第5章 第1次世界戦争編 C-0000 プロローグ 交流
今後の更新ですが、執筆ペースから考えて25日及び10日に公表することにします。10日については不定期、25日は定期を予定。金曜更新はこれが最後次の10日お待ちください。
ロシア戦線 日本派遣軍
プロローグ 交流
1914年9月中旬
ロシア首都 サンクトペテルブルク
ロシア帝国がタンネンベルクの戦いで敗戦した直後、ロシアは日本に援軍を要請。今回の必要経費全額の支払いを条件に既に援軍準備中だった部隊が直ちにシベリア鉄道を使い、西進した。第1次陣の最先鋒は日露戦争で割譲されたウラジオストックとその周辺領域を担当する第3常備師団、朝鮮半島を担当する第2常備師団。2個師団だった。旅順、大連を含む関東州を担当する第4常備師団も動員対象だったが、第4常備師団からはドイツ租借地である青島攻略部隊が抽出されており、それらの部隊が交代、帰還するまでは待たねばならない。
これに加え、樺太、千島列島に分散配備されている第5常備師団、フランス派遣軍向けに船舶を準備している関係上、船不足のために新潟―ウラジオストック経由ではなく、東京から鉄道輸送で下関、対馬海峡から朝鮮半島の鉄道網―満州鉄道を経由しなければならない第2近衛師団計3個師団が第1陣本隊である。
しかし、現場の確認のためにロシア派遣軍の司令部と各師団師団長級(本隊の移動は連隊長級に任せた分散進撃を採用。) は先発し、先鋒隊とともに同行した。
第1陣の終結は9月には終了する予定だが、その規模は総数11万人程度。列強の1個軍の半分程度の戦力だった。
「少ないな…」
つぶやくは第2近衛師団師団長秋山好古中将。日露戦争時に活躍した騎兵軍人である。
改史では戦後、陸軍の機械化を促進。その功績をもあり、史実よりも早く近衛師団長の任にある。近衛師団自体は他の師団よりも上位に位置するので秋山好古自身はロシア方面派遣軍の指揮権を有する。(指揮権第4位)をも兼任している。
そんな彼の手には数枚の書類がある。
「秋山大将?」
副官の畑俊六少佐が秋山に聞く。
「今度、11月までに送り込まれる部隊ではようやく1個軍規模だ。」
すでに半個軍では兵力不足なのが目に見えており、中規模動員が開始されている現在、内地師団も続々と充足。派遣軍に応援部隊として動員されることになっている。第2(仙台)・7(札幌・旭川)・8(弘前)・9(金沢)・19(朝鮮北部 羅南)師団が動員されれば合計22万人。史実の第1次世界大戦開戦時の陸軍総兵力に相当する数だ。たった10個師団で22万になるのは動員の力だ。平時人員体制から戦時人員体制に移行、それに伴い、1個師団当たりの兵数が増大している。
史実の例としては日清戦争のきっかけの一つの東学党の乱に日本が送った兵力は1個旅団。平時編成ではおよそ2000。しかし戦時編成ともなれば7000にも上る。この論法で軍部と陸奥宗光は伊藤博文をだまし、日清戦争初戦を有利に進めた。
今回、日本はその手法を使った。そのためロシアの援軍要請にすぐに動くことができた。
「しかも近衛師団以外、なれない武装だ。これも問題。慣熟訓練ができていない。まあ、銃弾の補給は楽だが。」
今回、派遣軍第1陣は急遽、後方の倉庫から日露戦争時に鹵獲(旅順戦だけでも3.5万丁以上)したロシア製小銃モジン・ナガンを輸送した。ロシア製銃弾を使用できるためだ。シベリア鉄道はいまだ単線区間が存在する関係で輸送力に限界がある以上、できるだけの物資を現地調達しようと思うのは当然だ。
「それにしても乃木元帥の遺言のうち一つしかかなえられていないではないか。しかも鹵獲旧式品の流用とは…」
秋山の発言
「金がないのでしょうね。それに閣下らしくありません。」
