凪
思っていた以上にリカルドは偉大な人物だった。それなのに、昨日はエレナの大したことのない用事に本気で付き合ってくれた。
エレナは歩きながら、ふと廊下にある大きな鏡で自分の姿を見た。廊下に一定間隔で飾られた絵画の中にひとつ、揃いの額縁で中が鏡になっているものがあるのだ。
エレナはそこに映るのはあまり好きではなかった。自分の顔を芸術的だとまでは思えない。
最近はシモーナや周囲の人に磨かれているのでましにはなったが、多才すぎるリカルドに愛されるだけの価値があるのか、鏡像に問いかけた。
そして、ため息をついた。
(私に何ができるんだろう?せめて晩御飯くらいは作ろうかな)
厨房に顔を出し、ルイを呼び出した。なお、料理長を務めるルイの父親はまだ現役でいる。料理本に載せるレシピの研究に数人の手を借りているので、話し合いの結果、そのままになっているのだ。
「おはようございます、エレナ様。お元気そうで何よりです」
ルイは空気が読める男なので、いくつかの意味を込めつつ爽やかに笑っていた。
「おはようございます。もう晩餐の用意を始めてると思うけれど、私も一品くらいは作ってもいいかしら?」
「もちろんですよ。閣下もお喜びになります。本日のメニューを説明いたしますね」
ルイは流れるように晩餐のメニューと食材を語った。秋も深まりつつある季節なので、キノコや青魚が入っていた。
しかし、リカルドが一番好きなのは牛肉である。
(牛肉って、素材のうまみがありすぎてシンプルが一番みたいになるけど……付け合わせくらいはね)
エレナは豊富なスパイス棚を眺め、片っ端から匂いを嗅いだ。こちらではスパイスの種類が微妙に違うが、カレー風味を再現できないかと考えたのだ。それで豆でも煮るつもりでる。
(クミンみたいなのがあればすぐにカレー風味になるし、あとはターメリックと辛味……あればほかのスパイスも)
完成したスパイスの組み合わせは、厨房の人を惹きつける魅惑的なものとなった。
しかし、リカルドは夕方になっても帰って来なかった。
エレナは、自室で翻訳作業をしていたのだが、次第に手につかなくなってくる。空腹感と寂しさで、ぼんやりと二階の窓から馬車の姿を探すことしかできず、無為の時間が流れた。
いつもなら完全に日が沈む前にリカルドは帰ってきたので、エレナは胸騒ぎがした。国境の近くで行う演習でトラブルがあったのではと、考えずにはいられない。
外は闇に沈み、窓から様子を窺うのは難しくなった頃、急ぐ足音のすぐ後に扉がノックされた。
「はい」
やって来たのは執事のディミトリだ。灰色の髪をきちんと撫でつけ、いつも落ち着いた雰囲気の彼だが、今はそうではなかった。
「エレナ様、先ほど軍の伝令が」
「リカルドに何かあったんですか?!」
全てを聞く余裕もなく、エレナは問いかけた。ディミトリは安心を誘うようにぎこちなく笑う。
「そういったことは機密扱いになるようで、教えて下さいませんでした。ただ、閣下からの伝言でございました。本日は遅くなるそうです。もしかしたら数日帰れないかもしれないので、エレナ様に置かれましては、待たずに食事をしていて欲しいとのことです」
「……伝令の方はもう帰ってしまいましたか?」
「ああいった方は、口が固いのです。必要以上には話して下さいません」
エレナの気持ちを読んだかのようにディミトリは言った。エレナは今すぐにでも伝令なる人物の首を締めて情報を吐かせたかった。
(頭がおかしくなりそう)
リカルドに何があったのか想像するのは恐怖だった。エレナは床が歪み、沈むような感覚に壁に手をつく。
結局、翌日の深夜になる頃にリカルドは帰宅した。
ドアを開けて寝ていたエレナはかすかな彼の声に飛び起き、ガウンを羽織って玄関ホールへと階段をかけ降りた。そこに公爵邸の不寝番をしている衛兵もいたが、構っていられなかった。
「エレナ、起こしてしまったか?」
見上げるリカルドは一瞬驚き、すぐに微笑んだ。暗いこともあり疲れて見えるが、紛れもないリカルドの姿をしている。
