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市場

 

(働いてないのにお金をもらったら愛人に見えちゃうんじゃないの?!いや、でもこの感じ……ダビドは私を完全に子ども扱いしてるわ)


 ダビドは皮袋を開けて中身を取り出し、丁寧に貨幣を説明してくれた。エレナの想像通りに金貨、銀貨、銅貨の3種類があった。


 金貨がブガリで、1ブガリが、12ルード銀貨。銀貨1枚は、31ロミア銅貨だというややこしいものである。

 10進法じゃない上に、通貨単位が1つではない辺りにうんざりとするが、文句は言っていられない。ダビドは覚えられないエレナに怒ることなく、何度も繰り返して教える。


「あの、もしかして息子さんにも昔、こんな風に教えたりしました?」


 ダビドは虚を突かれたように金色の瞳を見開く。


「はは!全くその通りだ。懐かしいと思っていたよ」

「普段の生活だと、お金を実際に使わないんですよね」


 エレナも、こちらの世界に来てダビドの屋敷で暮らすようになってからというもの、買い物などをしていない。


「リカルドに貨幣価値をわからせるために、市場に連れてきたりしてたんだ。ああ、エレナは違うよ。純粋に買い物を楽しんでもらおうかと思ったんだ」

「品物を見てるだけでも楽しいです。連れてきてくれて、ありがとうございます」


 周囲に目を向けると、エレナよりは簡素な服装の人が大半である。エレナのドレスは布地からして高級品であるし、靴までピカピカの新品だ。改めて、自分はダビドに拾われて幸運だったなと噛みしめる。


「楽しいだと?結論を出すのが早すぎるな。もっとこの市場を見てからでも遅くはない」

「確かに、そうですね」


 ダビドの冗談にくすっと笑って、エレナは興味を惹かれる方向へと足を進めた。ダビドは歩調を合わせ、売り物を説明してくれる。


 エレナは、料理人としての道を邁進することに夢中でプライベートは充実させてこなかった。つまり、男性とふたりで連れ立って、街中を歩くという――デートのような経験が今までなかったのである。


(こんなに楽しく過ごせるのなら、もっと早く経験しておくべきだったかな)


 ひとりは自由きままだけれど、思ったことを、すぐに伝えられるふたりというのも悪くない。悪くないどころか――


「では、ここからは別行動にしようか」

「えっ?!」


 気分が盛り上がってきたところで、突然にダビドから別行動を告げられ驚きの声が上がる。


「さっきからエレナは全くものを買っていない。私が横にいると買いづらいのだろう?」

「いえそんな、ただ無駄遣いは良くないし……」

「全部使っていいんだ。失敗しても、それが経験になる」


 重々しく諭され、エレナは頷くしかなかった。人生の大先輩の言葉には、説得力がある。


「念のため、これを付けてくれ」


 ダビドは、懐からまた何かを取り出した。細い笛が繋がった鎖である。それをするっとエレナの首にかけた。どう見ても笛だということを確認して、エレナは顔をしかめてしまう。


「私、子どもじゃないんですけど?」

「エレナはこちらの世界の経験が浅いし、心配だから。迷子になったらこれを吹いてくれ。すぐに駆けつける」


 やはりダビドに子どものように思われているとはっきりわかり、エレナは返事だけはした。もちろん迷子になるつもりは微塵もない。今いるアクセサリーの店を目印に、しばらくあとで合流することを約束した。


 そうして、エレナは好き勝手にひとりで市場を見て回る。ハーブの苗や、アンティークの食器、手作りの石鹸などを買った。


(今まで日常生活に不便はないと思ってけれど……確かに自分で自由にものを買えるのって楽しい!)