畑俊六はそれに対して答える。秋山自身はそれにムッとする。だが確かにそうだ。彼自身にはかつてあった清貧さが失われているのだろう。例としては新兵器導入ということを考え既存品を用いることを怠るということだ。さらに機械化を進める関係で多額の費用を秋山自身が使ったことに対する皮肉でもあろう。
「わかっておる。そのために本国は急ぎ、全兵士分拳銃を用意してくれたのだからな。」
モジン・ナガンは日本の38式歩兵銃よりも長い。着剣状態で運用することが前提の設計であるためだ。下手に外そうものなら照準がずれ、この長さは塹壕内での格闘戦には不利である上に体格不足の日本兵にはさらに状況が悪い。
日本人の体格ではこれが思いのほか厳しい。日本人は勇猛だが、体格が欧州・中国人よりも貧弱だったこのこともあって自国製小銃は他国よりも小さな弾薬を使用する小口径高速弾を採用した。
しかしその分威力不足だった。当たり所さえ悪ければ時にロシア兵はこの小銃弾を受けても立ち向かってきた。一方、ロシア側の銃弾は致命的だった。ロシアが使うモジン・ナガンやマキシム機関銃弾は全て7㎜以上の大きさの銃弾だった。この銃弾を受けた将兵の一人である日露戦争の英雄の乃木希典の息子勝典は貫通銃創の上戦死している。しかも向こう側が見えるほどの風穴があいた。打たれどころが悪かったとはいえ、その差は大きいだろう。
乃木は明治天皇崩御に対しての殉死の際に史実では残していない遺言を残している。小銃弾の大口径化に関することと、塹壕内での白兵戦に対応することに対してのものだ。かつて秋山好古が戦訓調査をしたいといった際に協力し、自らも自身の考えをまとめた結果だろう。
だが明治天皇の崩御自体が1912年7月30日。第1次世界大戦開戦2年前だ。2年という短期間で小銃弾、小銃の開発などできるわけもなく、運用試験のためと称して日露戦争の鹵獲品を戦場に投入した。
しかし、この小銃の問題点もわかっていた上層部は旧式拳銃を含め様々な拳銃を手配、配備した。銃弾はバラバラだがないよりはまし。という発想なのだろう。
もっとも数のそろっていた拳銃は南部式自動拳銃(改史では41式自動拳銃という名で正式採用)1904年から量産が開始されている拳銃であり、自動式なので速射性が高い。これが6万丁。兵員増員のため、指揮官級人材抽出のために解体された第3近衛師団の武装と初めから近衛第2師団に集中配備されていた装備、予備保管品だ。
そのほかには旧式化して保管状況にあった26式拳銃、派生品の桑原軽便拳銃。これらの回転式拳銃は日清戦争時の指揮官用品である。前者は低威力でかなり有名だった。
これ以外は外国製拳銃が入り乱れている。ものによっては時代遅れなシングルアクション(引き金を引くだけでは連射ができない)代物もあった。
こんなやり方で問題はないのか大ありだ。弾薬の供給はめちゃくちゃだった。まともな補給ができたのは日本製の拳銃と日露戦争で鹵獲された少数のロシア軍拳銃だけだ。
「秋山少将…」
「ステッセリ将軍」
現れたのは一人の老人。アナトーリイ・ミハーイロヴィチ・ステッセリだった。日露戦争時、旅順要塞防衛の総指揮を執った。後世や世相からは凡将、愚将、官僚軍人と称された。
だが、築城技術・要塞篭城戦の専門家であり、優れた野戦指揮官であったコンドラチェンコ少将を信頼、攻勢を行うこと以外についてほぼ一任した。早期の降伏により、彼以外の人物が防衛線の指揮を執ったほうがよかったと称される場合もある。確かにこの時点での要塞守備隊の役目は乃木希典率いる第3軍の拘束することを果たせず、大決戦たる奉天会戦への参加を許している。
ただし、これには肯定的な意見も多い。コンドラチェンコ少将の戦死や予備兵力の枯渇、兵の消耗。通常、海軍の長距離航海や前近代的な航海法しかなかった大航海時代でもない限り発生すること自体が稀な壊血病すら蔓延する事態だったことだからだ。武器弾薬・食料の余裕があったとしても戦えなかっただろう。
