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厨房の戦い

 厨房に戻ったエレナは鼻歌混じりで手を洗い、エプロンを付ける。生き延びられた、そのことが嬉しくてたまらない。恐れていたリカルドなる男は、脅威でもなんでもなかったのだ。


「嬉しそうですね。公爵様とついにお会いして、よい感触だったのですか?」


 料理長のルイが、期待をたっぷり込めて聞いてくる。その後ろでは、調理補助や皿洗いの面々までが揃って話を聞こうと身構えていた。この屋敷では、誰もがリカルドの結婚を願っている。それが主人であるダビドの願いだからだ。


 そして異世界からやって来たエレナこそ、その運命の相手ではないかと思われている。全ておしゃべり好きのシモーナが言い触らしたせいだが、エレナは困ったものだと思っていた。


 期待を裏切って申し訳なく思いつつ、首を振る。


「全然そんなことありません。私はリカルド様に敵視されてますし、私ももう関わりたくありません」

「でも公爵様はエレナ様に会いにいらしたんですよね?やっぱり目と目が合った瞬間、運命的なものを感じたんじゃないですか?」

「絶対ないです!」


 エレナは更に激しく首を振った。


 彼は金色の瞳だけはダビドにそっくりなのに、冷たさ以外何もない眼差しだった。親しみなど、持てる気がまるでしない。


「僕としては、エレナ様が公爵家の夫人になってくれたら嬉しいですよ。そしたら将来は、首都の屋敷で僕を料理長にして下さいね!」


 ルイは好き勝手に自分の野望を語った。ここの使用人たちは、みな伸び伸びとしている。


「すみませんが、ほんとに無理です。私は、あの人とは関わらず、いずれ自分の店を持つつもりです」


 エレナは細い包丁を手に取り、積まれているトマトのヘタをくびり取り始めた。今日の料理のソースに使うものだ。


「お店って、レストランですか?」

「そう。こっちにもありますよね?」

「庶民的なお店はありますよ。それこそ焼いただけ、炒めただけの料理を出すお店です」

「おいしければいいと思いますけどね……」


 ルイも仕込みに戻りつつ、お喋りはやめない。ルイがやっているのは煮込んだひよこ豆をペーストにする作業だ。乾いた豆を水で戻すところから始めて、かかりきりではないが丸一日くらいかかる。それも昼食の付け合わせに、ほんの少量だけ添えられる。まさに贅沢な一品だ。


 彼の常識では、時間と手間がかかっているものほど格式ある良い料理なのだ。流石に魚介はさっと火を通すだけだが、その分付け合わせやソースに手間をかける。


 また、新しい料理も格式がないとされる。つまり、伝統的な目新しさのない料理ばかりとなるのだ。エレナはルイとケンカにならないように、少しずつ昼食を味見してもらってルイの意識改革を試みていた。


 特に今日の昼食は、思い切ってシンプルなオムレツにする予定だ。元の世界で働いていたホテルでは、朝食のオムレツ担当もしたので自信がある。


 しかしオムレツとは、卵を溶き、半熟の半円形に焼きかためただけのもの。庶民の料理とされている。


 格式を重んじる食事ばかり出されるダビドは、一度も食べたことがないそうだ。しかし朝食に添えられるゆで卵は、100年前から決まっているのでありなのだそうだ。本当に意味がわからないとエレナは思う。


(ゆで卵が好きなら、普通にオムレツも気に入ってもらえるわよね)


 オムレツの定番であるトマトソースを仕込みながら、エレナはまた鼻歌を歌う。


 そのとき、厨房の扉が勢いよく開かれてエレナは振り向いた。驚いたことに、現公爵たるリカルドが厨房に足を踏み入れている。豪華な衣裳が厨房に似合わなかった。


「お前、ここで何をやっているんだ?」


 厨房にいた全員の注視をものともせず、リカルドはエレナに一直線に向かってきた。


 質問を面倒に感じ、エレナは肩をすくめた。エレナはエプロンを付け、木べらでトマトソースをかき混ぜている。


(料理以外の何があるっていうの?)


