第4章 第2次米墨戦争編-7 渡河と死闘
更新予定を後れてすみません。送信・確認不足でした
1907年7月23日 タンピコ
タンピコはメキシコ湾岸の港湾都市の一つである。ディアスが大統領となり発展した町であり、彼の政治基盤の一つでもある。当然奪還しにくる。
「上陸した部隊から戦域掌握。民間人を動員して強固な塹壕陣地を構築する。」
第1上陸軍(2個師団4万名)司令官のジョン・パーシング准将(のちのWW1欧州方面派遣軍司令官)は叫ぶ。
その部隊編成表はひそかに観戦武官の一部にもわたる。その時当然日本の観戦武官たちにも伝わる。
「上陸軍は4万人そのうち3万人が素人…どうゆうことなんですか兄さん」
秋山真之はその編成を見て兄の好古に尋ねる。
「機関銃の配備も多い…。」
秋山好古は直ちに歩き出す。
「兄さん!!」
「上陸は中止する。ここは旅順の再来になるだけ。陸軍で我々が見たことのある地獄が再現されるだけだ。見るべきところは少ない。部下に上陸させる。我々はヒューストンに戻る。」
「兄さん!!」
「タンピコは陽動だ!!そちらのほうが重要だ。」
1907年7月25日 テキサス州米墨国境 リオグランデ川 司令部(正式名称東部方面軍司令部)
「パーシング支隊から入電!!上陸成功!!」
通信兵が駆け込んでくる。通信は戦艦コネチカットから発信されたものである。
「攻勢計画を発動する。渡河作戦を開始。砲撃で支援せよ。」
現役復帰したネルソン・アップルトン・マイルズ退役中将は命じる。すでに作戦はある。彼はそれに従って敵陣を突破すればいい。
このリオグランデ川戦域は米墨国境線区の中では珍しい固定戦線を持つ。とはいっても川を挟んで少数の警備部隊が展開し、敵が双方渡河作戦を行うと同時に通常よりもはるかに多くとっている予備兵力を大量投入し、撃退することを繰り返している。
作戦はシンプル。かなり離れた2点に陽動の渡河作戦を仕掛け、そこに戦力が集中した隙に陽動渡河点の中央を突破する。シンプルな中央突破戦術である。ナポレオン時代に多用された戦術である。
突入には多数の小舟をつなげた浮橋が利用された。何本も。そして一気に渡河した部隊が河を利用した防御陣地を突破し、後方に回り込んだ。
1907年7月26日 テキサス州米墨国境 リオグランデ川 司令部(正式名称東部方面司令部)
「突破に成功。しかし攻勢の限界点に達しました。これ以上の進撃は不可能です。」
「補給網の構築が必要ということだな。出番ですよ。エジソン殿。」
この戦争には発明家トーマス・エジソンも参加していた。トーマス・エジソンは電球をはじめとする数々の発明を成し遂げたとされている人物である。
この時期、彼が発明した技術は目立たなくとも重要なものである。
それはコンクリート。コンクリートそのものではない。流し込み式のコンクリート工法の発明である。史実においては1911年にコンクリート住宅の試験が行われている。改史ではここも早まっている。
「資材の事前集積は完了しています。十分な人夫さえ貸してくだされば前線までの鉄道…特にリオグランデ川を越える橋の建設を実施できます。」
「わかった急いでくれ。」
攻勢の限界点…補給を考慮に入れた攻撃限界点…それ以上進むには時間をかけて物資の事前集積を行わなければならない点にまで達してしまった米軍は進撃を中止。
敗走を決定したメキシコ軍団を逃がしてしまうことになった。
メキシコ軍は一気に150㎞ほど後退し、陣地を引いた。タンピコから50㎞ほど北にある渓谷地帯…塹壕戦にされたらリオグランデ川よりも守りやすい地点だった。
