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旅立ち

 ダビドは苦悩を吐き出すように細く息をした。


「……だが、あるとき知人経由でヴィオレッタが事実を知った。ヴィオレッタは、信じていたものを根底から覆えされたんだ。そこからは、私がいくら言葉を尽くしても無駄だった。何もかも嘘に聞こえたんだろうな。折り悪く隣国の侵攻が始まり、私は彼女を置いて戦場に向かった」


 余計な言葉を挟まず、エレナはただ聞いていた。長い期間のことであるのに、彼の話は簡潔だった。こうやって整理して話せるようになるまで、ダビドは何度も自分の中で反芻したのだろう。グラスに浮かぶ氷がカランと鳴る。


「どうにか勝利を納め、私は1年ぶりにヴィオレッタのもとに帰った。手紙では仲直りしていたし、やっと会えたヴィオレッタはとても美しかった。私は何度も美しいと褒めた……知らなかったんだ。ヴィオレッタは私がかつて贈ったドレスが入らなくなったからと、帰還の日まで厳しい食事制限をしていたなんて。それで……」

「ダビドは何も悪くないですよ」


 久しぶりに会えた妻が美しく見えるのは当然だ。エレナはダビドがかわいそうでならなかった。思っていた通り、ダビドはひどい人間ではなかった。過失などないのに、どうして苦しまなくてはならないのか。


「慰めてくれる気持ちだけ受け取ろう。私が言いたいのは、リカルドが今後愚かな言動をしても深く受け止めないで、許してやってくれということだ。あいつは私に似ているから」

「わかりました……私だって、愚かな言動するかもしれないですし」


 エレナは泣きそうな気持ちになっていたが、それはダビドのためにならないとしてギリギリのところで堪えた。ダビドに共感して悲しくなってしまったが、泣けばダビドを無意味に苦しめるだけだ。泣きたいのは、ダビドに決まっている。


