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何度も戻る場所

 結局のところ、準備が整わないということでエレナの出発は翌日となった。


 リカルドはその夜、自室にこもってしまったがエレナの外出には了承を出した。


(あんな最低なことしたんだもの、私たちはもう元通りにはならないわね)


 エレナは久しぶりに頭の中が晴れていた。今まで心理的にかかっていた雲や霞のようなものがなくなり、屋敷の中や人々の顔が鮮明に見え、世の中とはこうだったかとその輪郭に酔いそうになるくらいだ。


 リカルドについては、もう考えないようにした。


 そうして翌日、2人の騎士と妙齢のメイドに伴われてエレナは公爵邸を後にした。


 馬車に乗り、転移装置のある施設まで。それから面倒そうな手続きを済ませ、馬車ごと転移装置に入る。


 首都に来るときにはよく見ていなかったが、装置は4本の柱に囲まれた円型をしていて、魔力の光を放つ石が埋め込まれ、紋様があちこちに彫られていた。


(これを見ることはもうないわ)


 エレナは、二度と首都に戻るつもりはない。


 転移は一瞬で、すぐに別邸のある海沿いの街の転移装置に到着した。馬車は静かに走り出し、エレナが頼んだ懐かしい森へと進んでいく。


 車窓から風景を眺めていたが、ふと未だに左手の薬指にある指輪の存在を思い出した。

 魔力の光がぼんやり見えるのも、リカルドから送られたこの指輪の恩恵である。


 彼の魔力はすっかり体に馴染み、手や顔を洗うときなど、生活の様々なところで活躍する。この世界で魔力は生活必需品なのだ。そして、一度リカルドの魔力を受け取ってしまったので他人の魔力は受け取れない。


 その指輪をエレナは外した。


「これ、預かってください」


 馬車の向かい側の席に座っている赤毛の騎士に指輪を差し出した。彼は、こぼれ落ちそうに緑色の目を見開く。


「で、できません!大事なものですよね?夫人の指にあるべきかと思われます!!」

「私は夫人ではありません」


 ムッとしながらエレナは否定した。婚約状態にあるものの、リカルドと結婚するは未来は絶対に訪れないのだ。


「何を仰います、未来の夫人じゃないですか」

「違います」

「ケンカされてるみたいですけど、3日も経てば怒りは冷めますよ。我らの閣下を許してあげてください」

「そんな……」

「僕もたまに夫婦ケンカをしますよ。やっぱり元は他人ですから価値観とか違いますし、どこまでいっても平行線だったりしますけど、わかり合える部分だけでも愛しいじゃないですか」


 にっこりと微笑みかけられ、エレナは勢いを失くしてしまった。同行する騎士を選んだのは当然リカルドだろう。あるいはシモーナとディミトリ夫妻かもしれないが、なかなかの人選だった。


 赤毛の騎士は愛妻家らしかった。その横にいる金髪の騎士も同様で、更に妙齢のメイドは愛夫家だった。エレナは馬車が止まるまで、彼らにこんこんと結婚の素晴らしさを説き伏せられた。


 彼らに罪はないので、当たることもできず大人しく聞き続けるしかない。もっとも、エレナの気持ちは何ひとつ変わらずむしろ、惨めになった。同じ馬車に乗る彼らには、誰かに愛されるだけの魅力を見いだせた。自分はそうではないと考えていた。


 指輪を手放すチャンスは、一度もなかった。


 そうしてるうちに、ついに馬車が目的地に着き、止まった。


 エレナは雑草の生える地面に降り立った。忘れもしない森の香りがする。ヒバやヒノキの葉から漂う清涼感のあるものと、ジメジメした土からのむわっとしたものなど複雑だ。


 小道に沿って歩けば、泉までは一本道である。騎士に前後を挟まれてエレナは歩いた。なお、メイドは馬車で待機となった。


(どうやったら騎士たちを撒けるのかしら?ううん、居てもいいか……)


 エレナは泉の前で祈りを捧げ、どうにか元の世界に帰してもらえないかと頼みに来た。


 あるいは、自分の思いを整理したかった。自分の心に正直に向き合い、呪いのせいで死んだとしても構わなかった。


 一度は立ち直ったつもりだったが、エレナの心は空虚だった。


(リカルドなら私がいなくても生きていけるもの)


