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父との確執

 リカルドは仕方なく厨房を離れ、別邸の執事を務めるディミトリの事務室に向かった。


 ディミトリは恭しくリカルドを迎える。これぞ執事の鑑――あるいは使用人としてふさわしいと納得できる対応だ。席を勧められ、しっかりと腰を落ち着けた。


 リカルドが物心つく前から、ディミトリは公爵家の本邸で働いていた。旧知の仲なのだ。


「手紙で報告は受けていたが、改めて近況を聞かせてくれ」

「はい」


 ディミトリは、細かくダビドの病状や日々の過ごし方について話を始めた。怪しげな泉の女神の噂を聞きつけ、捧げ物を持って毎日祈りに通っている話にも触れる。


「そして、あの変な女を連れてきたんだな」

「はい」

「どう思う?」

「女神様のご利益だと思います。エレナ様は、お坊っちゃまの運命の女性です」

「な訳あるか」


 リカルドはこめかみに指を当てた。全員おかしくなっているようで、うんざりしてしまう。公爵家の現当主なのに『お坊っちゃま』呼びされていることを指摘する気にもなれない。


 しかしディミトリはにこっと慈愛のこもる笑みを浮かべた。


「お坊っちゃまにお越し頂き、私は感激しております。本邸を離れるときにはご主人様とお坊っちゃまが再びお会いできることになろうとは、想像も致しませんでした……全て、エレナ様が来て下さったからでしょう」


 リカルドとダビドの間にある溝は深くて長い。13年前から、父子の関係はこじれている。ダビドが公爵の地位を譲るときも、首都の本邸を離れるときも、二人の間には事務的な会話しかなかった。


「エレナとかいうあの女、本当に異世界から来たのか?父上は騙されているんじゃないのか?腹が据わりすぎている」


 聞いたのは自分であるのに、エレナの一連の態度を思い出すと胸がムカムカとした。彼女は思い切り怒鳴っても澄ました顔で、むしろ余裕の笑みさえ見せた。


 相当な修羅場をくぐり、罵声を浴び慣れている者としか思えない。ただ、あんな華奢な小娘が厳しい環境で暮らしていたとすると同情すべき点ではある。


「騙されてなどいません。エレナ様の服装や持ち物は、本当に見たこともない珍奇なものです。全て保管してありますので、ご覧になりますか?」


 エレナは存在をすっかり忘れているが、所持品のペットボトルや財布やスマートフォン、着ていた服などは大切に保管されていた。


「……いや、それはいい。よく考えたら出自は問題ではない。父上が誑かされていることが問題だ。晩年を汚すようなことをして欲しくない」


 若い女に高額な贈り物をしたことが、どうしても許せなかったのでリカルドはわざわざやって来た。自分が引き継ぐ金銭が減ることが惜しい訳ではない。もう既に、生前贈与で十分すぎるほどに受け取っている。


 ただ、亡くなった母以外の女性に気を移す父が腹立たしいのだ。


(父上は死の寸前まで、母上を思っていなければダメなんだ。そうでなければ……)


 ディミトリは困ったように少し眉を動かす。


「ご主人様は、着のみ着のままでこちらに来たエレナ様心配されているだけです」

「どうだか。あの二人のへらへらした笑いかたを見て俺は確信したぞ。何かある」

「とんでもない。父と娘のような微笑ましい関係ではありませんか。ははあ、お坊っちゃまは嫉妬されたのですか。やはりエレナ様に一目惚れを?」

「ありえない」


 ここで怒っては更に疑われるだろうと、平坦にリカルドは呟いた。ごく簡単に、真実味があるように。


(ありえないだろ、あの女は別にすごく美人でもない。まあ多少は純朴そうでかわいいかもしれないが、口を開けばとんでもないやつだ)


「とにかく俺は、一生結婚なんかしないんだ。あんなにひどく誰かを傷つける結婚なんてものは絶対にごめんだ。公爵家は親戚が継げばいい」

「……お坊っちゃま」

「何だ?」


 何を言うつもりだろうかと、リカルドは次の言葉を待った。ディミトリが真顔になったので、説教されそうな雰囲気である。


「お坊っちゃまのお考えは尊重致します。けれど、私はお坊っちゃまがこの世にお生まれになって、こうしてお話できる幸せを感じております」

「俺がここにいるのは、父上と母上が結婚したからだと言いたいのか?」

「そのとおりです」


 何も言い返せず、リカルドは大きく息を吐く。確かに、生まれなければ良かったとまでは思っていない。


 親しい友人がいるし、ディミトリのような使用人たちとも良い関係を築けている。公爵である今は社会的に重い責任があり、その分やりがいを感じている。


 しかし、結婚によって母、ヴィオレッタはひどく傷ついた。リカルドが思い出せるのは、泣いている母の顔ばかりである。彼女をそこまで追い詰めたのは、ダビドだ。



 室内の沈黙を打ち破る、ノックと慎ましいメイドの声かけがあった。


「公爵様、ご昼食の用意が整いました」

「ああ、今行く」


 リカルドは、ほっとした気持ちで部屋を出た。




 食堂に行くと、エプロンを外したエレナと、ダビドが座っていた。長いテーブルの最奥がダビドであり、その斜め向かいがエレナの席だ。


 いつもダビドと食事を共にしていると報告は聞いていたが、やはり親しげで慣れた空気感だった。


「お前って本当に遠慮がないんだな」


 どうしても父には話しかけられず、エレナをからかいながら席につく。カトラリーのセッティングに従うと、ダビドの斜め向かい、エレナの正面である。エレナはムッとしたように眦を上げた。


「ご飯は楽しく食べるものだから、今はケンカ売らないでくれる?」

「簡単に買う方が悪い」

「もっと気の利いたこと言えないのかしら?眩しい午後ですね、お嬢さんとか」

「ははっ」


 自分がそう話しかける姿を想像し、リカルドは馬鹿らしくて笑った。気の緩みとしか言いようがない、ほんの一瞬のことだった。


(あっ)


 ダビドと目が合ってしまう。自分が受け継いだ金色の瞳が、驚きに見開かれていた。


 それもそのはず、父の前で笑ったことなど、いつぶりだろう。リカルドが12歳までは平和な家庭だった。それから25歳の今に至るまで、目が合えば必ず睨み付けてきた――


 ダビドの目元が、ゆっくりと細められる。目尻に皺ができ、過ぎた年月を物語っていた。リカルドもまた、自分に向けられる父の笑顔は久しぶりに見た。




 給仕が料理の皿を配膳する。鮮やかな黄金色をした、三日月形のものだ。真っ赤なソースがかけられ、湯気が立っている。


「エレナ」


 ダビドが言う。


「ありがとう」

「え?まだ食べてないじゃない。さあどうぞ」


 エレナは食堂を支配する妙な雰囲気を何とかしようと、殊更に明るい声を上げた。


 壁にかけられた若き日のヴィオレッタの肖像画は、無邪気に笑っている。

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