その後 3
エレナは心の中で、リカルド、とつぶやいた。今や彼の名前を呼ぶ存在は数少ない。
しかし王太子妃クリツィアが、気軽にリカルドと呼ぶのはよい気分ではなかった。自分は昔からの、気心の知れた幼なじみだとアピールされているようなのだ。
「あなたは、元の世界で料理人だったそうね?」
「はい」
エレナの膝の上で組んでいた指に力が入る。向かい側に座るクリツィアの手は、真っ白で細かった。握手したときに思ったものだ。高貴な生まれで、苦労ひとつしたことがなさそうな柔らかな手だと。
(牽制するつもりなのかしら。私はリカルドに相応しくないって言うつもり?)
そう言われたら何て返そうかとエレナは臨戦態勢に入っていた。だがクリツィアは、自信なさげに眉を下げた。
「教えて欲しいの……食べても太らない料理ってあるかしら?」
「え?」
予想外に頼られて、エレナは自分を恥じた。
(いい人だった)
「ええと、そうですね、脂質や糖質を控え、たんぱく質を多めのメニューが良いとされていますが」
痩せたいのに、先程は甘いものをあんなに食べて大丈夫だったのだろうかとエレナは答える。
エレナは一度、太りすぎてこれはいけないとダイエットをしたことがある。そのときの食事についての知識はあった。
「シシツ?ごめんなさいね、専門的なことはよくわからないのだけど、リカルドの前で太りたくないなんて、絶対に言えないでしょう?」
「そうですね……」
リカルドの母親が拒食を続けたことを、クリツィアは当然知っているようだった。有名な話なのかもしれない。
「クリツィア殿下は今のままで十分おきれいです」
「最近太ってしまったのよ……実は妊娠しているの」
「まあ、おめでとうございます」
エレナはドキリとしながらお祝いを述べた。王太子の子どもを妊娠している大事な体なら、あまり不用意なことを言えない。それどころか、得体の知れない自分と二人きりになっていいのかと扉の方向を見てしまう。
「でしたら尚のこと、痩せたいだなんてお止めください。御子様のために栄養は必要ですから」
さっき軽い気持ちで言ったことすら、危なかったらどうしようかと後悔していた。エレナには責任が取れない。
「いいえ、侍医に注意されたの。あまり食べすぎてもいけないって。極端に太ると、出産のときに危険なのですって」
エレナは頭を抱えたくなった。確かに、そんな話は聞いたことがある。じゃあさっきの過食は何だったのかとは怖くてとても聞けなかった。
クスッと、軽やかにクリツィアは笑った。
「呆れているんでしょう?私が、さっきあんなに食べていたから」
クリツィアは自分を嘲って笑っていた。エレナは慌てて首を振る。
「いえ、全く」
「リカルドの前なら、誰も私を食べすぎと止めないから、そのためだけに招いたのよ。だってあんなときじゃないと私はケーキを食べさせてもらえないの」
いわゆる、計画的犯行だったとエレナは理解した。リカルドが宝物庫の閲覧許可を申請したのは数日前だ。クリツィアはリカルドの動向を調査していたのだろう。
「私をいやしいと思ったでしょう?あんなにたくさん食べて……」
「全く思いません。私は職業柄、たくさん食べる人を見ると嬉しくなるんです。私の視線が気になったのなら謝ります」
エレナは信じてもらおうと必死だった。よく食べるなあとは思ったが、いやしいだなんて、あり得ない感想だ。
「でも、いつも何か食べたくてたまらないの。ふとあれが食べたい、と思いついたら唾ばかり出て、気持ち悪くて、おかしくなりそう」
「殿下……」
クリツィアのコバルトブルーの瞳が潤み、涙をこらえようと何度も瞬きをする。
「私、こんなに食べ物のことばかり考えてるのに、ちゃんとした母親になれるか不安なの。赤ちゃんのために我慢しなきゃいけないのに、食べてしまったわ」
「大丈夫、大丈夫ですから」
エレナは向かい側に座るクリツィアの隣に移動して、背中を撫でた。不敬かとも思ったが、一刻も早くなだめる必要があった。純粋に慰めたい気持ちと、王太子妃を泣かせた、となれば色々と問題になりそうな心配があった。
