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その後 6

 飲みの誘いに、リカルドは上機嫌だった。彼は決して乱れるほど飲みはしないが、かなりの酒好きだとエレナは知っている。晩餐のときには料理に合わせたワインを2杯か3杯ほど嗜むのが常だ。


「まずはこれ、リンゴのワイン」


 軽そうなものから始めようかと、エレナは小瓶に入ったリンゴワインを二つのグラスに分け注ぐ。


「これは度数が低くて、ジュースみたいなものだな」


 リカルドは軽く香りを嗅ぎ、優雅にグラスを傾けた。


「でも豚肉のロティに合いそう。ソースに使えるわ」

「確かに。それにしても、どうして一気に試そうと思ったんだ?」


 テーブルには20種類ほどの様々な酒瓶が並べられている。


「実はクリツィア殿下を見て、今のうちにこの世界のお酒を味見しておかなきゃって思ったの」

「ん?」

「ほら、妊娠したらお酒飲めなくなるじゃない?」

「ぐっ……」


 ふき出しかけたリカルドは、手で口を押さえて咳き込んだ。


「ちょっと、大丈夫?」


 顔を赤らめながらも、リカルドはすぐに呼吸と真顔を取り戻した。エレナは言い訳にしても露骨すぎたかと肩をすくめる。


 妊娠前にというのもひとつの理由だが、今夜は酒に酔ったふりでもして素直になりたいだけである。


「エレナ……その、後継者のことは義務みたいに思ってくれなくていい。俺は一生結婚なんて無理だと思ってたのに、エレナとならそうしたいと思えるだけで奇跡みたいなものなんだ」

「子どもを欲しいと思っちゃいけないの?授かれるかどうかはわからないけど、私は結婚するならできたらいいなと思ってるわ。リカルドは嫌なの?」


 これは話しておかなくてはいけないことだったなと、エレナはグラスから手を離した。


「嫌な訳あるか。そうなったらいいとは俺も思う。だけど、エレナのやりたいことを優先して欲しいんだ。妊娠したら、少しの食べ物の匂いで気持ち悪くなることもあるって言うから、厨房になんて行けなくなるかもしれない」

「別に一生続くものでもないし、それより……」


 段々と恥ずかしくなり、エレナはグラスを空けた。自分ばかりが先走って想像していたようになってしまった。腹立ち紛れにカッティングの施されたガラス瓶の蓋を取る。すぐにブランデーそっくりの香りが鼻を刺激した。


「それはそのまま飲むものじゃないから、水割りにしろよ」

「わかってるわ」


 勝手に自分の分だけ作り、エレナは喉を潤した。リカルドもまた、整列した瓶の中からひとつを選び、新しいグラスに注ぐ。


「エレナ」

「何?」

「酔ってきてるな。顔が赤い」

「そうみたいね、酔い潰れたら部屋に運んでちょうだい」


 酔ったと指摘されたが、エレナの頭は冴えていた。相変わらず酔いは回らず、理性は欠片も鈍らないので、ただ恥ずかしいだけである。


(ほんと、世の中の恋人はどのタイミングで好きって言うの?)


 この世界でほかに頼れる人がいないからリカルドと結婚しようとしているのではなく、好きで一緒にいたいからと、改めてはっきり言いたかった。それは確信している。そうでなければ、子どもを生もうとまで思えない。


