行きつくところ
「俺がもっとまともな人間で、父上に心配されることなく誰かと結婚していれば、エレナはこちらの世界に来ることもなく、向こうで立派に夢を叶えてたんじゃないかと考えてしまうんだ」
リカルドは苦しみながら、ゆっくりと言葉を吐く。
「待って、それはないの。私は元の世界で死にかけたところを呼んでもらったんだから、今生きていられるのもリカルドが……」
いつか言わなければと思っていたことをエレナは説明しようとした。ダビドが祈っていなければ、自分は森の中でひっそりと息を引き取っていたかもしれない。あれはあまりに都合のよい夢のようなものだったが、エレナにとっての真実である。
ダビドのことをもう少し上手く飲み込めて、リカルドとの関係がもう少し落ち着いたら話すつもりだった。
しかしエレナの発言を拒否するように、リカルドは顔をしかめた。
「そんな嘘をつかなくていい」
「本当なの」
「何にしても、俺はエレナから奪ってばかりだ。俺の生活はエレナがいることではほとんど変わらない。ただ幸せで、いいことがあるだけ。エレナは苦労して、俺に合わせなきゃいけない」
「そんなに苦労してない……」
エレナは弱々しく反論したが、届いている手応えはなかった。最早リカルドの一方的な語りとなっている。
「なのに、俺はエレナがもっと欲しいと願っている」
「どうしたらいいの?私の愛情表現が少なかったことは謝るわ。不安にさせた?」
開き直りの境地で、エレナはたずねた。
どこかで終わりを思っていた。幸せだとリカルドは言うが、とてもそうは見えない。
やはり自分は彼に相応しくないのではと考えてしまう。
リカルドは二人の関係をものすごく真剣に考えてくれていた。エレナの求める言葉をくれる。聞いているだけでしびれる程に嬉しかった。
それに対してエレナの思慮は浅く、大して深く考えていなかった。料理の研究に忙殺されていたのだ。
こんな自分であれば、いつか飽きられてしまうだろう。
そもそも、彼の父親が亡くなるかもしれない不安定な時期に、何らかのきっかけで好意を得られただけだ。責任感と愛情の強いリカルドは継続させようと努力してくれているが、エレナは投げ出したくなった。
一番好きだと思ってくれているうちに、終わりにしたい。
この幸せに慣れてしまったあと、リカルドが飽きてしまったら、どう生きていけばいいかわからない。金銭があっても、死んでいるのと同じになってしまう。
エレナが悩んでいる間、リカルドも悩んでいた。ついにリカルドが発言の前の息を吸う。エレナは覚悟して、何を言うのか彼を見つめた。
「俺は、エレナの全部が欲しい」
エレナはつい、笑ってしまった。
「そんなこと?」
その意味は、肉体的なことを表していると思ったのだ。途端にリカルドは羞恥に顔を赤くする。エレナの推測は合っているようだ。
「ごめん、やっぱりいい。俺は酔ってるみたいだ」
「酔ってても、本心でしょ?謝らないで、性欲も食欲もあっていけないものじゃないから」
体と心は明確に繋がっていて、触れ合えば心が動くとわかっていた。恋人同士にだけ許された、愛情を確認するひとつの手段。
エレナは行きつくところまで行って、自分たちがどうなるのか、その結果を知りたくなった。戯れにリカルドの熱を持つ頬を撫でる。
「いいよ、そうしてみよう」
エレナは自分の体の気に入らない部分を晒すことだけ憂鬱だったが、望まれることは嫌ではなかった。それでも男性版美の化身のようなリカルド相手には、かなり気になるが。
「か、簡単に言うなよ。やっぱりダメだ……」
エレナは彼の涙で濡れている頬にそっと口づけをしてみた。微かにしょっぱいが、それよりもっと魅惑的な味がした。
好きな男が、自分のために流した涙は先程飲んだ高級な酒よりずっと甘い。エレナの知らない酩酊感に近づける気がした。
