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焦り

 給仕の引く椅子に座り、エレナはオレンジジュースを一口飲んだ。空っぽの胃が甘酸っぱい刺激に喜んで動き出す感じがした。


「どんな話だ?」


 リカルドは大きなオムレツを食べていた。エレナが一度作って以来、彼は毎朝これである。


「私が料理本を書くという話」

「いいんじゃないか?」

「ただね、載せる料理ははおいしいだけじゃなくて、たくさん食べても太りにくい料理というのがテーマ。食べつつ痩せるのが目的の料理とも言える。リカルドはそれを聞いて嫌じゃない?」


 静かにリカルドはフォークを置いた。様々な感情が過っているようだが、不機嫌でないと示すために、口元だけ笑っていた。


「全く嫌じゃない。みんな俺がいつまでも、痩せるとかちょっとした言葉で反応すると思ってるけど、もう大丈夫なんだ」

「……それならよかった」

「見た目や健康を気にして痩せたいと思うのは普通のことだ。エレナが本に載せたいのは、この間、クリツィアに出した料理みたいなものだろ?その前のお茶会では明らかに過食だったもんな。ある程度食べても心配ない料理があるなら、痩せたいばかりに思い詰める人も減るだろう。俺は賛成だ」

「まあ」


 エレナはリカルドを、心底見直した。彼は敢えて言葉に出さずとも、色々なことをきちんと理解していたのだ。


「なんだかリカルド、かっこよくなったわね」

「おお、やっと気づいたのか?俺はずっとかっこいいぞ」


 フンと両手の親指で自分を指し、リカルドは胸を張った。事実なのでエレナは苦笑する。


「外見がいいとは最初から思ってたわ。中身もってことよ」


 嬉しさを隠さず、リカルドは白い歯を見せた。密かに、褒められて喜ぶ犬をエレナは想起した。


「そうか。よし、本を出すなら協力する」

「え、私にも自費出版するお金はあるから……」

「出版社に知り合いなんていないだろ?俺が信頼できる編集者を紹介するよ。知人がいる」


 そう言われてしまうと、反論の仕様がない。エレナはこの世界のどこにも伝手がないのだ。しかしリカルドが間に入ると、エレナは未来の公爵夫人と見られてしまう。自分の力で動きたい気持ちがまだあった。


「ありがたいけど、何だか公爵家の権力で売れるかもわからない本を出させてもらうみたいにならない?」

「間違いなく売れる。先に、翻訳したマリア妃の日記を出版するんだ」

「どういうこと?」


 リカルドは水を、一口飲んだ。エレナも無意識につられ、オレンジジュースを飲む。


「死後発見されたマリア妃の日記は、ジーノシュアの国民にとって悲しい遺物だ。彼女しか読めない言語だから、彼女の帰りたかった無念が書かれているとされていた。ワープ装置は生活をとても便利にしてくれたけど、彼女の犠牲の上に発明されたようで」

「私があの日記をざっと読んだ限り、悲しい気持ちはほとんど書かれてなかったわ。単に恥ずかしい恋心を綴っていただけというか」

「そう。みんなが読みたがるよ。売れっ子作家になったエレナが料理本を出版したら、これも売れる」

「うーん、故人の日記を勝手に本にしていいのかしら」

「俺の感覚としては思い出してくれるだけありがたいかな」


 エレナは軽く腕を組んで考えてみた。死んだあと、自分の日記が本として発売されたら、と。日記を書く趣味がないのであり得ない話だが、メモ程度なら残しているかもしれない。


 料理のメモ、やらなければいけないこと、自分への戒めなどが本としてまとめられ、何十年ものちの時代の読者にくすっと笑われたら――


(少しは恥ずかしいけど、もうどうでもいいものね。思い出してくれるなら嬉しいのかな?)