 エレナはやけになって好き勝手に飲み続けた。リカルドも、なぜか対抗するように同じくらいのペースで飲み続けた。




「エレナは本当にかわいいな」


 エレナが全種類の酒の味を確かめた頃、リカルドはとろんと目が据わっていた。頬杖までついている。


「は?!」

「ほかの男に見せたくない……知ってるか、この屋敷でエレナに思いを寄せてる不届き者は多い。俺が配置変えしてるけど」

「冗談でしょ?それにリカルドに思いを寄せてる女性は多いじゃない。私、何度かリカルドをじっと見つめてるメイドを見たわ」


 勘違いで配置変えされた誰かがいるのかと、エレナは眉を下げた。


「俺は腕力も魔力もあるからいいけど、エレナは違うから心配なんだ」


 はあ、と悩ましいため息を吐き、リカルドは脈絡なくシャツの胸元のボタンを外し始めた。


「な、何してるの?」

「暑いから……」

「ここで脱ぐのはまずいでしょう?寝室に行こ?ね?」


 何かがおかしいと思いつつ、エレナは熱心に寝室へと誘った。リカルドは純粋な少年のようにこくりと頷き、立ち上がった。


「行こうか」


 リカルドの足元は覚束ないが、エレナをエスコートしようとしていた。その手を取り、ダイニング室を出て階段を上がり、連れ立ってリカルドの部屋に到着する。


 エレナはリカルドの部屋には初めて入ったが、扉からすぐの部屋はソファやテーブルがあり、奥の方に寝室に続く扉があった。調度品の雰囲気は違うが、エレナが与えられている部屋とほぼ同じ作りである。


 主人と同格の部屋を使わせてもらっている意味を、エレナは思った。


「こっちに」


 リカルドは大きなソファに座り、横の座面を軽く叩いた。エレナは勧められるがままとりあえず座ってみて、手持ち無沙汰の手でスカートの皺を伸ばした。


 リカルドは、腿の上で血管が浮き出るほどかたく拳を握っていた。


(力が入りすぎてる……なぜ)


「ごめんな」


 エレナの疑問をよそに、唐突にリカルドは謝った。


「何のこと?」

「俺がこんなで……」

「やだ、酔うと愚痴っぽくなるの?」


 エレナのからかいに乗らず、彼はやはり唐突にエレナの手にキスをし始めた。指先、関節、手の甲と感触こそ軽いが、触れたところが熱を持つ情熱的なものだ。


「あの……酔っぱらいすぎ」

「エレナに触れたくて仕方ないんだ。俺はエレナの手が好きだ」

「また荒れ始めたけど」


 廃人になっていた間はともかく、また料理に携わるようになるとどうしても荒れてしまう。エレナは手を引っ込めたかったが、リカルドが放さなかった。


「いいんだ。努力家で、人に幸せを与えられる手だ。この火傷の跡も、全部、好きだ。お前ががんばって生きてきた証だと思う」


 手首にある古い火傷の跡を撫で、リカルドは酔っているにも関わらず滔々と語る。今考えたものではなく、ずっと思っていた証明になっていた。


「エレナが作り上げた、エレナという人が好きだ。エレナは元の世界でも、こっちの世界でも、立派にやっていける人だよ。みんなに愛される人だし、積み上げてきた技術や知識がある。なのに俺がこんなだから、エレナの夢と自由を奪ってしまっている」


 静かに涙を流しながらリカルドは続けた。


「でも俺はエレナじゃなきゃダメなんだ」

「私もあなたじゃなきゃダメだと思う」

「俺がどれだけ愛してるか知らないだろう、俺は……」


 感情を抑制できないようで、リカルドは言葉に詰まった。エレナは戸惑い、彼の金色の瞳を覗いた。吸い込まれそうな瞬間があった。かすかな恐怖と、もっと見てみたくなる欲望が揺れる。


「エレナの好きなように生きて欲しいのに、一緒にいて俺を見ていないとき、苦しくて仕方ないんだ。俺をもっと見て、俺のことだけ考えて欲しい」


 エレナの両頬を包むように触れ、リカルドは誘った。幻惑の魔法でも使われたかのようにエレナは目を逸らせなくなった。


(これ……開けちゃいけない箱とか、覗いちゃいけない深淵じゃない?)


 酔いで理性を失ったリカルドは、隠していた奥底の感情を吐露し始めている。この男を酔わせてはいけなかったかとエレナは思った。


 リカルドは精神的な深い傷をいくつも持っていた。日頃の強気な言動は自分を奮い立たせるためで、どこか演じるように日々を生きている。彼と過ごすうちに、エレナはそのように理解していた。


 そんなリカルドの仮面がポロポロと、涙と共に剥がれ落ちていた。

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