 リカルドは立派な大人であり、公爵である。父を失った悲哀は十分にあるようだが、きちんと日々の義務を果たしていた。また、身辺の世話をする人々が数多存在する。どうとでもなるはずだ。


 しかしエレナは、リカルドに何もかも頼らなくてはならない。その状態が悔しくて、たまらなく感じた。なぜか彼には負けたくない思いがある。この一ヶ月ほどは甘えていたが、一生そうしてはいられない。


 考えに没頭して歩くにつれ、いつの間にかエレナはひとりになっていた。


「え?」


 前を行く騎士のブーツを見ていたはずなのに、小道のずっと先まで見通しても彼はいない。足跡すらなかった。後ろを振り返ってもやはり、騎士はいない。


「と、とりあえず先に泉に行ってるからね?!」


 誰の姿も見当たらないが、エレナは大声で叫んだ。微かな木霊だけが残響として返ってくる。


 すぐに木立が開け、小さな泉が視界に映った。青く透き通った水はそよ風に揺れ、波紋を広げていた。ダビドが再建したという小さな、白い大理石の祭壇は空っぽである。


 エレナは捧げる供物が何もないことに気づいた。用意はしてもらったのが、女性にものを持たせるわけにいかないと騎士が持っていたのだ。これでは元の世界に帰れないかもしれない。


「どうしよう」


 ドサッと倒木に腰を下ろす。久しぶりに外を歩いたので、疲労を感じていた。目を閉じて、初めてこの場所に来た日を思い出す。


(ダビデと過ごせた日々は、私の宝物みたい)


 恋愛感情ではないが、間違いなく好きだった。尊敬もしていた。たまにとぼけると途端にかわいらしかったし、病身であっても、力強く守ってくれた。


 感情の赴くまま、エレナは涙を流す。もう枯れたと思ったのに、まだ残っていた。


 一度は恋のようなものになりかけたが、あれは気の迷いだったと今ではわかる。


 もっと特別なものとしたかった。


(別に呼び方がなくてもいい。ただ好きだった、それだけ)


 ここはダビデの墓ではないが、ここでいつまでも、ダビデを弔っていたいとさえ願った。


 いつの間にか、エレナは眠っていた。


「ねえちょっと、いつまでも寝てるのよ」


 エレナの体を揺するものがいた。


「やめて、私は眠いの。もう現実はいらないの」

「起きてよ、女神がわざわざ起こしてるのよ」


 がばりと体を起こし、エレナは女神と見つめあった。


 身にまとう薄衣と緑の髪がそよそよとなびく女性は間違いなくエレナをこの境遇に追い込んだ存在だ。泉の女神らしいが、エレナにとっては邪神である。


「あ、あなたのせいで、私は……!」

「ごめんなさい、怒らないで」


 女神が白魚のような指をもじもじさせる。しかしエレナは生まれて初めて、憎さで体が震えた。人間ではない相手に効くかわからなくとも、暴力をふるってしまいそうだ。


「私を元の世界に帰してよ!」

「ごめんなさい、それはできないの」

「どうして」

「だって、私は恋と愛を司る女神だもの、愛しあう二人を引き裂くなんてできないわ」


 憎くてたまらない相手は相変わらず訳のわからないことを言う。この女神とは、基本的にまともな会話にならないと思い出すはめになった。


「誰と誰の話をしてるの?」

「あなたとリカルドに決まってるじゃない」

「変なことばっかり言って……」


 苛立ちと疲労感でエレナは頭をかいた。恋だとか愛だとかは、今のエレナにはないはずだ。自分でかけた呪いを忘れたのかと睨みつける。それに、リカルドから愛されているなどあり得ない。


 女神は何か思い出したように、ぱちりと両手を合わせた。


「ああ、恋をしたら死ぬ呪いなんて嘘よ」

「え?」

「この私が捧げ物を食べられたくらいでそんなに浅はかなことする訳ないじゃな〜い」


 しそうだとエレナは思った。そうでなければ、うっかりときめいたときの、あの失神するほどの胸の痛みは何だったのかと問い詰めたくなる。だが女神はすうっとエレナの口に指を当てた。

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