ダビドの独白
「何でしょう?」
公爵家に嫁ぐ者への心構えとかだったら嫌だなあとエレナの声は上ずった。ダビドは知らないが、どうせ契約婚約で結婚しないのに――などとは言えない。
「馬の乗り方だ」
「う、馬ですか?」
エレナは予想外の展開に、更に声が高くなる。公爵家ともなると、必ず馬に乗れなくてはいけないのだろうか。
「ほら、エレナは馬に慣れていないだろう。馬車に乗るときも怖がって馬をあまり見ていない」
確かにエレナは馬に乗れない。乗馬などお金持ちの趣味だと思っていた。馬車でさえ、こちらの世界に来てから初めて乗った。
馬は見慣れないし、一度暴走馬に轢かれそうになったため、恐怖心を持っている。
「……そうですね」
「初心者向けの気性が穏やかで小さめの馬がやっと手配できたから、今のうちに教えよう」
「ありがとうございます」
エレナはひたすらに感心し、感謝した。
(ダビドってすごい観察力なのね。名探偵かしら。でも)
「今のうちだなんて言い方は……」
「私が教えられるうちに、な」
ダビドは紳士的に微笑む。そういう仕草にエレナの胸は痛むが、何も言えなかった。
結局断る理由などなく、エレナはパンツスタイルの乗馬服に着替えた。これもいつの間にか用意されていて、シモーナに手伝ってもらって着替えをした。
公爵家の別邸の左手には立派な厩舎があり、その横には広い放牧場がある。エレナは今まで部屋の窓から眺めてはいたが、やって来ると爽やかな風が吹き抜け、開放感があった。
牧草の生えた柔らかな土のふみ心地もまたよかった。
だが、厩務員が連れてきた馬を目の前にすると、エレナは一気に自信がなくなった。ファリケと名付けられた栗毛の牝馬は、小さめの品種というが十分に大きい。
よく手入れされた艶のある毛並みはモリモリとした筋肉のラインを浮かせ、生物としての優位差をエレナに感じさせた。
(蹴られたら即死じゃない)
エレナの緊張を敏感に読み取ったファリケは、しきりに耳を動かしている。
「そんなに緊張しなくていい」
あとからやって来て苦笑するダビドもまた、上は黒のジャケット、下は白のパンツという上品な乗馬服に着替えていた。なのに、片腕に簡素な木箱を抱えている。
「それは何ですか?」
思わずエレナは単純な質問をした。
「踏み台だよ」
答えたダビドは、馬の右側面に踏み台という木箱を設置する。
「最終的には踏み台なしで乗り降りできるようになった方がいいが、最初は必要だろう?」
「絶対にそうですね」
馬の背中は、エレナの肩より上にある。そんなに高いところに座ろうとしたことが人生において一度もなく、エレナにとっては高い壁だった。
「私が手綱を持っているから、軽く撫でて挨拶してやるといい。大丈夫、しっかり持っているから暴れたり噛んだりしない」
「はい」
ダビドがやって来ると、ファリケはなぜか落ち着いたように見えた。馬の動作に詳しくなくても、何となくエレナにはわかった。怖がるのはむしろ良くないのだと。
「よ、よろしくね」
そっとファリケの太い首を撫でると、密度の濃い毛並みの感触と、体温が伝わった。許してくれてる、とエレナは思うことにした。
「ちょっとかわいいかも……」
「ああ、愛情を持って接すれば必ず伝わる。では乗ってみようか」
その後、おっかなびっくりでエレナは馬の背にまたがった。そしてダビドに手綱を持って引っ張ってもらう。馬の背には鞍が装着されているが、背中の筋肉が歩くに合わせて動くのがわかる。不思議な乗り心地だった。
「申し訳ないです、私だけ馬に乗ってダビドが歩いてるなんて……」
元公爵、戦争の英雄、王弟であるダビドを見下ろす形でエレナは謝った。
「はは、こういうのも楽しいよ。初めての経験だ」
馬の蹄の心地よい音を聞きながら放牧場を歩き、そのまま小高い丘へと登った。ダビドはやはり息ひとつ切らさない。
丘の頂上には、白いクロスをかけた丸テーブルと椅子が二脚あった。更に氷とミントの浮かぶ水差しとグラスまで。どう見ても、休憩のために用意していたと思われる。
「少し休憩しようか。降り方は」
「はい」
はっと気づくと、エレナが頼りにしている踏み台はそこになかった。エレナは馬上から遠い地面を心細く見つめる。
「大丈夫、まず馬にお礼を言うんだ」
「あ、ありがとうねファリケ」
「それから鞍を左手で持って、右足を上げ」
「えっ左……?右足?」
「まあ、ずり落ちる感じでいいか」
その通りに、エレナはずり落ちるように馬から降りた。ダビドがしっかりと支えたが、華麗な着地からはほど遠い。ダビドは愉快そうに笑っている。
「私、信じられないくらい下手くそですよね」
「いや、信じられないくらい筋がいいよ。上手だ」
「嘘でしょう」
運動神経はあまり良くないエレナである。言われたことを体で再現しようとすると、こんがらがってしまう。
「嘘じゃない。この調子ならすぐにリカルドと遠乗りに出かけられる」
「でもリカルドはお仕事が忙しそうなので」
リカルドと遠乗りに出かける日など想像もつかなかった。彼は公爵として多忙であるし、長い付き合いをするつもりはない。
それに、最近はリカルドと二人きりでどう過ごしたらいいかわからなくなっていた。
「ダビドは大人ですよね」
用意された椅子に座り、よく冷えた水を飲んでエレナは言った。向い側でダビドが微妙な表情になる。笑いかけて、失敗したように唇がモゴモゴとした。
「私はいくつになっても、自分を未熟だと思うよ」
「ダビドが未熟なら私なんて……」
何かわからない毛虫かな、とエレナは続けたくなる。しかしダビドの渋い雰囲気に口をつぐんだ。
「私がエレナくらいの年齢のときなど、ひどいものだった。そのためにヴィオレッタを傷つけてしまった」
「あ、えっとその」
亡くなったダビドの妻の話になってしまい、エレナは困惑する。難しくて悲しい話は避けたかった。
「ルイから大まかには聞いています。でもそれは、ダビドが戦争に出征しなければいけなかったせいですよね?」
「それだけじゃない」
ダビドは自分のグラスを遠ざけ、テーブルの上で両手を組んだ。これは、話をきちんと聞くべきときなのかとエレナは姿勢を正した。
(もしかして、乗馬は建前で本当の目的はヴィオレッタ様の話をすることだったの?)
ダビドの金色の瞳が、遥か遠くを見るものとなった。
「私とヴィオレッタはいわゆる政略結婚だった。彼女の父、ハロディ侯爵は重要な立場に就いているために私は当時の国王に結婚を命じられた」
「国王というと、ダビドの父君ですよね」
「ああ。私は幼少期から覚悟していたから誰でも平気だった。だが相手はそうでもないかと思い、舞踏会で私が惚れたふりをして婚姻を申し込んだ」
「まあ……」
乏しいイメージながら、エレナはきらびやかな舞踏会を目に浮かべる。ダビドは今でも魅力があるが、若い頃なら相当な破壊力だっただろう。それに当時は第二王子である。
そんなダビドに突然プロポーズされたヴィオレッタの心情が何となくわかった。どれだけときめき、嬉しかったか。
「いいことをしたつもりだったんだ。無邪気に笑うヴィオレッタを見ているうちに、私は本気で好きになった。彼女はこんな私を心から愛してくれたし、やがてリカルドも生まれ、幸福だった」




