
そしてひまりはそっと、その翔太の魂の中に念を忍び込ませた。
(ねえ……今まで気づいてあげられなかったけど、実は北藤くんもきっと、わたしと、同じなんでしょ? だから、あまり周囲の人と親しくならずにいたんだよね。そうなんでしょ? わたしに、あなたの心を、魂を、──見せて!)
ひまりの念の切っ先が、するすると翔太の魂の座へ。
(お願い! 応えて! もしあなたがわたしと同じなら、この心になにかが入り込んだ違和感、絶対に気づくはず。気づいているんでしょ? お願い! 応えて……!)
翔太の魂の内部はとてもあたたかく、そしてどこか懐かしい匂いも漂っていた。
怪異と無関係ではない、そんなタイプの人だけが持っている意識空間。
──間違いない。
少なくとも、これは普通の人の魂ではない。
──この感覚は──”怪異”側の匂いだ!
ひまりは、できるだけ優しく魂の奥へと踏み込もうとする。
魂の扉を指でなぞるように……
(お願い! 応えてッ!)
ところが。
ひまりはそこに“夜の底”を見た。
闇よりも深い闇。
そこに、巨大な一つの目が見開く。
その目が言った。
『──誰だ』
聞いた瞬間、皮膚の内側から押されるみたいに、心がきしんだ。
声ではない。
魂の熱が、そう告げる。
ひまりの心が触れた、闇。
その無限に広がる闇そのものが、まるで一つの意思を持っているかのようだった。
(な、な、何これ……痛いっ! 痛いっ!!)
ひまりの心が弾けそうになる。
ここに来て、ひまりは気づいた。
触れてはいけない扉を、自ら開けてしまったことに。
自分の願いが、あっという間に、砕け散ったことに。
──食われる!!
なぜかそう感じた。
念は肉体を持たないはずなのに、震え上がったような感覚があった。
それは、人が触れてはならない領域。
深淵の底にある、さらなる深淵。
(ダメッ! 助けてッ!)
そう悲鳴を上げた時には、ひまりの念は、自身の胸に還っていた。
──追い……出された……?
荒い息。上下する胸。
──いや。吐き出されたって感覚、だった……
胸が痛い。
教室の音が急に大きくなる。雨音とチョークの音が、耳に刺さった。
あまりの驚きと痛みに机に突っ伏しそうになる。
「おおい、どうした、葉山。どこか気分でも悪いのか?」
教師がひまりに声をかける。
平常心が迷子になる。
これまで感じたことのない恐怖。
魂の痛み。
(違う……本質的に違う……)
ひまりは、思う。
理解者などでは、なかった。
分かり合えるような存在では、なかった。
あれは。
──鬼、だ……!
そして、その直後。
彼女は、自身の甘さを呪うことになる。
北藤翔太の魂に触れようとしたことを。
勝手に自分の仲間だと思い込もうとしたことを。
そして“それ”は起こった。
ひまりの目の前で。
ひまりの前の席に座っていた女子生徒。
時折話しかける程度だったが、よく知った子。
ひまりは、見た。
その子の首元で、空気が裏返るのを。
「え……?」
驚く余裕も与えてくれなかった。
なぜなら。
その子の頭は。
なくなっていた。
一拍あって、首の断面から噴水のように血が跳ね上がる。
天井を叩く血しぶき。
そこから降り注ぐあたたかな液体。
最初は誰も何が起こったか、分からなかった。
だが、一つの悲鳴をきっかけに。
「きゃあああああああああ!!!!!!!」
教室内はパニックになった。
大量に降り注ぐ血。
黒板の前で教師が腰を抜かし、言葉にならない声を漏らした。
ひまりは真っ青になり、自分が何をしてしまったのか、激しく自問自答した。
(うそ! あれが着いてきたの!? なんで? 私のせい?)
ひまりは、理解者がほしかった。
ひとりが嫌だった。
だから。
だから、接触しただけなのに。
(どうしてこんなこと……!?)
教室は真っ赤な液体のシャワーによりたちまち血の池地獄と化していた。
ひまりの顔にも、あのよく知る子の血が、バシャバシャと打ち付けている。
ぬるい液体が頬を伝う。
そこからは血の匂いじゃないものが香った。
それは、
“よく知る子”の命が去る瞬間の湿度。
──これが、『死』……
返り血が汗のように滴るのを感じながら、ひまりは、ようやく理解する。
──北藤翔太は、ひまりが求めた理解者じゃない。触れてはいけないものだった。
ひまりが翔太の中で感じた“夜の底”。
それは今も、この教室を膨張させるほど満ち溢れ、
その正体が、実は“世界の終わり”の後の“夜の底”なのだと、
ひまりは、今、はっきりと理解した。
そして今、その“触れてはいけないもの”が、この教室にまで滲み出している――