「そうね、あんまりな部分だけ省けば良さそう」


 エレナとリカルドは、いつの間にか議論に熱中した。昨夜のロマンチックな雰囲気は、星のようなものらしい。昼の明るさの中では欠片も見当たらない。前日までと変わらない二人の関係に戻っていた。


(あれって、日常と切り離された特別すぎる何かだったのね。結局は毎日、少しずつ良くなるようがんばるしかないんだわ)


 恋人同士として、最後の一線を超えてしまったのだ。もうすることがない。焦りすぎたかなと少しだけ後悔し、結婚式の日を遥か遠くに感じた。


 エレナはリカルドの傍にいられるだけで気分は高揚するし、したい話がいくらでもある。

 エレナ自身でやりたいこともたくさんある。しかし、これが婚約者として正しい付き合い方なのか、どうしても自信が持てなかった。


 リカルドはその日、休日を使ってエレナを出版社の知人に紹介した。



 翌日、リカルドは朝から仕事に行くための、いつもの堅苦しい恰好をしていた。肩章や金ボタンのついた上着に、刺繍が豪華なベストだ。


「今さら聞くのも何だけど、リカルドは毎日どんなお仕事をしてるの?」


 回復してからずっと疑問に思っていたことを、エレナは勇気を出して質問した。見送りにエントランスホールまで来るのだが、聞くタイミングを逃していた。


 リカルドは週に一度の休日以外は朝に出かけて夕方に帰るが、どこで何をしているのかエレナは知らない。リカルドからも特に言及はなかった。公爵として持っている領地管理は、秘書官と共に帰ってきてから邸内の執務室で行っている。


「色々あるけど……」


 リカルドは角度ついた凛々しい眉を寄せ、どうかいつまんで素人のエレナに話すべきか悩んでいるようだった。


「そうだな、最も重要なのは国軍所属の魔法使いの強化訓練だ。俺がこの国最強の魔法使いだってことは知ってるだろ?」

「い、一応ね」


 かつて森の小道で、そのように豪語していたなとエレナは思い出した。しかし急に聞き慣れない単語を並べ立てられ、焦ってしまう。


「俺は天才だからな、ひとりで並みの魔法使い千人くらいの攻撃魔法が使える」

「そんなに?」


 冗談ではとつい笑ってしまうエレナの耳元に、リカルドは「本当はもっと」と囁いた。周囲にはメイドたちが控えているので、エレナは照れて耳を擦る。


「王家に忠誠を誓ってるけど、俺は人間兵器みたいなものだからな。王家に協力的じゃない家門の人とは付き合えないし、エレナがエレナで良かったよ」

「まあ、ね」


 貴族社会のことは良く知らないが、異世界人のエレナは当然どこの派閥にも属していない。なお、エレナが異世界からやって来たことは、ダビドが証明してくれた。


「仕事の内容の話に戻るが、今日は後進の育成訓練を兼ねて国境近くで軍事演習をしてくるよ。派手に軍事力を見せびらかすと隣国への牽制にもなるからな」

「あなた、すごく重要なお仕事をしてたのね……」

「ははは、帰ったらもっと褒めてくれていいぞ。じゃあ行ってくるから」


 リカルドが人差し指で自分の唇を触った。エレナは何となく察したが、首を傾げる。


「え?」

「ん?ここはほら、あれじゃないのか」


 やはり行ってらっしゃいのキスをしろとリカルドは求めていた。それがこの世界の、一線を超えた恋人の常識なのかもしれない。エレナが周囲に控える使用人たちを見回すと、彼らは慎ましく視線を床に向けた。


「……っ」


 エレナは爪先立ちになり、触れるか触れないかの軽いキスをする。行動を起こしたのは自分なのに、リカルドの肩でも叩きたくなるくらいに恥ずかしかった。


「行ってくる」


 求めたくせに、顔を赤くして微笑んだリカルドは颯爽と方向転換をして大股で歩き去った。とても格好良いのだが、早く帰りたいと背中に書いてあるようだ。


 自室に歩いて移動しながら、エレナは抱えきれない感情を何とか振り切ろうとした。


(夕方には帰って来るとわかってるのに、離れると寂しい。これが恋愛まっただ中の感情なの?バカみたい)


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