第94話 復讐の女神・エリーニュス
第94話
林をガラスと炭に変える、デルピュネーの「ドラゴンブレス」。
翔太と美優の着地点から百メートル奥――
その灼けた地獄で、デルとペルセウスの死闘は続いていた。
一帯は焼け野原だ。
木の枝はガラスになっている。風が当たるたび、チリン、と鳴る。
すぐにパリン、と砕けて、足元に落ちた。
──その中で。
デルピュネーの槍が、見えないペルセウスの肌を切り裂いた。
ペルセウスは『ハデスの隠れ兜』で姿を消している。
だが、消えるのは見た目だけだ。熱の流れで、動いた方向が分かる。
(──ここです!)
デルピュネーのエメラルドの瞳が、獲物を追って背後へ大きく流れる。
逆巻く空気。
それはイコール、英雄の躍動。
その乱気流へ向け、デルピュネーは跳躍した。
「ガアアアアアアアアアアアアア!」
次の瞬間――ガラスの地面に白い裂線が走った。
見えない斬撃が地面を先に切る。
デルピュネーの竜眼は、わずかな光で初動を捉えていた。
(もう、その攻撃は何度も見ました!)
デルは、寸前で身をかわした。
熱風が頬を叩き、寸前のところでの距離だったことが分かった。
(甘い! ──それに、いつまでも身を隠せるとお思いですか!?)
宙返りで着地した瞬間、デルピュネーは足先でガラス片を弾いた。
破片が跳ねて、広がりながら落ちてくる。
その粒の乱れをデルピュネーは見る。
姿は消えても、そこに体はある。
降る破片が、見えない何かにぶつかって跳ねる。
それで輪郭が浮かぶ――そこに、英雄がいる。
「そこですッ!」
カァァァァァァァァアアン!
高い金属音。
デルピュネーの槍は、敢えて、ハデスの兜を狙った。
兜の魔力が一瞬、削れた。
効力が不安定になり、ペルセウスの体が明滅し始めた。
この機を逃さず、デルピュネーは槍を薙刀のように振り、ペルセウスの胸を引き裂いた。
「はああああああああああああああああああっ!」
ドバッ!
ドバドバドバッ!
血が噴いた。それでも英雄の目は死んでいない。
膝をついた次の瞬間、また姿を消す。
逃げではない――勝つための手段だ。
「その兜に守られているから、あなたの攻撃は、甘いのです!」
ペルセウスが姿を消すと同時に、デルピュネーは動いていた。
槍を跳ね上げる。狙いは首じゃない。
神具――兜だけを弾き飛ばした。
神具がキン、と鳴り、空で回転する。
兜が、外れた。
ついに、ペルセウスの肉体が、顕になる。
このデルピュネーの攻撃に、思わず後ずさり、ガラスの地面を割る。
「英雄ペルセウス。ゼウスの血筋がこの程度とは──」
もう声は届かない。ペルセウスは完全にバーサク化している。
それでも苦悶は消えない。痛みは感じている。
「愚か……です。バーサク化してさえいなければ、あなたの知己と高い技術で、今のわたくしへも有効打を放てたものを」
熱はまだ残っている。
地表が光り、割れたガラスが月明かりを返す。
デルピュネーの足が触れるたび、薄片がチリリ、と鳴った。
竜の咆哮。閃光みたいな速度。
身体能力だけなら、バーサク状態で強化されたペルセウスが上だ。
だがデルピュネーは、技と速度と正確さで上回っている。
今のペルセウスは強い。だが当たらない。
それが、バーサク化の弱点だった。
そしてこの好機を逃すデルピュネーではなかった。
「はああああああああああああああああああっ!」
囮の一撃。
これを、ペルセウスは、ハルパーで押さえつけて止める。
デルピュネーの瞳に悲哀が浮かんだ。
(この程度の、罠……見抜けぬほどに……)
デルピュネーは、槍先を引っ掛けて回転させ、ハルパーの角度をずらした。
ハルパーの柄が、ペルセウスの拳の中で滑って回る。
そこだ!
