懐疑
「おはようございますエレナ様、歌いたくなるお天気ですね」
シモーナは実際に歌うように節をつけながら部屋に入ってきて朝の挨拶をした。まだ寝起きでぼんやりしていたエレナとは全く違う。
「……おはようございます」
「さあさあ、朝のお支度をしましょうね」
ふくよかな体を揺すらせてすばやく部屋中のカーテンを開けたシモーナは、続きの歌を唄った。世界中に愛と花を、などというおめでたい歌詞だ。
(婚約してから、みんな幸せそう)
エレナはシモーナのご機嫌が移って、笑うしかなかった。シモーナは最初の頃より若返ってさえいる。世話をしてもらっているのはエレナなのに、なぜかシモーナの肌つやは良くなった。
シモーナだけではなく、若いメイドたちも同様だ。公爵家の給金は相当いいそうなので、安泰と存続を願う心理からなのだろう。現当主が婚約したのだから当然といえた。
(こんなこと考えちゃいけないけど、ダビドが亡くなって、リカルドとの婚約を破棄するってなったら大変ね。私は身ぐるみ剥がされて石でも投げられて追い出されるわ)
とりあえず、婚約は偽装だとばれないようにするしかなかった。
シモーナはほかのメイドも呼び、エレナを女主人のような上品なドレスに着替えさせた。簡単な服でいいと言っているのに、いつもこうだ。
階段を下りて、食堂室へ朝食を食べにいくだけなのにドレスアップするものらしい。更にエレナは薄化粧をして髪を結われた。しかしこの生活にすっかり慣れてしまったエレナがいる。
「出来上がりです、今日もお美しい……」
仕上げの美辞麗句をシモーナが振りかけていると、ノックの音がした。
「エレナ、ちょっといいか?」
それは、張りのある瑞々しいリカルドの声だ。特殊な訓練を受けたのか天性なのか、リカルドは声にまでイケメンの風格がある。
「あらあら、私たちは出ますからね、どうぞお二人でごゆっくり……」
「うふふ、お熱いですね!」
更に機嫌を良くしたシモーナとメイドたちが入れ違いで出ていき、リカルドが微妙な顔つきで入ってきた。エレナも、どう出迎えるべきかわからず中途半端に出入口まで進んでいた。結果、ドアからほんの少しのところで両者とも足を止めた。
「何の用?」
自然に問いかけたつもりが、エレナは少年のようにぶっきらぼうになっていた。
「頼んでたものが仕上がってきたんだ。受け取ってくれるか……」
「な、何なの?」
リカルドはやけに照れくさそうである。差し出されたのはどう見ても指輪を納めるような赤いベルベットの小箱で、エレナは一歩後ろに引いた。
「いいから、受け取れよ」
小箱の蓋をぱかりと開けたリカルドは、中身を見せつけた。エレナが見ると、やはり指輪だった。素材はわからないが、シンプルな金色の指輪だ。
「気持ちはありがたいけど、私は料理人だから指輪はしないわ」
「これは俺の魔力を込めた指輪だ。今まで不自由してたんだろ?これさえ嵌めれば、エレナは魔力を動力にする装置を使い放題だ。だけど」
「それは便利ね。ありがとう」
耳がピクピク動きそうなくらいにエレナはその情報が嬉しかった。気がつけば手が動き、指輪を左手の薬指に嵌めていた。
「あっ……!」
驚いたのはリカルドだった。つける指が違ったのかとエレナは何かが体に張りつく未知の感覚を受けながら首を傾げた。
「薬指じゃないの?でも指輪のサイズは合ってるし……」
「そこでいいけど、エレナはそんな簡単に決めていいのか?」
「いいって?」
つけたら一生外せない呪いの指輪かと少し動かしてみるが、そんなこともなさそうだ。そして婚約指輪についてエレナの持っているイメージもあるが、左手の薬指が一番邪魔にならない。
しかし、全身を覆う魔力の感覚が不思議だった。エレナはとある露天風呂で、湯浴み着を着て温泉に浸かったときを思い出した。
「まさか、今まで誰にも聞いてなかったのか?一度誰かの魔力を受けたら、他人の魔力はもう受けとれないぞ」
「そう、だったの?」
早とちりで手を出したのはエレナだが、つい目線に恨みがこもる。そんな一生を左右する危険物なら事前に説明してから見せて欲しかった。この世界の訳のわからなさにはうんざりしてしまう。
「……大丈夫だ。責任は取る。いつでも指輪に魔力補給するから安心してくれ。あと、ある程度馴染んだら料理中は外しても魔力を使えるからな」
その通りに馴染んだのか、変な感覚は早くも消え失せた。エレナは大変なことをしでかした気がした。なのに、リカルドは照れくさそうに、かつ嬉しそうにしている。
(まあ受け取られて悪い気はしないでしょうけど。どうして今まで誰も私に教えてくれなかったの?)