あまり戦いすぎて物資不足になっても大問題だ。かつての城攻めでは守備、攻略双方ともに物資が不足、捕虜に回す食糧すらなく、捕虜を生き埋めにしたことすらある。
彼自身、優しすぎた可能性もある。戦後、戦死した部下の遺児4名を引き取り、かつての敵将乃木の香典を送るくらいには人情家だ。これ以上戦わせたくなかったのかもしれない。
むしろ問題だったのはコンドラチェンコ少将を除く2人の部下だったのだろう。これが戦後無能説を唱えさせる原因になった可能性がある。
一人目はアレクサンドル・ヴィクトロヴィチ・フォーク中将。まさに無能部下といえる経歴だ。旅順攻略戦での無策な撤退、旅順防衛では増援要請の拒否などだ。極めつけはコンドラチェンコ少将戦死後の後任ではまともにその任を果たせない、最後には降伏を主張するなどだ。
ステッセリは前線指揮官を信じて降伏させた状況ともいえるかもしれない。
もう一人はコンスタンティン・ニコラエヴィチ・スミルノフ中将。露土戦争で活躍した優秀な戦術家。ステッセリが要塞司令官の地位に固執して以来対立しているとされている。実際に降伏に関して相談すらされていない。戦後、大々的にフォークとステッセリを非難した。結果、フォームに恨まれ、決闘の末負傷している。
作者自身は軍才がなく、人を見る目がない(フォークをコンドラチェンコの後任にしたから)が、前者に関しては自覚しており、優秀で、血気盛んなロマン・イシドロヴィチ・コンドラチェンコ少将に大部分を任せることのできる心と、血気盛んな部分を抑えることができた素直な人情家ととらえている。
なお、私自身はコンドラチェンコの後任がステッセルと仲直りしたスミルノフであった場合、さらに長期の旅順要塞による第3軍の拘束が可能であったのではないかと愚考する。
「元将軍といいたいところじゃが陛下のご判断で少将待遇で大日本帝国軍ロシア方面派遣軍補給担当に任命されました。」
ステッセルは旅順戦のちに軍を追われ、商人をしていた。しかし改史ではロシア皇帝に日本支援のため復帰を嘆願。それが認められた。ただし、彼自身が軍才がない官僚的軍人であったがために補給を担当することになった。
「ありがとうございます。閣下のおかげでうちの連中が射撃訓練できています。もともと外地兵役中(兵役期間中2年目外地部隊配属中の兵士) ということで練度が高い連中です。すぐに慣れてくれるでしょう」
「じゃが反動を抑えられてない兵も多いな。」
「それは私も思います。威力が高くとも当たらねば意味がない。ですが本国からの命令です、彼らには慣れてもらわねばなりません。現状の最有力戦力は私の近衛師団だけです。」
「そうですかですが現時点ではこの軍は集結待ち、そして首都防衛の予備戦力扱いです。時間はまだあります。準備をしましょう。塹壕を設営して死守するしかありせんからね。」
「そうですね。それしかない。幸い、工兵出身者で初めて師団長になった上原(上原勇作中将のちの陸軍大臣士官学校同期)がいます。彼に任せておけば問題ないでしょう。どうするか聞いてみましょう。奴はあの戦争ののち、塹壕戦について研究していますから適任です。」
「そうか。だが厳しい戦になる。ドイツ軍は3個軍を集中しているが、我々は戦力の逐次投入でようやく2個軍団。塹壕の設営を急ぐしかないな。」
旅順戦でコンドラチェンコの後任になったアレクサンドル・フォークって調べてみると銀河英雄伝説に出てくるアンドリュー・フォークに似ていると思う。名前もやっていること、性格もなんだか似ているような気がする。最後にスミルノフを決闘の末負傷させたこともアンドリューフォークの複数の襲撃事件 (ヤンおよびクブルスリー) に酷似すると思うんだよね。