一瞬の動作。
「しかし、情けはかけません!」
ハルパーがペルセウスの超越した握力から離れた瞬間を狙い、槍を上へ跳ね上げた。
槍を抑えていたはずのハルパーが一気に吹き挙げられ、
それを持っていた両腕が、上へ持っていかれる。
胴ががら空きになった。
デルピュネーはそこを狙った。
冷酷に。残虐に。
迷いがない――悪魔の手つきだ。
上げた槍を今度は、そのまま振り下ろし、ペルセウスの胴へ袈裟斬りにする。
胸板から脇腹の腰のあたりまで切り裂かれ、ペルセウスの肉体から血が噴き出す。
間髪入れずに、左肩を串刺しに。
巨大な肩の筋肉と骨を貫通。
──これで、しばらくの間、左腕は上げることもできないはずだ。
だが、今の、竜の力を解放したデルピュネーは加減というものを知らない。
槍をぐるりと回転させる。
槍先の装飾も兼ねた凹凸が、肉をえぐり取っていく。
デルピュネーは、この回転に、てこの応用も使った。
次の瞬間――左腕が、肩から外れた。
「大人しくなりなさい!」
腕は、肩から切り離され、宙を回転しながら、ガラスの地へと落ちていった。
◆ ◆ ◆
翔太と美優は、熱気の残る炭の林を進む。
デルを探す――というより、近づける場所を探している。
踏みしめるたび、ガラスの皮膜に細いひびが走り、足元で砕けた。
「翔太くん、デルは?」
返事がない。
見ると、翔太はある位置に立ち尽くし、その先を見ていた。
「翔太くん……?」
熱気でむせこみながら、美優も翔太の背後に立つ。
そして、翔太はようやく返事をした。
振り向かずに。
「ああ……いたよ」
そして恐怖とも感嘆ともとれる声を漏らす。
「えらく、強い……」
「え?」
美優はすぐに翔太の横へと駆け寄った。
そこで美優は翔太が何を見て、そう言ったのかが分かった。
翔太と美優が見たのは──
木々が炭を越えてガラス化し、砕け、広場のようになってしまった場所。
その広場で。
竜そのもののような獰猛な動きで、ペルセウスを切り刻んでいくデルピュネーの姿。
長い銀髪が。熱気に押されて上へゆらゆらとたなびいており、瞳の翡翠はいつもの数倍もの光を放っている。
指の先には鈎爪。
口元には鋭利な牙。
いつものデルピュネーの姿ではあるが、その挑発的な存在感はいつもの彼女ではない。
「えええええええっ!」
例のおっとりした目は残っている。
だが、その瞳は、冷たく光っている。エメラルドグリーンが刺さる。
──悪魔だ。
半竜半人と名乗っていたデルが、本性を見せていた。
ペルセウスにはすでに左腕がない。
だが、負けじと超高速で落ちたハルパーを拾い、右手でデルピュネーに斬りつける。
だがデルピュネーは、軽くかわすだけで、肌がそれを弾いて見えた。
よく見ると、その剥き出しの腕や脚には、何やら鱗のような鈍い輝きが宿っている。
虹色。
動くたびに光を反射している。
(神具の刃が弾かれる理由は、これか……)
翔太はゴクリと喉を鳴らす。
着ているメイド服がかろうじて、それがデルピュネーであった名残りだった。
だがそのメイド服もあちこちが破けたり、煤けており、これまでの戦闘の激しさを物語っている。
上へ流れる銀髪の合間にも、小さな角のような影がのぞく。
ドラゴン……
それだけではない。
腰から生えた、悪魔そのものの禍々しき翼。
──これが、デルの本気。
「まるで……獲物を狩るための動きね……」
美優にそう呟かせるほど、デルの変貌ぶりは凄まじかった。
姿だけではない。
その凶暴性も含めて、だ。
◆ ◆ ◆
その間にも、デルピュネーはペルセウスを血祭りにあげていく。
ペルセウスが遅いんじゃない。デルピュネーが速すぎる。
目で追える域じゃない。
ただ、翡翠の光が。デルピュネーのエメラルドグリーンの瞳の輝きが。
地獄の炎のように燃え、光跡でその位置を知らせる。
残像を残しながら。
一秒に一回はデルピュネーの前方から真っ赤な血が噴き出す。
ペルセウスのものであろう。
一方でデルピュネーの方は、刃を肌で弾く火花だけが見える。
要するに、ペルセウスの斬撃は神具であってもデルピュネーの肌に弾かれ、デルの刃は“見えない頻度”で確実に三メートルの巨体を切り裂いている。
「あはははは! あははははは!」
まるで悪鬼にようにデルピュネーが笑った。
楽しくて仕方がないといった声だ。
そして飛び上がり、横に薙いだそのデルピュネーの槍が、
ついにはペルセウスの両目を二つとも切り裂いた。
左腕と両目を失ったギリシャ神話の大英雄。
どちらが、バーサク化しているか、もはや分からない。
ペルセウスは、三メートルが苦悶でその体を「く」の字に折った。
これに美優は思わず、喉を鳴らす。
「あの大英雄をここまで追い詰める……あのテュポーンが認めるはずだわ……」
改めてといった風に美優は言う。
「デルって……本当に何者なんだ?」
「本来は、テュポーンの番人」
「番人……洞窟の?」
「コーリキュオン。神話の“防衛装置”みたいな存在よ」
「……家事してる姿と、同じ個体とは思えない」
「しかも、テュポーンとゼウスのね。あの神々の王・ゼウスを唯一、敗った怪物がテュポーン。テュポーンは、そのゼウスの肉体を腱に至るまでバラバラに引き裂き、世界各地へと、その肉片たちを隠したと言われている。ギリシャ神話体系では最大最強の怪物。いや、一説では神とさえ呼ばれている存在」