クリツィアは黙ってエレナに寄りかかった。クリツィアの方がかなり小柄なのだ。
この小さな体に、更に小さな命が宿っているのかと、ついクリツィアの腹部を見つめてしまう。僅かに膨らんでいるのは食後であるせいかもしれないが、生命の神秘を思った。
「妊娠すると、体は目まぐるしく変化を続けるそうです。食欲や感情が今まで通りにならなくて当然です」
「そうなの?そんなこと、侍医は言ってくれなかった」
「私の元いた世界の医療はそれなりに進んでいたんです。と言っても、私は医者じゃないですけど」
だから具体的なことは言えなかった。おぼろげな知識を語るのは怖いが、少しでもクリツィアが楽になるよう、記憶を絞り出していた。
「……ありがとう、やっぱりエレナ嬢はすてきな人ね。私とは全然違う世界の人だからかしら、なぜかあなたには何でも話せちゃう。リカルドがあんなに夢中になるのもわかるわ」
「あはは……」
クリツィアがゆっくりと体を起こし、エレナの手を取った。泣きそうになっていた彼女だが、いいことを思いついたようで目をキラキラさせて笑っていた。気分の浮き沈みの激しさもまた、妊娠期のせいなのだろう。
「ねえ、あなたはいざというときの避難場所がないでしょう?もし夫婦ケンカをしたら私の宮殿に来て。私は絶対にエレナの味方になるわ」
「ありがとうございます」
親しみを込めて、エレナ、と呼ばれていた。クリツィアの提案は意外だが、嬉しいものだった。実際に頼れるほどはまだ仲良くないが、言ってくれるその気持ちがエレナの心を温めた。
しばらくクリツィアからどんなものが食べたいのか、苦手なものや食べられないものはあるのか、詳しく聞き取りをした。エレナは近いうちにリカルドの公爵邸に招くことを約束して、部屋を出た。
気づけばかなり長い時間が経っていて、リカルドはひとり、王宮内の応接室で待っていた。王太子ベネデットは忙しいようだ。
「お待たせ」
「ずいぶんお喋りしてたな。クリツィアがしつこかったんだろ?あいつは昔からキャンキャンうるさいから」
リカルドの端整な顔には心配、と書いてあった。エレナはどこから切り出すべきか口ごもる。
「クリツィア殿下は私の料理を食べてみたいって。公爵邸に招いてもいい?」
「エレナがやりたいなら。偉そうに命じられたんじゃないんだよな?」
「そんなんじゃない」
部屋にはちょうど二人きりなのだが、念のためリカルドの真横にぴたりと体を密着させて座った。クリツィアの妊娠について、リカルドにだけは伝えて良いと許可をもらっている。
「どうした?」
「クリツィア殿下は、妊娠してるんだって。それで、つわりもあって、食事に悩んでるみたいなの」
事実を伝えつつ、太りにくいメニューで、と頼まれたことは伏せた。リカルドは金色の瞳をはっと見開いた。
「そ、そうなのか。おお……変な感じだな。二人とは昔からの付き合いだから」
どんなリアクションをするのか、エレナは興味深く観察した。リカルドは自分の髪を少し触る。
「まあ、良かったな。あの二人は結婚してもうすぐ2年だから、そろそろできないと」
「……リカルドはあんなすてきなクリツィア殿下が身近にいて、何とも思ったことないの?」
「え?」
ぱあっと、リカルドの顔が輝いたのかとエレナは錯覚した。下まぶたと頬が持ち上がり、見る間に興奮に染まる。エレナはしまったと後悔した。
「嫉妬か?!」
「違う」
「嫉妬だろ!でも心配しなくていい。クリツィアは絶対にない」
自分を落ち着かせるように、リカルドは軽く胸を叩いた。しかし口元はニヤニヤしている。
「どうして?」
「昔から知りすぎてて、仔犬みたいにキャンキャンしてるイメージが抜けなくて女性としては見られない。俺は、そういう意味でベネデットはすごいなと思ってる」
「誰かに聞かれたら大変なんだけど……」
不敬すぎる発言に、エレナは扉がきちんと閉まっているか確認した。厚い扉は閉まっているが、ここは王宮である。
「そうだな、帰ろうか」
「うん」
素早く立ったリカルドの手を借りて、エレナは立ち上がった。帰るべき場所があることにエレナはひっそりと感謝した。




