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決別

「エレナ、帰ったぞ。さあ夕食にしよう」


 慈愛に満ちた優しい声だった。一応ノックをするが、いつもエレナがまともに答えないのでリカルドは勝手に部屋に入ってくる。


 ダビドが亡くなり、既に演技をする必要はないのに、彼は親切の仮面を被ったままだ。仕事が終わればすぐにエレナの部屋にやって来て、どうにかなだめて一階の食堂に連れていき、夕食を共にするのが日課になっていた。


(もうリカルドに甘えるのは終わりにしなきゃ)


 エレナは覚悟を決め、洗面所から飛び出るようにリカルドへと駆け寄った。


「おかえりなさい。お疲れ様でした」

「えっ?!」


 勇気を出して、にこやかに出迎えたつもりのエレナだったのに、驚かれてしまい心外だった。リカルドは長身をびくつかせ、大げさにたたらを踏んだ。


「何よ、そんなに驚かなくてもいいじゃない」

「あっ……え?どうしたんだ?何だか以前のエレナみたいだ」

「そうよ。いつまでもリカルドに迷惑をかけちゃいけないと思って。今までごめんなさい。もう大丈夫だから」

「全然迷惑なんかじゃないよ、俺はエレナがいてくれたらそれでいいんだ」


 本気で心配そうに、リカルドは熱を測ろうと額に触れる。ある程度の節度は保っているが、リカルドはエレナによく触れた。存在を確かめるように、あるいは痩せすぎていないか確かめるように。そしてエレナは彼に触れられることに慣れていた。


「すごく冷たいじゃないか?!」

「それは、今さっき顔を洗ったからよ」

「ああ、そうか……」


 息がかかるほど、リカルドの整った顔面が間近にあった。思い返してみれば、あれから傷を舐め合うようにくっついて過ごしてきた。


(正気じゃなかったわ……)


 悲しみに支配されていたので妙なことにはならなかったが、同じベッドで抱き合って泣きながら眠った日もあった。泣きたいのは実の父を亡くしたリカルドではなかったかと思うが、寝付くまでずっと頭や背中を撫でてくれた。


「リカルド」

「うん?」

「今までありがとう。私たち、婚約破棄しましょう」


 これはあまりに突然で最低ではないかと自分でダメージを受けたのはエレナだ。リカルドはフン、と鼻で笑った。


「しないよ。絶対に」


 笑っているのに、リカルドの金色の瞳は大きく見開かれている。エレナは危険な予感がした。


「だ、だって、私たちはダビドを安心させるために婚約しただけでしょう」

「俺はそのまま結婚しようと言ったじゃないか」

「了承した覚えはないわ」

「特に断られた覚えもないな」

「なっ……」


 そう言われるとそんな気もしたので、エレナは反論できなかった。あのときは、リカルドの魔力を込めた指輪をもらったゴタゴタもあり否定するタイミングを失っていたのだ。そして指輪は今もエレナの左手の薬指にある。


 リカルドがすうっとその手を取った。


「大丈夫、一年後にはちゃんと結婚式を挙げるから。エレナは何も心配しなくていい」

「勝手に決めないでよ!私はここを出ていくんだから」

「だめだ、どこにも行かせない」


 今までの恩はあるが、エレナは憤った。あまりに高圧的で、一方的すぎると感じた。


「何よそれ、私をずっとここに閉じ込めるつもり?」

「それもいいかもな」

「え?」

「こんな風になって、もうエレナは外で生きていけないよ。でも俺が一生面倒見るから、大丈夫」


 目の前に立ちはだかる男が急に怖く思えて、エレナは手を引いて横をすり抜け、部屋を出ようとする。

 すぐに腕を掴み取られ、あ、と声を上げかけたときには遅かった。唇を押しつけられていた。


「んっ……」


 自分が何をされているのかわかり、エレナは頭が白くなりそうに混乱した。ベッドを共有しても何もなかったので、リカルドはそのようなことをしないと安心しきっていた。


(何で?こんなのいや)


 裏切られた気持ちでリカルドの厚い胸板を叩き、押し退けようと試みる。しかし大した効果はなく、そのうちにエレナは近くにあったソファに押し倒された。荒い吐息さえ貪るように唇が重ねられる。


 何度も肩を叩いているが、エレナは次第に力が抜けてしまった。すっかり体力が落ちていたし、そもそもリカルドを痛い目に遭わせたくない。


 リカルドの唇は少し震えていて、想像しきれない感情が溢れていた。それはエレナにとって、流される言い訳になった。


 脱力を感じ取ったリカルドは拘束をやめ、不埒な熱がこもる瞳でエレナを見下ろした。


「どこにも行くな」


 命令する口調であるのに、哀願に近かった。エレナはこんなにも激しく誰かに求められたことがなく、頷いてしまいそうになる。


(嘘でしょ)


 エレナの心臓がドクドクと鳴っている。逃れようとして疲れたせいだけではなく、ひとつの事実を知らしめていた。


(私、リカルドが好きなの?こんなことされたのに?)