そのテュポーンは、ゼウスの手足の腱をある洞窟へと封印した。
その洞窟の名が「コーリキュオン」
これを取り戻そうとする神を、すべて跳ね除けていたのが、このデルピュネーだ。
「ゼウス……宇宙を裂く雷の天空神。ギリシャの最高神だよな。それを……バラバラに……?」
「テュポーンはね、ギリシャ神話原初の神・カオスの次に生まれた序列二番目・タルタロス神と、大地母神・ガイアの間に生まれた子と言われているの」
「カオスにガイア。規模がでかすぎて、混乱する……」
「ええ。デルの、家事をしている姿を見てたらこんな背景、忘れちゃうわよ。そのテュポーンが信頼した魔物であり、実際にオリュンポスの神々を退けてきた実力者」
「その後、ゼウスは?」
「復活したわ」
「なぜ? デルは失敗したのか?」
「ええ。計略の神・ヘルメスに騙されて……あの頃から、人は良かったのね……」
「じゃあ……」
「自分の肉片を取り戻したゼウスは復活した。そしてテュポーンをついに敗ったとされるわ。その後、デルピュネーが、どんな運命を辿ったのか……あまり想像はしたくないけど」
敗軍の兵。
天界で、どれだけの目に遭わされたのか──
いつもの、あの、おっとりしたデルの姿から想像するのは難しい。
いや、残酷すぎて、想像するのが怖い。
「とにかく。あの闘いには、さすがに割り込めない……」
そう言ったところで、「あっ」と美優は突如、素っ頓狂な声を上げた。
「どうした?」と翔太は問う。
「いけない……私、やっちゃったかも」
「何が?」
「大熊のおじさん……!」
スマホを取り出して、操作する。
「約束の時間に遅れるの間違いなかったから、送っちゃったのよ大熊のおじさんに。スマホの位置情報を」
「え……」
「来ないでって、伝えなきゃ」
美優の誠実さと慎重さが裏目に出ていた。
「危険だから?」
「それも。――もう一つある」と美優。
「あんなデルの姿を見たら、国際魔術会議は、デルをも討伐対象とするかもしない」
──忘れていた。
国際魔術会議。それはこの世に脅威となる怪異を葬り去るための組織。
「今すぐ、LINES通話できないか?」
「出ない! 一応。メッセージは残したけど……え?」
その言葉を言い終わらぬうちに、美優がバッと翔太の体に覆いかぶさった。
突然、背中から押し倒され、翔太はうろたえる。
背中にあたるやわらかな感触が集中力を鈍らせる。
「ちょ、美優! 近い! なんだよ、いきなり! 俺、イーナリージアで体痛いのに……」
「黙って! あれ、見て!」
「あれ?」
その瞬間、風が止んだ。
ガラスが砕ける音だけが聞こえた。
翔太は、うながされるままに、美優の視線の先を追ってみた。
そこにはペルセウスの姿。
ペルセウスの周りを、半透明の女が回っている。
紫のマント。顔ははっきりしない。
なのに――手の大鎌だけ、やけに実在感がある。
「また何か現れた……あれは……」
「待って。確か、父さんが持っていた本に……」
眉間にしわを寄せる。
ペルセウスのバーサク化。
神話への冒涜。
自らの運命への復讐。
大鎌。
そこから導き出されるものは……
「まさか……復讐の女神、かも」
「復讐の女神?」
「エリーニュス……」
美優はさらに翔太を上から押さえつけた。
「いって……!」
「しっ! 聞こえる!」
「無茶言うな。それより、エリーニュスって」
「対象を狂気へ誘う女神。これが思い浮かんだってことは……間違ってないかも知れない」
「そ、それも、『マグス』の素質ってヤツか」
「そうよ。私やお父さんには分かるの。ペルセウスのバーサク化。凶器へ導く女神。これで、つじつまも合うわ。でも、もしあれが本当にエリーニュスだとしたら、まずいことになる」
「まずいこと?」
「あれは、冥界の力を宿しているから……!」
そう言っている間だった。
その復讐の女神・エリーニュスらしき影が、デルに大鎌で、襲いかかった。
デルピュネーは素早くかわし、空高く舞う。
そのときに出来た隙をペルセウスは見逃さない。
まずペルセウスは、跳ね飛ばされた自身の左腕を拾った。
その左腕を自らの肩……切られた傷口に当てる。
ありえないことが起こった。
くっついた。
冥界の力が、傷を巻き戻したのだ。
「あれは……!?」
「しっ……!」
美優が軽く翔太の口を抑える。
「仮説だけれど……。きっと、あれがペルセウスをバーサク化した張本人。そして、エリーニュスの力はそれだけじゃない。あの鎌……。あれに刃先に触れたものは、それがどれだけの存在であっても、もがき苦しみ、絶対的な死へ追いやるって聞いてるわ。さらには、その呪いに触れたものは、冥界にすら行かせてもらえない……」
「冥界……」
その半透明の女は、ペルセウスではなく――デルを見ていた。
その復讐の女神・エリーニュスらしき影が、デルに大鎌で、襲いかかった。
デルピュネーは、鎌をかいくぐる。
危ない場面は何度もある。
だが、それだけ恐ろしい存在を前にして、デルピュネーは相変わらず、笑い続けていた。
「あははははは! あははははは!」
笑い声だけが、温度のないまま広がった。




