できること
急激に意識が浮上し、エレナは目を開けた。以前もあった気がするが、リカルドが真剣な眼差しで見下ろしていた。
「……リカルド?」
どうしてここに、とエレナは訊こうとした。室内が暗いせいでリカルドの纏う雰囲気まで暗く見えた。彼の美貌は鋭角に削られ、影ができている。閉じられたカーテンの向こうに朝の気配はなく、深夜と早朝の間と思われた。
「やっと事態が一段落したから帰ってきたんだ」
「そうなの、良かった」
「父上の名を呼んでた」
ギクリとしつつ、エレナはベッドから半身を起こす。
「夢に出てきたから」
夢の内容は鮮明に覚えていたが、後ろめたさと恥ずかしさがあった。未だにダビドを引きずっているのかと言われたらその通りなのだ。日常生活を送れるようにはなったが、おそらく一生、折に触れて彼を思うのだろう。
「俺の名前を呼んで欲しいものだな」
「リカルドのことを相談してたのよ」
「ふうん」
リカルドは金色の瞳を細め、明らかに拗ねていた。怒ってはいないのがまだ救いだ。エレナは彼の冷たい手を取り、両手で握った。
「もっと話し合えって言われたわ。私たち、まだまだ話していないことだらけだし、人生は長いから」
「確かにな。俺も話したいことがたくさんある」
「でも空腹で話すとイライラしちゃうかも。とりあえず、朝ごはんにしましょうか」
まだ早すぎる時間なので、誰も起こさずに顔を洗って簡単な服に着替え、厨房へと向かう。エレナが作ると言い張ったため、リカルドもついて来た。
まだ誰もいない広い厨房に二人でいるのは新鮮な気分だった。
「パンケーキでも焼こうかな?」
「パンケーキか。子どものとき以来だ」
リカルドが目を輝かせるのでエレナは腕まくりをした。薄力粉をふるい、砂糖やふくらし粉の計量を始める。
物珍しそうにその様子を見守るリカルドは、ポツポツと軍事演習中に起きた事件の顛末を語った。
百人規模で発動させる魔法が暴走したのは、妬みによる故意のものだった。
ダビドの跡を継ぎ、若くして重責に就いたリカルドを失脚させようとしたものだ。魔法部隊のうちの一部が結束し、本来の目標から逸れるように操った。
「だけど、目標から外れるだけじゃなくて国境を越えそうになった。そうなったら大問題だ。とっさに俺に向けさせて、同時に解除魔法を発動させた。まあ、いくら俺でもあの一瞬で無効化は無理だったが」
リカルドが皿だけは運びつつ、片眉をしかめる。エレナも同様の表情となった。
「それで怪我をしたのよね?絶対に許せないわ」
「致命傷は避けられた。俺だからな。ただ、戦争で使う予定のたちの悪い攻撃魔法だから治癒魔法を阻害する術式で、魔法薬じゃないと治りが悪い」
「ちゃんと治ったの?あとで見せてね」
「ああ」
微妙な表情でリカルドは頷いた。リカルドの衣服の下を透視するようにエレナは目を細めた。
「それで、その人たちは当然処罰されるのよね?」
「ああ、国の宝である俺を傷つけたんだからな。軍法にも違反したから裁判ののち監獄に入るし、貴族家出身のやつらは家門にまで罪が及ぶ」
片面を焼き終えてひっくり返したパンケーキはきつね色の面を見せ、食欲をそそる。リカルドは唾を飲み込んだ。
「できるだけ厳罰を与えてもらうよ」
「私は何の力にもなれなくて残念だったわ」
「そんなことない」
エレナは注視していたフライパンから顔を上げ、彼をちらりと見た。
「エレナの存在があったから、冷静に対処できた。正直、暴走した魔法を俺が食らったときは痛くて腹が立ったし、怒鳴りつけたくなった。どさくさに紛れて反撃してやりたくもなった。でも、そんなことエレナに言えないし、それじゃいつまでも父上を超えられないからな。エレナにかっこ悪いと思われたくなくて、俺は正々堂々と卑怯なやつらと戦ったんだ」