 ダビドの気遣いに心から感謝がこみあげた。目新しいものがいっぱいで、豊富な軍資金がありがたい。そして、下らないものを買っているところを見られたくはないと密かに思っていたと自覚する。


 下らないものとは、錆びた包丁だ。


 エレナは包丁を研ぐのが大好きなのだ。錆びてボロボロの包丁を研きあげて輝きを取り戻すのは、独特の快感がある。そういった汚い包丁やナイフを見つけては、買い求めた。


「すごい、包丁の柄の部分もこっちの世界はデザインが全然違うから面白いわ。伝説のナイフみたい」


 どっさりと買った荷物を、これまた適当に買ったバッグに詰めて、エレナはほくそ笑んだ。荷物は重いが、戦利品の喜びがある。


 ふと大勢の騒ぐ声が聞こえ、その方向に顔を向けた。


「何か、出し物でもあるのかな?」


 人だかりができているので、こちらの世界の大道芸人でもいるのかもと興味が湧いた。小走りにそちらへと行ってみる。なぜなら、火花のようなものがパチパチと上がっている。恐らく、魔法だ。


 人だかりの後ろについたつもりだが、驚いたことにその瞬間、人垣がさっと左右に割れた。


「え?」


 猛然と走ってくるのは、馬の群れだった。馬に追われるようにして、人の群れも迫っている。ドカドカと足元に響く重量感、微かな生臭い匂い。よけろ、と誰かが叫んでいる。


 眼前にまで馬が迫り、避けなければいけない、と思う。だが混乱した頭は、右と左、どちらに動くべきかわからない。体が硬直した。


「エレナ!」


 名前を呼ぶ声と共に腕を引かれ、エレナは身を預けた。


 一瞬遅れて、ダビドに抱きしめられていると理解した。いつの間に駆けつけたのか、暴れ馬からエレナをかばい、退避させてくれたのだ。


(たくましい……)


 温かみのある、広い胸と力強い腕にエレナは場違いに感動した。ダビドはとても死期を過ぎた病人とは思えない。ダビドに手を引かれて、通りの端にまで移動した。


「大丈夫か?全く、迷惑な誰かが馬車馬を暴走させたんだな」

「は、はい。大丈夫です」

「警吏が今、事態を収拾させている」

「すみません、楽しいことかと不用意に近づきました」

「仕方ないさ、エレナはまだこちらのことを何も知らない。離れて悪かった」


 心配そうにすがめられるダビドの金色の瞳にキュンとした瞬間、胸が締め付けられるように痛んだ。


「エレナ?!」


 人生で経験したことすらない、声も出せない痛みが全身を襲い、エレナは気を失った。






 次に目が覚めて最初に見たものは、まだ見慣れていない私室の天蓋だった。ダビドが与えてくれた、とてもかわいらしい部屋。薄いピンクの布がたわませて張られている。


「エレナ」


 声をかけられ、エレナはガバッと身を起こす。ベッドの横に付き添うようにしてダビドが椅子にかけていた。


「まだ寝てていい」

「ごめんなさい、私」

「謝ることはない。急に気を失ったから、何事かと思ったが……」


 エレナは徐々に、気を失う直前の記憶を思い出した。危ないところをダビドに助けられ、ついキュンとしてしまった――そのときに突如激しい痛みに襲われた。


「多分、驚いただけです。元の世界で馬は見慣れていないので」

「本当に?医者に簡単には診てもらったが、もっと詳しく調べた方がいいんじゃないか?」


 エレナはわかってしまった。これこそ呪いによるものだ。女神にかけられた呪いは、確かに発動している――ダビドの顔を見ないように俯いた。


「大丈夫です、これでも若いですし」

「はは、確かにそうだ。君は若い。まあ、しばらくは無理しないようにな」

「気をつけます」


 ダビドにときめかないよう、気をつけようと決意した。むしろ、エレナは恥じていた。


(優しくてお金持ちで意外にたくましいすてきな紳士だからって、そう簡単に好きになりかけた自分が怖い!)


 幸せなのだ、とエレナは実感した。この世界に迷い込んだものの、ダビドに拾われたおかげで、飢えることも、寒さに凍えることもない。だから恋なんて甘い夢を見ようとするのだ。


 ダビドの心には、しっかりと亡くなった妻が息づいている。その上、年齢的に娘のように思われている。


(今のままでいいの。私は、ダビドに少しでもおいしい料理を食べてもらいたいだけ)


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