木立の中で
落ち込むエレナを気遣い、シモーナやルイは明るく励ましてくれたが、空虚感は埋まらない。
もしもリカルドが亡くなってしまったら、今度こそ生きていけないだろうとエレナは思っていた。今は事故の処理に動いているため直接の危険はないはずだが、何かあればリカルドは前線に立たねばならない立場だという。それが豊かな国、ジーノシュアの実情だった。
それでも帰ってきたリカルドに心配をかけないようにと、エレナは規則正しい生活を送り、出された食事は飲み込んだ。
何かやっていないとおかしくなりそうだったので、マリア妃の日記の翻訳、料理本のレシピの研究、編集者との打ち合わせに精を出した。実際のところ、やることがあるのは救いとなった。
「今日はここまでね」
ある日の深夜、エレナは日記の翻訳作業で凝った肩を伸ばし、ベッドにもぐり込んだ。ひんやりしたシーツが、寝間着越しに肌を刺激する。すっかり冷える季節になっていた。
エレナは仰向けになり、固く目を瞑った。マリア妃の日記の中には、幸せそうな記述がたくさんある。それらを思い浮かべながら、なんとか現実から離れる術を覚えていた。
気がつけば、エレナは馬に乗っていた。
(あっ、夢だ)
これだけはっきりと夢と分かる体験は初めてである。
それというのも、エレナが乗る栗毛の馬、ファリケの手綱を曳いているのがダビドだからだ。ダビドが生きて動いている。それは、夢でしかあり得ないことだ。
ダビドはファリケと似た濃い茶色の髪をしていて、馬上から彼のつむじを眺めるのは至高の喜びだった。日頃、視線に晒されない、背が高い人の頭頂部は気ままに渦を巻いていた。
エレナは、目覚めるのが嫌でしばらく黙って馬に揺られて過ごした。
ファリケの蹄鉄が小道を踏みしめる平和な音だけが、夢の世界を支配した。
ダビドが馬を曳いてくれるのなら、何の心配もいらなかった。ファリケもまた、大きな瞳でダビドばかりを見ている。背中に乗るエレナのことはどうでもいいようだった。
エレナは久しぶりに安心して深呼吸をした。終わりかけの、穏やかな空気だ。
夢なので何かを話さなければと緊張することもない。しかしよく考えると、ダビドが生きているときもそのような心配をしたことはなかった。ダビドは程よく話題を振ってくれたので、何も考える必要がなかったのだ。
(私って、ダビドにすごく甘えてたのね)
不意にダビドが振り返り、穏やかな眼差しを向けた。目尻にできる笑い皺が懐かしく、エレナはぎゅっと胸が詰まった。
「最近は乗馬の練習をしてないようだな?」
「あ、ごめんなさい、その通りです……」
ファリケは首都の公爵邸に連れてきたが、厩舎の人に任せきりとなっている。ファリケにも、贈ってくれたダビドにも申し訳なくて、語尾は消え入るように小さくなった。
「どうしてやめてしまったんだ?」
「だって、まだひとりじゃ乗れないです」
「誰かに頼めばいい。リカルドだって言えばすぐに」
「リカルドは忙しいみたいです」
ダビドが話している途中であるのに、エレナは口を挟んでしまった。彼は眉を大げさに上げる。懐かしい表情だった。
「おやおや、困った息子だ。エレナをこんなに悲しませて」
「仕方ないです、重要なお仕事ですから。わかっているんです」
続きを促すように、ダビドがひとつ瞬きをした。全てを見透かすような金色の瞳だ。エレナは好き勝手に喋ることにした。
「でも、わかっていても感情がどうにもならなくて、つらいんです」
「そうだな。いくつになっても、感情は思うようにならないものだ。隠したり、自分を誤魔化すのが上手くなるだけだ」
「そうなんですね」
ダビドは前を見て歩きながら小さく首を振った。
「だが生きていれば、ちゃんといいこともある」
「そんなこと言われても」
「エレナなら大丈夫だ」
励ましてくれているのだと、エレナは理解した。自分の願望がそうさせているのかと苦い気持ちにもなった。
「……私はダビドとこんな風にしていられたら、それで良かったのに」
ダビドは驚いたように振り返った。
「それはいけない。エレナの人生を生きないと」
「私の人生って何なんですか?普通の人みたいに、まともに妻になったり、母になったりしなきゃいけないんですか?」
エレナは語気を強めた。リカルドに求められ、思い描くようになった未来。かつてのエレナは料理人として大成し、レストランを開く夢を持っていたが、いつの間にかすり替わっていた。
「エレナが望むのならそうだ」
「もうわからないんです」
風景はゆるやかに流れ、間もなく丘の頂上に辿り着きそうだ。白樺の枝がそよぎ、黄色い蝶が舞っていた。
「本当はわかっているだろう、エレナ。どうしたいんだ?」
これは夢なのだから、とエレナは自分に正直になった。どうしたいのか問われ、隠していた醜い欲望を引きずり出す。
「本当に結婚して子どもが欲しいのか、ときどきわからなくなります。私はただリカルドに愛されたいだけなんです。だから、彼がいいと言っても夢を諦めてしまいました。彼との時間を大切にしたいし、嫌われたくないんです」
目の眩むような愛情をくれたリカルドに溺れ、エレナはひどく弱くなっていた。自分が自分ではなくなっていた事実に気づき、じわりと恐怖した。
ダビドはついに足を止め、完全に振り返った。太陽は真上にあり、ダビドの影は濃く短い。陰影が際立っていた。
「これは、自分の息子かわいさに言う訳じゃないが」
「はい」
エレナは真摯に頷いた。こういうときのダビドはいつも冷静で、自分の息子だからと優遇する人ではなかった。
「リカルドは、一度好きになった人は何があっても守り抜く。そのように育てたつもりだ。それに私も、ヴィオレッタも執念深い性質だから」
「私のやりたいようにやって大丈夫という意味ですか?」
「その通りだ」
「でも私、ちゃんとリカルドが好きなんです。だからそのくらい我慢しないと」
愛情表現が得意ではないエレナは、せめてもの形として彼に合わせることにしたのだ。なぜなら、一日の時間は有限で、体はひとつしかないのだから。
ダビドが憂いを含めて笑う。
「何かを我慢して、苦しむほど真実の愛だなんて発想、どこから来るのだろうな?」
エレナは息を呑んだ。それはダビドのために、あらゆる食事を拒んだヴィオレッタを意味していた。夢を諦めようとするエレナのことでもある。自分の我慢が相手の幸せに繋がると思い込むのは容易だった。
「そう、ですね。おかしな話です」
「私たちには言葉があるのだから、よく話し合うのがいいだろう」
「ええ、本当に」
なぜリカルドと話し合うこともせず、自己満足で諦めていたのだろう。レストランの開業準備は急がず、ゆっくり進めればいいだけかもしれない。その間に結婚式などがあるとしても――
エレナは浮き足立った気持ちになり、ファリケの背中から降りたくなった。何かしなくてはいられなく、すぐにでも自分の足で駆け出したい。
だが、その前にどうしても言いたいことがある。
「ダビド」
「うん?」
名を呼ばれたダビドは渋面を和らげ、感じよく微笑んだ。裏表なく向けられていると、信じ切っていた笑顔だ。
「私はあなたに会えてよかったです」
「私もだ」
お別れの言葉のようで、彼が生きているときにはどうしても言えなかった言葉。エレナは胸がいっぱいになりながら、笑おうとした。