「何と言ったらいいのか……」
エレナは肩をすくめた。ダビドとリカルドを比べてるつもりはないのだが、そう思われているらしい。
「やっぱりさ、父上は偉大すぎたし、俺は戦争が起きていない状態でははっきりとした功績は挙げられない。でも、地道にがんばらないとな」
「うん。リカルドはすごく偉いわ」
「そうだろう」
はにかむ彼を見て、かわいいなとエレナは思った。リカルドはときどき友達のようで、弟のようでもある。よくもこんな純粋に育ったものだと感心すらしてしまう。
焼きあがった大量のパンケーキを皿に盛り付け、小さな丸椅子を持ってきて、銀色の調理台に並べた。
バターをたっぷり塗り、メープルシロップをかける。厨房の片隅で、行儀悪くそのまま食べ始めた。リカルドは一口食べて、打ちのめされたように体を傾けた。
「今まで食べたパンケーキの中で一番うまい。厨房で食べるとうまいのか?」
「焼き立てだからね。私の腕もあるけど」
「エレナの腕が最高なのはわかってるよ。俺、幸せ」
リカルドは大食漢気味なので、旺盛な食欲でパンケーキを何枚も食べた。見守っているとエレナの胸の中で、彼への愛情がムクムクと膨らむのがわかった。
(私って単純ね)
自分が作ったものを喜んで食べている彼の姿は、好きにならずにはいられないものだ。そして、やはり自分で腕を振るいたいという原点に立ち返る。
偉いオーナーシェフのようにレシピだけ作り、あとはほかの料理人に任せるだけではやり甲斐が足りない。自分の店で、自分が作った料理を出したいのだ。
「あのね、私、やっぱりレストランを開こうと思うの……いい?」
「もちろん、応援するよ。だけど客には顔を見せないでくれ」
「どうして?公爵夫人が料理人だなんて恥ずかしい?」
「そんな訳あるか。立派なことだ。ただ、そんないい笑顔を見せたら客が惚れるだろ」
「え?」
「さっきから、ニコニコしてすごくかわいい。よりおいしくなる」
言ったあとに、リカルドは大きく切ったパンケーキを口に放り込んだ。エレナの顔をじっと見ながらもぐもぐと口を動かす。
「や、やめてよね自然にできなくなるから……」
どういう顔をしていいのかわからず、エレナは口を曲げた。してやったりという感じでリカルドは笑い出し、肩を震わせた。
その後、忙しくしている間に時は流れ、エレナとリカルドは結婚式の日を迎えた。二人の間には小さなケンカは何度もあったが、破局することはなかった。
離れるつもりは互いに全くないのだ。折り合わない点は妥協点を探し、議論を重ねた。
エレナは太りにくいレシピ本とマリア妃の日記の翻訳を刊行し、すっかり有名人となった。
今も売れ続けているので、ジーノシュア国で一番売れた本になる日も近いと言われている。
レストランは出店する場所を決め、今は建物を建てている最中だ。
式を行う大聖堂周辺には、既に大勢の人々が詰めかけて賑わっていた。
ロランディ公爵であるリカルドと、エレナの結婚は国を挙げて行われる。式の後で、エレナ監修の料理が一般客にも振る舞われるということでの大盛況ぶりでもある。
エレナはウエディングドレスへの着替えを終え、控室で国王の訪問を受けていた。
リカルドは両親を亡くし、エレナもまた異世界人であるために、国王と王妃が式で父母の役割を担うと名乗り出てくれたのだ。
そしてジーノシュアでは、異性の親が式の前に最後の言葉をかけるしきたりがあるというので、二人きりになっている。
「美しい花嫁で、本当にめでたいことだ」
国王アルマンは、赤みがかった鳶色の髪と金色の瞳をした威厳ある人物だ。ダビドの兄であるため、面立ちは似ていた。