エレナは勢いのまま抱きつこうかと思ったが、嗅ぎ慣れない薬のような匂いに足が止まった。苦いような、妙な匂いだ。
「どうしたの?怪我をしたの?」
「何でわかるんだ?」
リカルドが困った顔で、自分の腕を鼻に近づけて匂いを嗅ぐ。
「あ、魔法薬の匂いか?」
「魔法薬なの?それって大丈夫なの?」
「もう大丈夫だよ」
気まずそうにリカルドは頭をかく。
「心配かけてごめん」
「ううん、でも、何があったの?」
「説明するよ」
玄関ホールでの立ち話になっていたので、リカルドがエレナの腰のあたりに手をやって歩き出した。階段を登り、エレナの部屋の方へと向かっている。
「私に付き合って、おととい休めなかったせい?」
「俺が失敗なんかするか。それに十分休んで英気を養った」
あとは部屋に入ってからにしたそうにリカルドは口をきつく閉じた。エレナは妙な匂いのするリカルドの腹部を気にしながら、黙って彼の歩調に合わせた。
「失敗したのは、俺じゃなくて部下だよ。国軍全体演習で、大規模魔法を暴走させたんだ」
部屋に入り、扉を閉めてからリカルドは説明を始めた。やはり痛みがあるのか、そろそろと室内のソファに座る。エレナもその横に座った。
「大規模魔法ってのは、百人がかりで発動させる攻撃魔法だ。人数が多いから、普通は何人か間違えてもむしろ問題ないはずなんだけどな」
「私もそう思う」
「暴走しかけた魔法を俺が制御して、ちょっと怪我をした。まあ、部下の失敗は指揮官の俺の責任だしな」
「リカルドのせいじゃないのに」
どうしても気になり、エレナはリカルドの腹部を衣服の上からそっと撫でた。リカルドはピクッと下瞼を痙攣させる。
「そ、そんなに痛いの?」
「大丈夫だ。やっとエレナに会えて俺は嬉しい」
エレナの首筋に鼻先を埋めるようにして、リカルドは抱きついた。エレナもまた、安心感を求めて彼に縋りつく。
「一旦帰ってきたけど、しばらく忙しくなる」
抱きしめたまま、リカルドはそう告げた。エレナは自分の頬の内側を噛んだ。
「今回の事故があったから、何もかもやり直しなんだ」
淡々とリカルドは説明をした。
大規模魔法の制御に失敗したので、そもそもの術式の見直し、有事の際の作戦の変更をしなければならないという。
既に三度も全体演習で成功していたし、魔法部隊のみの訓練でも成功していたものだ。だが、一度でも失敗があったなら、見直さなければならないのが国防というものである。
「エレナは俺がいなくても、やることいっぱいあるし大丈夫だろ?」
「やることがあるとか、そういう問題じゃない気がするわ」
「……寂しい?」
当たり前すぎて、エレナは黙ったまま何度も頷いた。
「ごめんな。俺のこと嫌になった?」
「どうして?」
「俺の生活はこうなんだ。何かあったら、しばらく会えなくなる。だからあんまり言いたくなくて、隠しててごめん」
「先に説明されてても、こうなってたと思うわ」
「そうかもな」
出し抜けにリカルドは体を離し、素早くキスをした。エレナはあまりに物足りなく感じ、もう少しあってもいいのではとちらちらと彼を見上げてしまう。リカルドは苦笑した。
「そんな目で誘惑されると困る。正直言うと、昨日はやばかったんだ。それで生存本能なのか、妙に興奮してる」
「私なら別に……」
危ないところだったと聞くとエレナの胸が痛むが、同時に高鳴ってもいた。怪我の状態は心配だが、確かな感覚が欲しかった。
「そればっかりというのもな」
エレナの髪をいたずらに梳かし、リカルドは余裕のある素振りをした。
「俺はエレナにこの国のきれいな風景を見せたいし、領地外持ち出し禁止の珍しい食べ物も食べてもらいたいんだ。気になるだろ?」
「そうだけど」
「落ち着いたら行こう。愛してる」
エレナの額にキスをしてから、リカルドは自分の部屋で寝ると言い張り、出ていってしまった。
それからは感情の動きを止めたくなるような日々が訪れた。
リカルドが帰って来ない公爵邸はあまりに広く、寒々しく、居心地が悪かった。