「リカルドの弱いところも、強がりなところも、好きよ」
受け入れられると思っていなかったのか、リカルドは困惑に眉を寄せる。エレナは、今度は唇にキスをした。
「エレナ、嬉しいけど困る。本当に我慢できなくなるから」
「私は好きなように生きてきた。今もそう。あなたが好きだからこうしてるの」
額をくっつけ、吐息のかかる位置で見つめ合う。リカルドの金色の瞳の奥底に、落ちていくようなめまいがした。
◆◆◆
翌朝、エレナは小さな悲鳴で目を覚ました。悲鳴というか、息を吸う音だ。ベッドが振動し、エレナは仕方なくシーツを胸元に引っ張り上げながら上半身を起こす。寝たのはついさっきのような気がした。
「なあに?もう少し寝てたいんだけど」
「エレナ、俺……本当にごめん」
リカルドが顔面蒼白となって謝ってきた。彫刻のような肉体美が朝日に照らされているが、申し訳なさそうに肩をすぼめている。エレナはフンと鼻を鳴らした。
「何で謝るの?寝ぼけてないで、ちゃんと思い出して。楽しく一緒にお風呂に入ったりしたじゃない」
「ふ、風呂だけ?」
「ううん。リカルドはとっても優しかった」
「まっ……?!」
「私は流石にだるいけれど」
「だっ……?」
記憶が蘇ってきたのか、リカルドは青白かった顔を赤く染めた。頬に手を当て、ふるふると震える。
「ねえ、その恥ずかしがる役、私がやりたいんだけど」
「そ、そうだな、ごめん」
「ほら、ぎゅっと抱きしめるのがリカルドの役割でしょ」
エレナはリカルドの腕を取り、ぐちゃぐちゃなシーツの海に引きずりこむ。エレナの指示通りにリカルドはきつく抱きしめた。たくましい胸に耳をつけると、昨夜と同じくらいリカルドの心臓は激しく脈打っていた。
「ふふ、何を今さらドキドキしてるの?」
「混乱してるんだ」
「ゆっくり思い出して。それとも、忘れちゃうくらいどうでもいいことだった?」
エレナはふざけた口調だが、ひっそりと幻滅していた。リカルドは最終的にはそこまで酔っていなかったように見えたが、これはひどい。やっぱり終わるしかないんだと鼻の奥がツンとした。
「エレナ」
エレナの内心を否定するように、リカルドの声が低くなる。密着しているので、全身にぞくりと響いた。昨夜の残響が、まだ耳の奥に存在していた。
「俺はエレナをもっと大事にしたかっただけだ」
「……十分すぎるくらい大事にしてもらった。もういい」
「そうじゃなくて、紳士として、結婚するまでは我慢しようと思ってたんだ。俺は一度ひどいことをしたのに、またこんな……エレナが酔ってるところにつけ入ってしまってごめん」
エレナは一瞬、押し黙った。このまま黙っていようかと心の中の悪い部分が口を重くする。
「ごめん、私は酔ってなかったの。私はどれだけ飲んでもお酒に酔わないから、正気だった。だから私がつけ入って、誘惑したの」
それでもエレナは告白をした。そうしなければ、リカルドばかりに罪悪感を押し付けてしまう。
しばらく沈黙があった。リカルドはまだ記憶を辿っているようで、彼の心臓はバクバクと鳴り響く。
「じゃあ、あんなにかわいいことをシラフで言ってたのか?」
「雰囲気には酔ってた」
「あ、あんなに俺を好き好きって」
「それは記憶を捏造してる」
「俺は酒で記憶を失くしたりしない、朝はちょっと寝ぼけるけど、段々はっきり思い出してきたぞ」
エレナは顔を見られないように、俯いた。既にリカルドの胸に顔を押し付ける形にはなっていたが、今は絶対に見られたくなかった。
「困ったな、俺をどうする気なんだ」
エレナを抱きしめている腕に力を込め、リカルドは焦燥感のある声を出した。
「これで結婚式までどう過ごすんだよ、もっと好きになって、どうしようもない。もう絶対に放せない、エレナに手枷でも付けないと無理だ」
エレナは言葉にならない返事をした。手枷は嫌だった。