 胸が絞られるように痛み、エレナは激しい恐怖に見舞われた。自分には呪いがある。まさか父を亡くしたリカルドの前で死ぬわけにはいかない。


「いやよ!!」


 油断していたリカルドの胸を突き飛ばし、エレナはソファから降りようともがいた。


「あ、あなたなんて大嫌い。乱暴な人だってよくわかった」

「ごめん、エレナが嫌ならこんなこともうしないから」

「あなたはダビドに全然似てない。傲慢で、偉そうで」


 そう言った瞬間、リカルドは傷ついたように唇を引き結んだ。のろのろとエレナの上から立ち上がり、手を差し出す。その手をパシリと払い、自分で立ち上がった。


 どれだけ恨まれようとここで去るのが最善策だとエレナは思った。


「もう私たち、おしまいよ」

「……結局、エレナも俺より父上が好きなのか」

「誰と比べて言っているの?」


 後ろ髪を引かれるようで、エレナは立ち止まって聞いた。リカルドが胸元の服を自分でクシャクシャにする。


「母上だ。母上は、俺より父上が好きだった。俺がどんなに母上を愛してると言っても、父上に愛されるために母上は食べ物を拒否し続けた」


 一気に色々な考えが頭を巡り、エレナは大きく息を吐く。悲しみに暮れて茫然自失となっていた間に、いつの間にか母親の代わりにされていたらしい。だから甲斐甲斐しく世話をしてくれた。同じ悲しみを分かち合う仲間でもなく、特に好かれてもいなかった――


 血の気が引いて、エレナは冷静になった。せめてものお礼として、エレナは彼を慰めるべく話を始めた。


「母親が自分の子どもを愛してない訳ないじゃない。夫と息子を天秤にかけて、どっちがどうなんてあり得ないわ。両方愛してるに決まってる」

「だけど」

「私は、ダビドからたくさん聞いたもの。お母様は本当にあなたを愛してたわ。少しは記憶もあるでしょう?」

「ある……」


 幸せな記憶があるから、存在を失ったときに悲しくもなるのだとエレナは思い知ったばかりだ。


「あのね、私がのいた世界では精神の病気についてよく研究されてた。そしてお母様のように、食事を拒む人は摂食障害のひとつ、病気として認められてた。病気は誰だって、本人の意志だけじゃどうにもできないでしょう」

「そう、なのか……?」


 本当のところ、エレナはそこまで摂食障害について詳しくなかったが自信ありげに続けた。


「リカルドを愛してないから食べない、ではなくて病気でどうしても食べられなかったのよ。絶対にあなたを愛してたわ」


 そうじゃなければ、リカルドがいつまでも母親に執着するはずがない。愛は見方を変えれば呪いのようで、強固に心を蝕み続ける。


 だけど、あなたはちゃんと愛される人、という言葉を飲み込んだ。別れの意思を固めようとするほど、好きな気持ちが湧いてくる。


「さようなら、リカルド。あなたなら、私よりもっといい人が必ずいるから」


 戸惑っているリカルドを置いて、エレナは部屋を出た。追っては来なかった。


 エレナは近くにいたメイドに頼みシモーナを呼んでもらう。残念なことに、エレナはひとりでは何もできやしない。リカルドの言う通り、この世界で彼から離れて生きていけそうもなかった。


 シモーナはバタバタと慌ててやって来た。


「エレナ様、どうしたんですか?大丈夫なのですか?」


 リカルドに付き添われなければ、部屋から一步も出なかったエレナがひとりで出歩いているのだ。シモーナはもっとおかしくなったのかと目をキョロキョロさせて心配そうだった。エレナは大丈夫だと、どうにか口元を笑ませる。


「もう一度だけダビドと出会った森に行きたいから、用意してくれる?」

「もちろん致しますけれど、ご主人様は?」


 シモーナは本邸に来てからはリカルドをご主人様と呼んでいた。周囲の使用人に合わせた呼び方だ。


「私ひとりで行くの」

「ああ、ええと、ご主人様に聞いてきますね。それに夕食はまだなのですよね?」

「夕食なんて、別に……」


 エレナは森に行き、例の泉の前で何もかも終わりにする予定である。

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