 無視して鍋に向き直ると、リカルドがすぐ横に迫ってきた。


「質問に答えろ」

「面倒くさいなあ。見ればわかるでしょ?」

「なっ………」


 ついに敬語さえもやめた失礼な態度に、リカルドは絶句する。何もできず見守っているルイや、メイドたちはヒッと微かな悲鳴を上げた。だがエレナは挑発的に木べらを動かし続けた。


 調理台の何もないところをリカルドが叩き、大きな音が鳴った。


「そうやって、料理しているふりか?素人が料理人の手を煩わせるな」


 エレナの視線は鍋に注がれているが、すぐ横に激しい怒りの気配がある。それでもエレナの心は平穏だった。


 料理人としての修行中は、上司や同僚にもっとひどく罵倒されたり、下品な言葉を投げかけられてきた。リカルドなど、まだまだ上品といえた。やはり貴族の坊っちゃんね、と笑いだしたくなるほどだ。


「お、お言葉ですが、公爵様。エレナ様は素人ではないです!もうやめて下さい!」


 ルイが震える声で擁護してくれたので、そのことに感動して、エレナの手が止まった。


「まあ、ありがとうございます」

「俺を無視してるくせに、料理長には反応するのか!」


 リカルドの声音に怒りが増す。その勢いにつられ、やれるとこまでやってやろうとエレナも燃え上がった。


「うるさいわね!料理の邪魔をしないで!!」

「何だと?俺に向かってうるさいって言ったのか?」

「そうよ」

「信じられん……」


 怒るかと思いきや唖然とするリカルドに少し勢いが削がれそうになるが、エレナは鼻で笑った。


「ふん、世間知らずのお坊ちゃんね」

「おい、こいつの頭は正気か?」


 今度はリカルドがエレナを無視し、ルイに話しかけている。巻き込まれたルイはどっち付かずに首を傾げるばかりだ。これ以上長引かせても仕方ないかと、頭ひとつ分背が高いリカルドを睨み上げた。


「とにかく、私はダビドと雇用契約を結んで料理を作っているの。邪魔しないでちょうだい。それに、一応はあなたの分もあるんだから」

「じゃあ今日だけ食べてやる。それで不味かったら、責任取れよ」

「どうやって?」

「ここを出ていけ」


 リカルドの親指が、乱暴にどこかを指し示した。


「そんなの、何が出てもまずいっていうつもりでしょ?その手には乗らないわ。それにこの邸の主人はダビドなんだから、好き勝手言わないで!ダビドがおいしいって言ってくれたら、それでいいのよ」


 とにかく、今のエレナにとってはダビドの感想が全てだ。ルイの料理ももちろんおいしいが、料理には目新しさも必要だと思う。驚きが、おいしいという感想になり得るとレジャー産業に関わるうちによく学んだ。


 だから多くの料理人は、料理の見た目を華やかにしたり、意外な組み合わせを研究する。記憶に残る料理を作ろうとする。


 食べることは、人生にとって大切な楽しみなのだ。


 そのとき、エレナの黒い瞳が星のように輝いた。煮込み中の火が瞳に映り込んでいるだけだが、リカルドは超常現象のように目を離せなくなる。


(何だこのキラキラした瞳は。こんなの初めてだ)


 威嚇のつもりなのか、肩をいからせている姿も、色気のかけらもなくきっちりと後ろでまとめた黒髪も、今までリカルドが見たことがない女の姿だ。


 鼓動が速まり出したところで、ぐいっと体を押される。


「じゃあ、調理の邪魔なので出ていって下さい」

「邪魔だと?!」

「じゃ、ま!さっきからリカルド様は耳が悪いみたいね!」


 厨房の出入り口まで追い出されても、リカルドはなぜか抵抗できなかった。バタンと扉が閉められ、中から物を動かす音まで聞こえる。開かないよう、重いものを扉前に置いているらしかった。


「くそ、何なんだ」


 無意識に拳を固め、やり場のない怒りをもて余す。生意気な女がどんな料理を作るのか、それだけが気になった。


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