この点に関して米軍の想定の最悪の事態を行っている。米軍の想定では後退幅は100㎞と想定していた。ここも防御にうってつけの地形である。しかし、メキシコ軍は補給やタンピコに上陸したバーシング支隊を考慮に入れてここまで後退した。
そのような地点に陣を構築された場合、ジョン・パーシング准将の第1上陸軍(別名バーシング支隊2個師団4万名)のタンピコも危うい。そのため米軍は急速進撃し、補給が不完全なまま無理やり対陣を構築するしかなかった。食料こそ民間からの徴発で一部賄うことができたが、それ以外の軍需物資特に武器弾薬はリオグランデ渡河戦で十分な量の武器弾薬の鹵獲に失敗したためにとても攻勢作戦に出る余裕などはなかった。
結果、戦力的に余裕の出たメキシコ軍は大挙タンピコ攻略に乗り出したのだった。
1907年8月15日 タンピコ
タンピコに集結できたメキシコ軍は18万(リオグランデ戦からの生き残り9.5万他本土予備軍) 一方米軍は峡谷地帯の軍を含め24万(うち20万はリオグランデ戦を戦ったため補給不足、戦力外)
メキシコ軍が補給拠点に向かい後退したため 武器弾薬を補給しつつ後退し、戦力を維持していたのに対し、米軍は弾薬の補充もままならず消耗していなかった重機関銃の銃弾はあるので防御こそできれども攻め込むことは至難だった。そのため戦力として期待できるのはジョン・パーシング准将の第1上陸軍(別名バーシング支隊2個師団4万名)だけだった。
「作戦通り死守し、敵戦力の削り取りを実行する。ここで8万人は削りたいものだ。」
パーシング准将は小さく独白を述べた。
1907年8月16日 タンピコ西10㎞(海岸線から20㎞) タモス メキシコ軍司令部
攻防戦第1次総攻撃前夜
「タンピコ内のスパイからの情報です。」
部下から1枚の紙を渡される
「艦隊がタンピコにいないだと!?」
紙に書かれていた内容は驚くべきことだった。艦隊は数日前に出港ており、帰還の恐れが低いといものだ。
「司令。作戦の変更は!!」
「いいや艦隊がいつ帰ってくるかわからない以上それは危険だ。その攻撃ルートだと駆逐艦や防護巡洋艦等の小型・旧式艦も脅威になる。それに時間もない。作戦に変更はない!!」
タンピコの周りには多くの湖沼が広がっている。そのため攻撃方向が制限されることになる。そのため戦線を3つに分けることでわかりやすい。北・西・南の3方向である。
西以外は艦砲による支援砲撃がきわめて有効になる。海岸線に近いからだ。戦艦の主砲しか届かない『西』と違い、南北は戦艦や駆逐艦などの搭載する速射砲まで射程に入るため圧倒的な支援火力となるのだ。
メキシコ軍司令部はその点を考慮に入れ、『西』からの突撃にこの戦いのすべてをかけることにしたのだ。
「ただし戦艦がいないのならばこちらが有利。あれの準備が無駄になったことは残念だが問題はない。」
メキシコ軍にとって西側から攻めるのが有利と考えるかもしれない。しかし、西から攻めるうえでも海軍の艦砲から逃れることはできない。それはタンピコに接するパヌコ川である。この川に軍艦を送り込むだけで西側から攻める部隊に対して砲撃をすることができるのだ。
メキシコ軍がここから攻めようとするのは策があるからであった。しかし艦隊がいないのであればその策を使う必要もないのだ。
「用意した塹壕も必要ないかもしれない。予備兵力もな。漁船部隊も使用する。一気に攻めるぞ。」
「了解。」
1907年7月23日 タンピコ 米軍司令部
「南北に配置する兵力はほとんど必要ない。やつらは西からくる。南北は監視所と通信用電話回線を敷設すればいい。敵が来れば予備隊を動員して守備すればいい。徹底して塹壕を用意しろ。メキシコ人人夫を雇い、動員してくれ。鉄条網の配備は米軍人がやれ。」