しかしダビドの葬儀のときにいくつか言葉を交わして以来のため、エレナは緊張してしまう。
「ありがとうございます」
「これからは義理の叔父になるのだから、そう堅苦しくならなくてよい。今までろくに時間を取れずに済まなかったな。今後は何かと顔を合わせる機会も増えるだろう」
品のある微笑みを浮かべるアルマンに対して、エレナはぎこちなく笑った。
(国王陛下って感じの圧がすごいんだもの)
今さらながら、彼を前にしてダビドを理解した。ダビドは上品な紳士のようで、王族としてはかなりやんちゃな人物だったのだ。
リカルドがああなるのも当然の話だった。アルマンは彼らの家系の証である金色の瞳で、瞬きもせずじっとエレナを見つめた。
「エレナ嬢、私はあなたに心から感謝している」
「はい?」
「生前のダビドから手紙をもらっていたんだ。あなたに出会い、どれだけ心が救われたかと書いてあった。不甲斐ないが、私には全く不可能なことだった」
「手紙があったんですね。でも、私は特別なことは何も……」
「あなたは確かにひとことで言える特別な能力があるわけではないが、既にいくつも奇跡を起こしてくれた」
くすぐったい気持ちで、エレナは大きく広がったドレスの下でそっと足をもぞもぞさせる。
「お礼にならないかもしれないが、言ってもいいかね?」
「何でしょう?」
勲章の授与でも始まりそうな厳かな物言いを少しくだけさせ、アルマンは目元に力を入れた。
「私は大した魔法使いではないんだが王という立場上、魔法を見破る必要があってね。目だけは鍛えているんだ」
「そうなんですね」
「エレナ嬢には大した魔法がかけられてるな。身体保護と追跡と……ふたつの意味の虫よけが幾重にもかけられ、巧妙に隠されている。ふむ、リカルドが独自に開発した術式か」
「え?」
エレナは目を凝らし、自身の体を確認した。魔力でできた手枷をかけられたときはすぐに見破れたのに、今はどれだけがんばっても全く見えない。
疑いの眼差しでアルマンを見上げるが、彼はさもおかしそうに笑っていた。
「絶句ものだよ。リカルドの偏疾的な愛を感じる」
「解除してもらいます……」
「私以外には見えないからそのままでいいではないか。私もリカルドに習い、王妃にかけたいくらいの愛情たっぷりの魔法だな」
(やっぱりダビドに似てるところもあるのね)
アルマンの笑い声はダビドを彷彿とさせる。今この場にいるのがダビドであったなら、と考えそうになり急いで取りやめた。
(国王陛下で良かったわ。泣かないでいられた)
そろそろ式が始まる時間だと、扉の向こうから知らせがあった。アルマンがエスコートのため、肘を曲げる。そこにエレナは遠慮がちにつかまった。
豪華なウエディングドレスが長く重いため、ひとりでは歩けないのだ。
「末永く、幸せにな」
「ありがとうございます」
大聖堂の身廊を歩き、待っていたリカルドと微笑みあう。神官が祝詞を述べ、大勢の前でエレナとリカルドは誓いを交わし、夫婦となった。
この日の大聖堂は光に溢れ、隅々まで輝いていた。参列する人々は祝福のために手を叩き、花びらを撒いた。
聖歌隊は祝福の歌を高らかに唄い上げ、天まで届きそうだとエレナは思った。
結婚式が人生の頂点ではないとエレナは理解している。高揚感はやがて引き潮のように流れて日常に溶け込み、下らない抑圧に苛まれるのだという予感がある。
しかし、隣のリカルドは目を赤らめ、感動していた。
このかわいい人を守らなければ、とエレナは握る手に力を込めた。
リカルドのように大層な魔法はかけられなくとも、できることは必ずあるのだから。