「最後にこの話を聞いてくれてありがとう。エレナのような人がリカルドの隣にいてくれるなら、私は安心だ」


 自分の番は終わったとばかりに、ダビドは水の入ったグラスを傾け、飲み干した。息を吐く様子を見守って、エレナは口を開く。


「いえ、私はダビドといるときは大人のふりができるんです。でも、実はリカルドとは上手くいきません。人間関係って不思議ですね」

「だけど好きなんだろう?」

「……そ、そうですね」


 仕方なく答えた途端、羞恥心がエレナを襲った。真実ではないはずなのに顔が火照り、首筋まで赤く染まる。


「こっちまで照れてしまうな」


 当てられたという風に、ダビドは手で顔を扇いだ。


「すみません。だからその、ダビドにはいつまでもいて欲しいんです。それで、奥様との照れちゃうような思い出話をして下さい」


 一瞬考えたダビドは、恥ずかしそうに口元を手で覆う。


「今さらのろけ話を?」

「そうですよ。私は奥様をかわいそうな人と印象づけたくありません。それに、楽しかったことをたくさん人に話すことが、一番奥様のためになるんじゃないかと思います」

「……そうかもしれないな」


 微笑むダビドだが、エレナの目には無理して作ったものと映った。


「何から話そうか。私が妊娠中のヴィオレッタのために薔薇水を作ろうと薔薇を摘んだときのこととかか?」

「どうなるんですか?」

「大体予想がつくだろう。薔薇の棘でケガをして、それをヴィオレッタが手当してくれて……」


 弾んでいる会話を木陰で聞いている者がいた。手早く仕事を終わらせたリカルドである。


 気づかれぬようにそっと、エレナの顔を盗み見る。彼女の頬は淡く染まり、喜びに口角が上がっていた。それは自分には決して見せない表情だ。






 エレナがダビドから乗馬を習い、少しずつ上達し始めたある日の朝。


 いつも通り上機嫌のシモーナに身支度をしてもらっていたのだが、その途中に慌ただしく扉がノックされた。返事をする間もなく、血相を変えた若いメイドが扉を開ける。


「大変です、ご主人様が……」


 エレナは立ち上がり、容態が悪いのかと彼のところへ駆けつけようとした。メイドがハアハアと荒い息を吐き、なぜか引き止める。


「お亡くなりになりました」


 耳を疑い、エレナはメイドを見つめた。聞き直す気にはならない。麻痺したように足が固まり、それ以上踏み出す勇気が消えていた。


「そんな……」


 シモーナが両手で顔を覆い、さめざめと泣き出した。エレナはなぜ自分は涙が出ないのだろうと不思議に思う。呆然としたままダビドの部屋へと案内された。


 別邸の一番奥に、ダビドの私室はあった。エレナは初めて足を踏み入れたが、重厚な家具に彩られた部屋だ。これまであまり意識しなかったダビドの匂いがした。


「エレナ……」


 既にリカルドがそこにいて、所在なげに立ち尽くしていた。エレナが来たことで、半歩右にずれる。


 そして飴色のソファに、姿勢よくダビドは腰掛けていた。きちんと朝の着替えを終えていて、髪も整っていた。まぶたは閉じられているが単に居眠りをしているだけで、起こせば起きるのではと考えてしまう。


 エレナはリカルドと目を合わせた。彼の金色の瞳は涙に濡れている。冗談であるはずがなかった。


 脚の力が抜け、エレナは床に膝をぶつけながら、跪くようにダビドにすがる。


「だって、まだ食べてもらいたい料理があるのに」


 出てきたのは、訳のわからない言葉だった。


「奥様の話だってまだ全部聞いてないし、乗馬だって私まだ下手くそだし、何で……」


 責めても仕方がないのに、エレナはそうとしか言えなかった。今までありがとうとか、リカルドに対してお悔やみを言わなければと、頭のどこかで思う。


 置いていかれてしまったようで、まだ温かいダビドの手に触れた。昨日までと何も変わっていないのに、何かが決定的に変わってしまっていた。彼の意志はそこにはない。涙がやっと出てきたが、何の意味もなかった。



 そこからエレナの記憶は途切れ途切れとなった。


 ダビドの遺体は棺に納められ、転移装置を使って首都の大聖堂へと運ばれた。エレナとリカルドも同じ装置で首都へと移動した。


 王弟であり、救国の英雄、元公爵であるダビドの葬儀は国王の指揮で大体的に行われた。


 エレナはリカルドの婚約者なので、居場所はいつもきちんと用意された。リカルドの隣にいさえすれば、何も問題はなく、言葉少なに多くの人へ挨拶をした。


 悲しみに暮れるエレナに、あれこれと質問する人はいなかった。


 全てが終わった頃には一ヶ月ほどが過ぎていた。エレナは首都の公爵邸に与えられた部屋で、ぼんやりと窓の外を眺めている。そこは2階の眺めの良い場所で、正門とよく整備された前庭が望めた。


 やがて馬車止めに見慣れた黒い馬車がやって来て、御者が馬に静止のかけ声を発する。リカルドが1日の公務を終え、帰ってきたのだ。


 従前から公爵としてやりこなしていたらしいリカルドだが、相変わらず多忙と見え、早朝に出かけて夕方に帰ってくる。そして、すぐにエレナの部屋に来るのが日課となっていた。


 一方のエレナは廃人のように、毎日何もしていなかった。料理さえあの日からしていない。実の母親を失ったときは、家宅の遺品整理や保険の手続きなどで忙しく、ろくに悲しむ余裕がなかった。


 しかしダビドについてはエレナは何もすることがなかったのだ。リカルドやほかの優秀な人が全てやってくれるので、ただずっと、感情に押し流されていた。


 母のときの悲しみと、父親のようだったダビドを失った悲しみが合わさり、奔流のような激しいものとなって泣き続けた。しかしどんな悲しみにも終わりはあるようで、エレナはついに涙が枯れたと感じた。


「このままじゃダメよね……」


 朝からろくに喋っていない喉はかさつき、小さな声だった。それでも思い立ったエレナは洗面所に向かい、冷たい水で顔を洗う。鏡を覗き、髪を梳かした。


 シモーナは首都に共に来てくれ、朝に夕にと身支度をしてくれるので外見はそこまでひどくはない。


 リカルドが来る前にと急いで水差しの水を何杯も飲み、迎える準備をした。すぐにリカルドの足音が聞こえてくる。

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