司令官のジョン・パーシング准将は部下に命じている。同時に部下に数枚の紙を渡している。作戦を記しているものである。
「最悪的兵力は16万人以上になる。4倍だ。」
「よ、4倍!!」
部下は恐怖に震える。
「日露戦争の旅順要塞は日本が延8万8千、ロシア4万7千2倍以下の兵力にもかかわらず陥落しています!!4倍しかも急造の陣地でなんて!!」
もう一人いる部下は状況をわかってもらおうと必死だ。
「守りきれないと?」
ジョン・パーシング准将は返す。
「当たり前です!!」
感情的になる参謀。
「我々には海軍がいる。支援砲撃もある。それに負けても戦死者を捨てて海に撤退すればいい。この戦いは勝敗が重要ではない。戦うことが重要なのだ。」
ジョン・パーシング准将は部下に諭すように言葉をつづけた。
1907年8月16日 タンピコ西10㎞(海岸線から20㎞) タモス メキシコ軍司令部
メキシコ軍は前進した。海軍の射程外ぎりぎりまで進出した。敵軍はタンピコのみを守備していたため西に10㎞のタモスまで進出できた。
「厄介だな。」
司令はタモス―タンピコ間の回廊を見渡せる建物から望遠鏡で敵を覗く。
「はい。機関銃陣地があります。しかも2㎞しかない回廊内に。左右に逃げることは不可能ですね。」
「かといって塹壕戦にしている暇はない。塹壕戦は時間がかかる。時間をかければネルソン・アップルトン・マイルズ退役中将の部隊は補給を成功させて攻めてくるその前にタンピコを落とさなければならない。」
「攻撃方向を変えますか?」
「無理だな。戦力の分散になるし指揮の統一性も阻害される。工作隊の様子はどうだ。」
「夜間に湖を越えさせました。すでに作戦の用意はできています。」
「機関銃陣地そばにありったけの砲弾をたたきこむ。砲撃開始。」
同日夜AM0500
「突撃せよ。」
メキシコ軍は突撃を下命した。とてもシンプルな命令だ。12時間丸半日砲撃を加えた塹壕陣地への突撃
「機関銃陣地だ!!」
タモス―タンピコ間の回廊はたった2㎞の幅しかない。米軍はその地帯に防衛線を引いた。メキシコ兵の喊声に対し多数の機関銃陣地が火を噴く。夜間射撃なので命中率は大きく下がる。同時に発砲炎に対し、小銃を発射する。無論、当たりにくいがむろん効果はある時々発砲が止まり、再び射撃が開始される。それを繰り返す。
砲撃の効果は少なかったのだ。塹壕内に潜む兵士への砲撃は直撃や至近弾でない限り被害は乏しい。
「照明弾だ!!」
米軍後方の砲兵陣地から数発の光が上がる。闇夜を明るく照らし、敵を見えやすくする照明弾だ。これに照らされれば一時暗所からの攻撃という利点は失われる。
同時に銃弾の雨が突撃する歩兵隊を襲う。機関銃の威力は一発かすめただけでも負傷する威力がある。命中すれば腹に後ろを見通せるだけのトンネルが出来上がる。
しばらくして夜が明ける。
兵士は時々できる敵味方の砲撃の着弾地点にできた窪地で休みながら敵陣に突撃する。敵陣地に取りつくまでに多くの犠牲が生じるもようやく取りつき、白兵戦が展開される。白兵戦になり米軍の機銃手が殺害されると十字砲火の密度が収まり、さらに兵士が取りつきやすくなる。
「初めに取りついた部隊の兵士は勲章ものだな。」
後方にいる指揮官はつぶやく。
そのうち第1塹壕線を手に入れる。
「くそまた塹壕だ」
2つ目の塹壕線からの銃撃が集中する。
「塹壕に入れ!!」
現場指揮官は焦る。部下の兵士に塹壕に入らせる。塹壕は被弾面積を下げ、兵の死亡率を下げさせる。
「馬鹿!!焦るな!!」