何をするにも親切で気遣いのあるダビドでさえ、教えてくれなかった。シモーナだって、ルイだって、何も言わなかった。ただ、もしかすると当たり前すぎて忘れていたのかもしれない。常識を知らない人に事前に教えるのは難しいことだ。
「リカルド、どうして私にこの指輪を渡そうと思ったの?」
しかしリカルドは知っていて、用意した。一生魔力の補給をしてくれるつもりなのか、不思議だった。
「この関係を続けるべきだと思ったからだ。エレナはこの世界で、どこにも根を下ろしていない。せめて俺と、ずっと縁があってもいいじゃないか」
根なし草だと指摘されて、エレナは押し黙った。この世界に限らず、以前いた世界でも似たようなものだったのだ。両親を亡くして、親しい人もいなかった。
「すぐにとは言わないが、このまま結婚しよう」
「リカルド……」
朝なのに疲労感がこみ上げ、エレナは指輪を力なく見つめた。演技力に自信があると言っていたリカルドは自分自身でさえころっと騙してしまったのではないか。
あるいは、もうすぐ父が亡くなる恐れと、寂しさ故におかしくなっているのかもしれない。
(傷ついたワンちゃんみたい)
最初は敵意をむき出しにしていたのに、今のリカルドは瞳を潤ませて愛を乞うている。
そのとき、救いの声が耳に届いた。扉の外側からだが、メイドがそっと声をかけた。
「お話中失礼いたします。そろそろ、食堂に下りてきて下さいますか?ご主人様がお待ちかねです」
話は一旦保留となり、指輪をつけたままエレナは部屋を出た。食堂で目敏く指輪を見つけたダビドは笑っていた。
朝食後、エレナはルイに相談しようと厨房に駆け込んだ。別邸の料理長ルイは、若いが心穏やかな人物である。一緒に料理をするうちに信頼関係を築いていた。
「ルイ、ちょっと聞いていいですか?」
「何でしょうか?」
ルイは上機嫌で大鍋をかき混ぜながら答えた。彼はテリーヌに使うゼラチンを豚の骨や皮から抽出している――エレナが教えた知識である。この世界に、既に精製したゼラチンは売っていない。
「リカルドから、魔力を補給できる指輪をもらいました」
指輪は部屋にしまってきた。だが、エレナは今までとは体の感覚が違っていた。ルイがふふんと抑え気味に笑う。
「見ればわかりますよ、リカルド様の魔力を纏ってますから」
「見えるんですか?何だか恥ずかしいんですけど」
「ロマンチックでいいじゃないですか。人は支えあうものです。私やエレナ様が料理を作って好きな人に食べてもらいたいというように、リカルド様もできることをしたいとお考えなのです」
ルイは鍋から目をはなさずに語った。それでも魔力が見えると言うし、世の中についても見通していそうな雰囲気である。
エレナは冷たい調理台に少し体重を預けた。精神的に重苦しくて、きちんと立っていられない。
「私は料理くらいしかできません。リカルドは何でもできるし、何でも持っている人です。今、こんな状況だから私に優しくしてくれますが、例えば首都に戻れば私なんてどうでも良くなるんじゃないかと……」
ルイなら何か上手く励ましてくれるのではないかと、エレナは心の不安を吐き出してしまった。
「それはないですよ」
案の定、ルイはきっぱりと不安材料を切り捨てる。