後方の指揮官は望遠鏡をのぞきながら叫んだ!!直後砲撃が塹壕を襲う。測量が完了している陣地への砲撃の命中率は通常よりもはるかに高いうえに圧倒的鉄量をたたきこむために多数の砲兵が向けられた砲撃は塹壕内の兵士を生き埋めにする。
「前線兵士に塹壕の再使用を禁じろ。砲弾着弾痕を利用しろ。くそ奴らの投入タイミングが読めん」
戦線は膠着する。夜になっても砲撃の雨はやまない。むしろ激化した。米国モニター艦を投入したからだ。
モニター艦は特徴的な船である。喫水は浅く、甲板は低い。そのため外洋航行は極めて難しい。その一方で巨砲を搭載するため陸上支援砲撃にこれほど適した船はない。この時モニター艦は川を利用し、砲撃を加えてきた。モニター艦からの砲撃は熾烈ではなかった。砲撃そのものは少ない。しかし1発当たりの威力は陸上砲とは比べ物にならない。
「12インチ砲…厄介だが手はないことはない。」
12インチすなわち30.5㎝砲。陸軍の大型野戦砲でもこの時代10㎝その3倍の大きさ。となれば陸軍兵士は恐怖しかない。10㎝でも大きく自分たちを殺傷するには十分。30㎝の音、砲弾の爆発音は恐怖でしかない。
弱点としてはモニター艦自体建造されてかなりの期間が経っている点だけだろう。砲撃数の低さはその証拠だ。黒色火薬を装薬(砲弾を発射するために爆発させる爆薬)に使用しているためだ。この結果大量の煙が射界を遮ることになるのだ。
夜間になればその傾向は余計に強くなる。元々を暗くて分かりにくいのだ。
直後、モニター艦からの砲撃がやむ。砲弾の補給の問題ではない。砲弾の補給は定期的に隊列を入れ替え、水深の河口付近(それでも砲撃可能)で応戦しながら砲撃は行われている。
戦場となっている北岸からは音は聞こえないだろう。しかし戦場指定(民間人の避難先として米墨両軍の合意事項)されていない南岸からはかすかに聞こえただろう。銃声だ。
メキシコ軍最精鋭陸軍部隊による艀による強襲だ。本来、川を下り、直接市街地に突入させるために予備兵力とされた部隊である。
モニター艦の甲板の低さが災いした。河川からの艀でも接舷、強襲される。艦内にある小銃は旧式銃が主力だ。銃の配布は陸軍が優先だ。
だがむしろ小銃よりも取り回し、速射に優れる拳銃のほうが使いやすい。拳銃ならばかなりの数の私物が持ち込まれていた。その私物の拳銃が火を噴く。
だがメキシコ軍も最新鋭の小銃「モンドラゴン1905半自動小銃」を配備していた。そうでない部隊もモーゼル小銃を使用している。モンドラゴンを持っていない兵士もモンドラゴンの訓練を受けていた。戦死した兵士の銃はすぐに再使用される。さらに拳銃弾よりもはるかに威力がある。小銃弾は命中すればほぼ確実に戦闘不能になる。拳銃弾は胴体と頭部以外に命中した場合当面戦えなくなるが治療さえすれば戦線復帰が可能なレベルだ。だがその戦場においては使い物にならない兵士になる。
激闘になった。ただし、初撃はメキシコ軍有利だ。強襲なんてされるとは思っていなかったためだ。武器を持たぬ兵が次々と射殺される。武器を取る兵も数少ない。狭い室内であるがゆえに思わぬ被害も出すがその日の朝にはすべてのモニター艦が鹵獲される。
鹵獲したモニターから米軍が砲撃されるも補給船はすでに逃げ出している。そのため弾薬不足のため砲撃は終わる。米軍も相当の被害を出したがメキシコ軍はそれ以上の被害を出す。
米軍の犠牲者4万中2万、メキシコ軍の犠牲者16万中6万人。
陣地の死守には成功している。そんな中1907年9月1日それは起きた。
この時期の米国将官の情報があまり見つけられていません。申し訳ありません。
なおこの戦いで戦場に赴いた若い血がWW1で活躍することになります。




